氷に乗り新宿上空に現れた時点で、
だが、裏梅は戦線復帰を諦めなかった。欠損した四肢や体表を氷で補い宿儺の元へ馳せ参じる、執念にも似た忠義の心。そんな裏梅だからこそ、新宿を一瞥しただけで気付いた――無二と仰ぐ主の危機に。
従者に過ぎない己が主の窮地を救うなど傲慢ではないのか。いや、劣勢の原因は受肉体であることその一点であるはずで、それを補う目的での助勢ならお許し下さるのではないか。
脳内を廻るあらゆる理屈はしかし、激しい感情の前にその一切が棄却される。
呪いの王への忠義、敬愛。
その敵達への憎悪、否定。
そして、主の飢えを満たす強者への、ほんの少しの――。
かくして、偽れぬ己の心に従い。
1000年を忠義に生きた従者は、主人の為に命を捧げた。
『
「命を懸けた縛り」によって術式能力を底上げした裏梅による、超広範囲瞬間凍結。
禪院真希が効果範囲外から逃れるよりも東堂葵がビブラスラップを叩くよりも、何よりも早く冷気が新宿の隅々まで駆け巡り。
冷気は氷河を思わせる無数の氷山となり、高専術師たちを氷に閉じ込めその動きを封じた。
氷の棺から独力で脱する手段を持っていたのは、2人。
『
「(こりゃ出し惜しみしてられる状況じゃねえな……体温:81倍!)」
術式で体温を摂氏3000度まで上昇させ氷を融かすことが出来た九々等八壱。
ばしゃ、と氷を溶かし着地した九々等は、すぐに気付く。
「(! 裏梅本人の呪力が感じられない……)」
「九々等!」
「――ああ!」
虎杖の呼びかけにより、過ぎりかけた何らかの感情を押し込め。
先に駆け出していたその背を追うように、九々等もまた宿儺の元へと駆け出した。
目配せで共有した彼等の目的はひとつ。
――宿儺を攻め立てて注意を引き、身動きが取れなくなった皆にその牙が向かないようにする。
氷漬けになった味方は5人。2人で全員を助けるよりも、宿儺に攻撃される方が早いだろう。故にまずは宿儺を相手取りその動きを止め、その間に高専に待機している味方に救助してもらう。
その動きは自他の手札を鑑みれば考え得る限りの最善手であり、動き出しの速度も申し分なかった。
だが。宿儺と距離を詰めた虎杖悠仁と九々等八壱は、見た。
――怒髪衝天。
四つ目全てが憎悪の炎を宿し、ふたつの口が憤怒に歪んだ、見紛いようもない鬼の形相を。
ぞわ!! と、固めていた決意を揺さぶられる程の恐怖。
羅刹の如き視線に睨まれ、宿儺の元へと辿り着く前に身が竦み足が止まる。
それは。まるで全身に刃物を押し当てられたような、純粋な生存本能による硬直であった。
理性ではなく本能が叫ぶ――これ以上近付けば、死ぬ。
だが……それが間違いであったことを、2人はすぐに知る事となる。
「あれは――ッ!!」
目にしたのは、絶望。
両面宿儺は『81倍無量空処』の影響で脳にダメージを負い領域展開を失っていた。戦闘中の『黒閃』によるゾーン状態でも、優先したのは反転術式の復活。故に彼は五条・九々等との初戦からずっと、領域展開を使用不可能な状況にあった……今の今までは。
そう――「怒り」とは、術師にとって重要な
「――領域展開」
捌き卸すは呪いの王。
今、全ては俎板の鯉と果てる――。
地獄が口を開き。現世へと顕現したのは、剥き出しとなった王の獣性。
恐ろしく、悍ましく、おどろおどろしく。異形の御廚子は地を睥睨し、その全てへと呪いを振りまく。
「近付けば死ぬ」とはとんだ間違い。
正しくは――近付かずとも、皆死ぬ。
「マズい――!!!」
その瞬間に九々等八壱を襲ったのは、人生史上最大の焦燥。
逃げ道を与えるという『縛り』で拡張されたその効果範囲は半径約200m。
だが氷の棺に閉じ込められた術師たちには、逃げる
殺される。
凍結し身動きが取れないのは、脹相、禪院真希、東堂葵、ラルゥ、ミゲルの5人。しかも比較的近い場所で凍っているラルゥ・ミゲルを除き、冷気爆発の勢いのせいで全員の場所が広範囲に散らばってしまっている。
誰かの下に術式を使った高速移動で駆けつけ『簡易領域』を展開する……それなら庇うことは可能だろうが、その場合でも助けられるのはたった1人。それ以外の4人は殺される。
『
「(助けないと! 誰を!? 戦力で決める!? 全員助ける方法は!? 領域を――無理だ、散らばり過ぎてる! 領域を長時間維持できるほどの呪力も――どうする!? どうすればいい!!)」
それは、時間にして1秒にも満たない逡巡。思考は無限に回り脳は悲鳴を上げる。
だが、余りにも猶予が短すぎた故か、はたまたこれまでの戦闘で頭を絞り過ぎた故か。この状況で全員を助ける方法が、どうしても見つからない――!
「(どうする――)」
先程目の当たりにした
九々等は見た。
彼等が瞬間移動の術式によって、氷山に閉じ込められた術師たちの下へ現れたのを。
斯くして九々等の迷いは終わり。
領域に付与された必中の術式が発動する――。
「「「『簡易領域』!!」」」
それは、シン・陰流の「門外不出」の『縛り』から解き放たれた『弱者の領域』。領域の結界を中和し必中術式から身を守る領域対策。
氷山に閉じ込められ身動きを取れなくなった者たちの至近にてその『簡易領域』を展開することにより、必中術式を中和する空間内に入れ庇う……咄嗟の判断で、脹相は憂憂が。真希は三輪が。東堂は猪野が。そしてラルゥとミゲルは距離が近かったため、『簡易領域』の範囲が広い日下部が1人で対応していた。
そして、虎杖悠仁と九々等八壱も同様に『簡易領域』を展開。
隣り合った状態で『簡易領域』を展開することで、片方の『簡易領域』が剥がされても、もう片方を庇える盤石の構え。
「(見るからに不完全な領域だ! 何か穴がある! ここは耐える!)」
「(宿儺も前と違って領域展開中に攻撃しようとはしてこない……領域の維持に集中してる、まだ全快したワケじゃないんだ! コッチも無駄遣いできる程の呪力は残ってない、皆が耐えられてんなら無理して攻撃する理由もねえな!)」
そんな彼等の周囲、新宿の地にて。
地が。建物が。生命が。
裏梅が遺した氷山以外の遍く全てが斬り刻まれる。
万象が切断音と言う断末魔を叫ぶ、此岸に現れし等活地獄。
是なるは天災が如き呪いにして、神業と謳われる至高の術。
即ち――必中効果範囲内の全てを無差別無慈悲に襲う、残虐極まる斬撃の嵐である。
そんな荒れ狂う嵐の中心で、
「(何故俺は憤慨している……?)」
激しい怒りに狂いながら、しかし台風の目が静かであるように、彼は頭のどこかで自問する。
裏梅を喪ったことによる領域の覚醒。呪力も細かな操作が追い付かない程に溢れて来る。
だが。
「(俺に裏梅を護る気などなかった。給仕や傍仕えとしては確かに便利だったが……呪具や道具が壊れた時と同じだ。『仕方ない』、『次を探すか』……それだけだろう。それだけのはずだ。それなのに俺は何故、こうも怒るのを止められないのだ……!)」
怒り。憤り。恨み。憎み。苛立ち。
――悲しみ。
『宿儺様。御武運を』
嵐のように吹き荒れる感情の波も、今は。
「(……どうでもいい。今は只)」
――この臓腑の内で滾る「呪い」を、吐き出さずにはいられない。
呪いの王の怒りが、呪術が、世界を斬り刻んでいく。
そんな斬撃の嵐による死を辛うじて遠ざけるのは、高専術師たちの『簡易領域』。
「(耐える……! 耐えられる! これなら……)」
怒りによる
けれど、「耐えられる」と安堵したハズの九々等の内心で何かが引っかかった。
それは、宿儺との戦いで
「(待て――!)」
ぶわ、と全身の毛を逆立てる不安のままに、九々等は隣の虎杖へと叫ぶ。
「虎杖! おまえ『炎』使ってたよな!」
「!?」
「アレ宿儺の術式だろ!? 領域に付与できると思うか!?」
「――!!」
虎杖も九々等が言わんとすることを理解し、驚愕と焦燥に目を見開いた。
もしも、宿儺が『炎』を『斬撃』と同じように必中効果範囲内の全てに放てるならば。
それは熱を素通りさせてしまう『簡易領域』では防げない――!!
果たして、不安が現実になるかのように。
呪いの王の最終奥義は、今、正体不明のヴェールを脱ぐ――。
「『
怨敵呪殺、地獄の釜の蓋が開き。
等活地獄は一瞬にして焦熱地獄へと切り替わる。
『
『
渋谷に於いて魔虚羅を一撃で屠った、両面宿儺の最終奥義である――
灼熱、爆発。
領域内の酸素を一瞬で喰い尽くし、尚も収まらぬ破滅の紅炎。
地は規格外の炎熱に融解し、火柱は雲を貫き天をも焦がす。
その轟炎の前では、『簡易領域』など紙の盾に同じ。火力も氷の棺ごと術師を焼き殺して余りある。
領域が消え炎が収まる頃には、宿儺は高専術師の全滅を確信し。
目を、見開く。
「(馬鹿な――どうやった?)」
炎が消え、宿儺の視界内に現れたのは――地を覆う巨大な
呪いの王が呪力によって構成されたそれが何かを判別するのは一瞬だった。
――
「(
これ程の
だが、1人だけ。こういう芸当を実現できる術式を持つ人間を、両面宿儺は知っている――!
「そうか、九々等八壱……! 術式で領域の範囲そのものを広げたか――!」
領域の効果範囲:9倍。
数分前、領域展開で虎杖を強化した九々等八壱は術式復活後、まず僅かな呪力を火種にした呪力回復速度:9倍で呪力の自己補完量を増大させ短時間で最低限の呪力を捻出、その後は後衛で援護に徹しながらも呪力回復速度:81倍をフルで回し続けていた。
その状態で約5分弱。これにより九々等の呪力量は最大値の1/4程にまで回復していた。
『
領域の効果範囲:9倍は領域を介さず自身に付与、そして余ったもう9倍を使い領域に必中術式を付与することによる、自身の領域内部での『伏魔御廚子』の必中効果の打ち消し。
そして五条悟との共闘で見せた、本来内側からの攻撃に強い領域の対内条件と対外条件の逆転。更に効果範囲を広げたのは術式の効果ゆえ、領域外殻の強度も殆ど落ちていない。
これらの要素により九々等八壱は、高専術師全員を己の領域で覆い『
二度目の限界……領域外殻への高負荷と呪力切れにより、九々等の領域が崩壊し。
「――九々等、ありがとう」
「ああ……行って来い、
力尽き、地に膝を突いた九々等八壱の脇を抜け。
呪いの王の御前へと砕ける領域外殻より歩み出でるのは、元・宿儺の器、虎杖悠仁――。
熱の引き始めた焦土を駆けながら、虎杖悠仁は考える。
今自分の背中を押すものが何なのか。
自分を歯車だと言い聞かせた。何があっても役割を果たす部品だと。
だがそれを否定した九々等の言葉が、そして従者の死を前に激昂する宿敵の顔が、その覚悟の根底を揺さぶる。
そして、九々等の領域に二度接触したことで流れ込んで来た彼の感情。
地続きの生と死――例外なく死に向かう生と、他の生を歪める程の死の重み。なれば命とは、人とは、呪いとは。
『――人を助けろ』
決意、葛藤、覚悟、懊悩。
正負混ざり合う感情は、やがてひとつの呪いを織り成す。
そうして、領域展開直後の術式の焼き切れにより術式が使用困難となった宿儺を襲ったのは。
「領域展開」
一切衆生悉有仏性。
救済を此処に――。
虎杖悠仁と両面宿儺。宿敵同士だったハズの2人は、領域内に再現された岩手の地を巡りながら語らう。
役割を全うした先にあるのが「正しい死」だと思っていたこと。けれど今はそうではなく、命とは何も成せずともそれ自体に価値があると、そう信じていること。だからこそ命に価値がないように振舞う者たちを許せなかったのだと気付いたということ。
「宿儺、オマエだって怒っただろ。あの裏梅って人が死んだことに。だから分かってくれるかもしれないって思ったんだ」
「……くだらん。確かに幾分か腹は立ったが、物が壊れた時と同じだ。貴様が街が寂れていく様を受容したように、『まあそうだろうな』、だから、なんだ」
「……それ、本気で言ってんのか?」
「……」
宿儺は答えなかった。
代わりに彼は、この後に及んで対話を選んだ虎杖の選択へ呆れを見せる。
「……敢えて言うなら。貴様の腰抜け具合に唖然としている。俺に対する怒りや憎しみはその程度のものだったのか?」
しかし。
問うて……気付く。
「小僧、まさか貴様……俺を憐れんでいるのか? 情けをかけようとしているのか……?」
史上最強の術師、1000年祓えなかった呪い、まごうことなき呪いの王に……虎杖悠仁は告げる。
「――そうだ宿儺。俺はオマエを殺せる。
伏黒を解放しろ、もう一度俺の中に戻るなら殺さないでやる」
「ッ、勘違いも甚だしいな、八つ裂きでは済まさんぞ小僧……! 貴様の首の前で、貴様の言う価値のある人間とやらを皆殺しにしてやる……!!」
そして、宿儺は『
人と呪い。最後の戦いが、始まる。
「(小僧には『領域からの脱出』を既に見せている。故に小僧は領域外に九々等八壱含む戦力を残したのだ……『領域からの脱出』を果たした俺を奇襲させるために。だがそんな回りくどい領域対策を選ばずとも、俺にはもう領域という手札がある。術式さえ復活すればすぐさま領域を展開し、小僧の領域外殻ごと外の連中を斬り刻んで鏖殺できる……!)」
領域内での戦闘。
術式が使用困難なうえ、『
『
初めて使用する慣れない領域展開、『縛り』により術式対象を「
両者術式が使えない状況での、純粋な殴り合い。
その趨勢は宿儺の方に傾いていた。その理由は主に、虎杖悠仁の内心の葛藤にあった。
脳の
「――オマエが居ないと寂しいよ、伏黒」
『
それにより勢いを取り戻した虎杖悠仁の猛攻に、宿儺はリスクの高い焼き切れた術式の再生を行い。
宿儺が再度領域を展開しようとした瞬間。
「オッパッピーだよ馬鹿野郎!」
植物状態から奇跡的に復活を果たした
彼等の活躍によって『彌虚葛籠』が破壊され、『魂の境目を斬り裂く』必中術式が宿儺を襲い。
『黒閃』!!!
虎杖悠仁渾身の『黒閃』が、遂に呪いの王の首へ届いた。
衝撃が宿儺の魂を痛烈に叩き、必中術式によって切れ目の入った呪物と器が剥がれていくのと同時、限界を迎えた領域が崩れていく。
決着――勝利を確信した虎杖悠仁は、そのまま一層の力を込めて拳を振り抜こうと――。
瞬間。
崩れる領域外殻の中を飛び込んで来たのは、九々等八壱。
その必死な様子に何事かと一瞬動きの止まった虎杖悠仁へ、彼は叫ぶ。
「虎杖! 早くトドメを――!!」
「!?」
予想外の言葉に戸惑う虎杖。
その意識が外れた瞬間を狙ったのか、それともただの偶然か。
器から剥がれかけた呪物の魂を縛り付けたのは、彼にかけられた歪んだ呪い。
それによって呪いは何とか器にしがみつき、踏み止まり。
ギリギリで伏黒恵の口を操って、両面宿儺は宣言する――。
「――
それは、今は亡き術師が遺した見果てぬ夢。
比喩でなく世界を滅ぼしうる特大の呪いが、今。
死滅回游〈
天元による人類との超重複同化の発動権は伏黒恵が持つこととする