博毒詰め合わせ   作:藍繕なつき

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アズリウスがドクターに告白するお話。


毒物の恋

 執務室には、いつも彼女がいた。

(ごきげんようドクター。今日は何をなさいますの?)

 アズリウスは自分の秘書としての役目を快く引き受けて、自分の業務を補佐するようになった。彼女が自分の私室に通うようになってから、二人で過ごす時間は増えていった。

 彼女との関係は概ね良好。そう思っていた。

(ドクターの為にお菓子を作って来ましたの。食べてくださるかしら?)

(また随分と個性的な色合いだ。)

(お気に召しませんでしたか?)

(いや、美味しいよ。)

(…良かった。また作ってきますわ。お茶もお淹れしますわね。)

 

(えっ?ド、ドクター。どうして、私の頭を撫でてくださるのですか?)

(…何となく。気に障った?)

(いえ、そんなことは…。ドクターのお望みであれば。幾らでも撫でてくださいまし…。)

 

 時には、彼女を連れて外に出掛けることもあった。

(ここは大通りで、人目につきやすい場所ですわ。私に触れても何も起きないことを、人に知ってもらう機会になると思いますの。

 だから…私と。手を繋いでくださらないかしら…。)

 アズリウスは人前で彼女に触れることを求め、自分はそれに応じた。彼女の手を握り、彼女と目を合わせ、共に往来を歩いたこともある。二人の姿は、傍から見れば仲睦まじいカップルに見えたことだろう。繋がれた彼女の小さな手の平。その感触に自分は心を奪われていたし、彼女も、別れの時が来るまで繋がれた手を放すことは無かった。いくら自分が色恋沙汰に疎いとは言え〝雰囲気の良い二人〟はそこにいた筈だと思っていた。

 それが、どうしてこうなってしまったのか。

 

 

「私、ドクターの秘書を辞したいと思っておりますの。」

 そう告げるアズリウスの声は現実のものだった。いつも通りに事務作業を進め、彼女の定時が近づいていた夕刻。ふとした折に彼女から告げられた口上は、耳を疑うものだった。

 呆気に取られた自分に向けられる笑顔。いつもの彼女が見せる微笑み。

「理由、ですか。私にとってドクターの秘書という肩書は、分不相応だと思ったからですわ。それ以外に理由はありません。」

 彼女は目を細めながらそう語り、目を閉じる。

「分不相応。…なぜだ。自分はそう思っていない。他に理由があるのか。」

 アズリウスがこちらを見据えて静かに答える。

「ありません。ドクターが私のことを適任と思っていらしても、…変えられないことは、あるのですわ。」

 そう答えたきり、アズリウスは口をつぐんだ。それ以上は議論の余地がないという堅固な意思表示だった。

 なぜ、今になって分不相応などと言い出したのか。彼女の言葉に疑問を感じずにはいられない。この事務室には、自分と共に長いこと共に過ごして来たアズリウスがいた筈なのに。一体どういう風の吹き回しなんだ。もしや本当の理由は別にあるのか。

 様々な疑念が頭の中で渦巻くものの、アズリウスはとうとうその理由を語ることはなかった。アズリウスはその後口を開くことはなく、残りの業務に専念していた。

「ドクター。それでは私、お暇いたしますわ。」

 彼女の退勤時刻。その時になって、ようやくアズリウスは自分と目を合わせた。

「…ごきげんよう、ドクター。」

 なぜ…、どうして。そんなに寂しそうな顔をしているんだ。

 アズリウスの水縹色の瞳が揺れて、それを隠そうと彼女が顔を背けたことを見逃さなかった。

 彼女は自分に背を向けたまま部屋を出て行き、扉がばたんと音を立てて閉まった。彼女の足音が離れていく。部屋に残されたのは呆然としたままデスクに座っている自分と、コーヒー用に沸かしておいたお湯の沸騰音だけだった。

 

 …全てが終わった今になって思えば、この頃からアズリウスは相当な無理をしていたのだと言える。ただ、あの頃の自分は、翌日からアズリウスが傍からいなくなるという事態の重みに、ただただ呆然とすることしか出来なかったのだ。

 

 

 

 あの別れがあってからというもの、アズリウスとは仕事以外の話をすることがなくなった。任務に関する情報共有は行っているが、最低限の会話が終わった後には気まずい沈黙だけが残される。彼女は自分の会話を拒否することは無かったが、彼女の中で最低限のラインを設けているらしく、それを超える会話を避けているようだった。

 艦内で目が合った際も、アズリウスは会釈だけをしてその場を離れるようになり、こちらから確実に一線を引いている。

(……参った。)

 事務デスクで項垂れている自分の頭を叩いた。彼女が離れていったという事実が、想定以上の影響を自分にもたらしていた。端的に言えば、仕事に全く身が入らない。

 彼女の形だけの笑顔、彼女と自分との間にある分厚い壁のことを思う度に打ちのめされ、胸が痛む。

 以前までの自分は、能天気に彼女が秘書としてやってくるのを待っているだけだった。そして自分が何も気づいていない間に、何か重大な事が進行していたのだ。それが、気付かぬ間に彼女との間に大きな隔たりをつくってしまった。何故なのか。彼女を秘書として束縛し過ぎていたのだろうか。それとも。

(私の目が珍しい?ドクター。それで褒めているおつもり?)

 以前知り合ったばかりの頃に彼女に言われた言葉。こちらを呆れたように覗き込む水縹色の瞳を思い出す。ドクターは、女心が分かりませんのね。彼女はおそらくそう言いたかったのだろう。そして今も。自分は、彼女の変化に気付けないでいる。

(…彼女のことを知らなくてはならない。今日の業務は、優先すべきことを除いて後回しだ。後でアーミヤの小言があるかもしれないが。)

 深く溜息をつく。

(虎穴に入らずんば虎児を得ず、か。)

 ポケットから携帯端末を取り出し、コールをかける。

 

 

 ♠ ♠ ♠

 

 

 数か所に電話をかけた後、最後にかけた相手先が、アズリウスだった。

「承りましたわ。今回のロドス駐龍門事務所への訪問の後、現地にてドクターと合流ということですわね。」

 他ならぬアズリウスと会う約束を取り付けられたことにほっと一息つく。彼女の龍門への外勤任務に合わせて、ひとつ約束を取り付けたのだ。

 幸い自分も同じタイミングで龍門に足を運ぶ必要があった。ロドスは常に人材不足だし、ロドスにまつわる問題はいつでもどこでも常に起きている。故に、いつだって龍門に行く用事はつくれる。

「ドクターの服を選んで差し上げるという約束は、以前私の方から提案していたことですから。お断り出来ませんわ。…でも。」

 電話越しのアズリウスは一旦そこで口ごもる。

「私とドクターの二人っきり、ですか?」

「そうだ。」

「…そう、ですの。」

 彼女の声は落胆しているようにも聞こえるし、躊躇っているようにも聞こえる。頑なに自分との関わりを避けようとしていることを、アズリウスは隠そうとしなかった。二人の間にある見えない壁のざらついた手触りに溜息をつきたくなる。

 電話越しに気まずい沈黙が流れる。アズリウスは、次に続ける言葉を躊躇っているようだった。

「…私は。ドクターの秘書業務は辞退いたしましたが。」

 アズリウスが、今、自分の立ち位置を決めた、というような雰囲気で口を開いた。

「ロドスのいちオペレーターとして。戦術指揮官であり、私たちを導いてくださるドクターの為に尽くしたいという想いは、これからも変わりませんのよ。」

 アズリウスの柔らかい声が耳に残る。それは、彼女の本心からの言葉のように思えた。柔らかくも毅然とした口調には、アズリウスのたしかな想いが込められているように感じたから。

「私、ドクターには感謝してもしきれないのですから…。」

 それが彼女の出した結論のようだった。自分の秘書になれない理由がある。自分との関わりを避けなければいけない事情もある。それでもまだ、自分への想いを持ち続けてくれているのだ。

「そうか…。」

 自然と笑みが漏れた。ほっとしていた。現時点でアズリウスの想いをここまで聞けたことに満足していた。

 後は、当日中に何とか出来るだろう。

「それじゃあ、当日はよろしく頼む。

 …楽しみにしてるよ。」

 予想した通り、楽しみにしているという自分の言葉にアズリウスは少し戸惑いを見せた。

「ええ…。では、所定の日時に。」

 

 

 ♠ ♠ ♠

 

 

 ロドス駐龍門事務所。そこを待ち合わせ場所にしてアズリウスと合流した後、予め手配しておいたレンタカーに二人乗り込む。

 事前にアズリウスと示し合わせていたショッピングモールに向けて車を走らせたが…目的地は他にもあった。

「アズリウス。ショッピングモールに行く前に、一か所寄りたい場所がある。構わないか。」

「はい?どちらに向かわれるのですか。」

「あそこだ。」

 ハンドルを握りながら自分は前方右手を差した。龍門のビル街を抜けた先に見えるレジャー施設。その施設群に付随している、ひときわ大きなランドマークを指差す。

「観覧車、ですか?」

「ああ。平日の夕方は混雑もしていない。アズリウスと乗りたいんだ。買い物前にどうだろうか。」

「…分かりましたわ。ドクターが望まれるのであれば、仕方ありません。ご一緒しますわ。」

 アズリウスは思案する素振りを見せた後、諦めたように目を閉じながら承諾する。

「でも、一緒に服を見るだけでなく、観覧車に乗るだなんて。」

 …まるでデート、ですわね…

 アズリウスは助手席側の窓の方を向きながら小さく呟く。助手席の窓ガラスが、どこか哀しげな表情のアズリウスをうっすらと映し出していた。

 自分はハンドルを切り、車をレジャー施設の駐車場に滑り込ませる。

 

 

 

 観覧車の麓。搭乗列には数人が並んでいる程度だった。待つことなくすんなりとゴンドラに乗ることが出来る。

「それでは、行ってらっしゃーい!」

 陽気なペッローの従業員が暑苦しく手を振りながら二人を見送ってくれる。自分とアズリウスの乗ったゴンドラがゆっくりと上昇を始める。

 正面に座ったアズリウスは物憂げに俯いたままだ。夕焼けが彼女の桃色の髪をオレンジに染め、彼女の目元に陰をつくっている。自分はゴンドラの窓の外に目を遣る。外の方から賑やかな歓声が聞こえてきた。

「龍門の子ども達だ。」

 眼下のレジャー施設の合間を縫うように六、七人の子ども達が駆け抜ける。様々な種族の子どもが集まったグループだった。大きいアスランから、小さなザラックまで。種族の違いを越えて鬼ごっこに夢中になっているそこには、とても平和な光景があった。

「遊戯というものは、時に種族を超えた繋がりを人々にもたらしてくれる。レジャー施設というのも、同様の観点から無視出来ない意味を持ちうる。

 ロドスにおいても、戦争被害を受けた子ども達のメンタルケアの一環としてレジャー設備の拡充を検討したことがある。願わくば種族を超えた繋がりが、より深まってほしいものだ。」

「…ドクターの願うことはごもっともですわ。しかし、例えばあの子供達の集団に、そもそも入れて貰えなかった子もいるかもしれませんのよ。」

 アズリウスは昏い表情をしていた。被ったフードの内側に、冷たい刃を仕込んでいるかのように。

「事態が大きくなっていないだけで、種族間の軋轢に苦しんでいる者は少なくないと存じますわ。この世界は鉱石病の有無で大きな差別がありますが、人々を分け隔ている〝壁〟は、他にも存在するのですわ。」

「それが…。アズリウスの抱えている問題なのか?」

 とうとう自分は問題の核心に切り込んだ。

 アズリウスは俯く。沈黙。

「ここならロドスの関係者に偶然聞かれることもない。自分とアズリウスの二人きりだ。話してみてくれないか。」

 優しく諭すように問い掛ける。

「…ひょっとして。ドクターは、私の事情を知っていらしたのですか?観覧車に乗ろうと仰ったのも、私の話をさせるために?」

「人伝てに多少は話を聞いた。しかし、本人から話を聞くのが肝要だ。」

「……愚痴を、グラウとアリアに漏らしてしまったのが、間違いでしたわね。」

 アズリウスが悲しげに溜息をつく。

 アズリウスの言う通り、自分はアズリウスを買い物に連れ出す前に、彼女と親しいグラウコスとインディゴから彼女に関することを相談していた。アズリウスに起きたことについて概ねの事情を把握した後、今回の買い物の約束をアズリウスと取り付けたのだった。

 二人の乗るゴンドラは全行程の四分の一を過ぎたあたり。アズリウスの背後の景色が下方に遠ざかっていく。

「…彼女らの名誉の為に名は伏せますが、ロドスの某部署の職員ですわ。ドクターの熱心な支持者である方達です。本来、悪い方達ではないのです。私も彼らにお世話になっていたことがあります。その方達から…ドクターの秘書をやめてくれないかと、頼まれてしまったのですわ。」

 普段着のフードを被ったアズリウスは、更に小さくなってしまったように思えた。消え入りたい、という想いでもあるかのように。

 …話をまとめると、ドクターの熱心な支持者である彼らにとって、毒物であるアズリウスが最もドクターの傍にいることが、どうしても耐えられないことだった。

(なぜアズリウスが、ドクターに最も近い場所にいるの?自分達だって、命を張ってドクターの為に尽くしているというのに。)

 元々、毒を操る能力を持つアズリウスに対して良い印象を持てない職員は少なからずいた。その上、自分とアズリウスが親密な関係を築いていたことへの嫉妬が、彼らの平静さと正常な判断力を奪ってしまった。

(もしかしたら、ドクターは騙されているのかもしれない。油断しているところに寝首をかかれてしまうかもしれない。例えば、お茶に毒を仕込むとか。彼らが二人きりでいる限り、殺害のチャンスはいくらでも訪れる。ドクターがいなくなったら…ロドスはおしまいだ。その前に、手を打たなくてはならない。)

 彼らは〝毒物〟を側に置いているドクターの身を案じ、ドクターの脅威になり得る存在を無くすのがドクターの為だと信じてしまった。そして、彼らは自分からアズリウスを遠ざける手段を取った。それが、事の顛末だった。

「全ては。〝毒物〟である私が元凶なのですわ…。」

 アズリウスの組んだ両手に力が籠り、彼女の胸を締め付けるかのようにシャツに押し付けられる。

(あなたが秘書をやめなければならない理由?あなたの胸に手を当てて考えてみなさい。分かるでしょう?)

 

 

 屈しなくて良かったんだ。そんな脅しに。

「実は、アズリウスに脅しをかけた職員とはもう話をつけてある。」

 アズリウスがはっとしたようにこちらに目を合わせて来る。

「アズリウスの実際の人柄について、彼らに考えてもらう時間を設けた。そして、彼らがアズリウスに対して何をしたのか。頭を冷やして考えてもらった。それだけのことだ。アズリウスがロドス艦内に戻ってきたら、彼らは謝罪しに伺うとのことだ。」

 ここまで喋った上でひと息つく。

「アズリウスがこれ以上彼らに対して気に病む必要はないし、今後同様のことが起きないように対策を講じる。だから、アズリウスには戻って来てほしい。これからも秘書を続けてほしいんだ。」

 執務室で一緒に過ごしていた、今までのように。

「…彼らのことも、既に特定されていたのですね。その上、問題の解決までしてくださっていたなんて。」

 アズリウスは俯いた。

「ありがとうございます。流石はドクター、ですわね。」

 彼女はなぜか力なく微笑んだ。そして、再び俯く。

「でも…。ドクターの秘書を辞そうと思ったのは、私の意思でもあるのですわ。」

 

 

 気付けばゴンドラは観覧車の頂上を過ぎて、下降をしている最中だった。遠くに見える龍門のビル群が、その大きさを徐々に取り戻していく。

「なぜ。」

 アズリウスは視線を落としたままだ。

「なぜなんだ、アズリウス。」

 物憂げな表情を変えていない彼女に問い掛ける。彼女の障害は取り払った筈だった。それなのに、どうして自分の傍に戻ってくれないのか。

「逆にドクターに伺います。どうして、私を秘書にしてくださろうとするのですか。」

 アズリウスが自分に目を合わせて来る。悲しみを湛えた目。

「私は、ただの毒物ですのよ。人から最も忌み嫌われる存在。味方からも嫌われて当然の存在ですわ。誰からも慕われるドクターとは決定的に違いますの。なぜ、私なのですか。」

「それは…。」

「今回私が巻き込まれた事件は、きっかけに過ぎません。私は毒物である。私はそのことを思い出して、ドクターの傍にいるべきではなかったと気づいただけなのですわ。

 今までは、私を秘書にしてくださって、ドクターの近くに置いてくださって…。私は、そのことに甘えていました。

 ええ、甘えていただけでなく、浮かれていたのですわ…。私がドクターの傍にいることで、ドクターにご迷惑を掛けてしまうことまで考えが至らぬほどに。」

「迷惑なことは無い。アズリウスが〝毒物〟であるかどうかは自分にとって大した意味を持たない。アズリウスが、自分にとって必要な存在であることに違いは無い。それだけでは駄目なのか。」

 アズリウスはそこで一旦視線を落とした。

「駄目、ですわ…。

 私、ドクターのお傍にいるのが、辛く、なってしまったのですわ。」

 アズリウスの話し方が途切れ途切れになる。これ以上は、彼女にとって言葉にするのも辛いことなのだと訴えかけてくる。

「だって、私は…。ドクターと他の方が、雰囲気良くお話しされているのを見ているだけで…。」

 ーー この身に宿る毒がふつふつと、滾ってしまうのですわ ――

「アズリウス、それは。」

 嫉妬、なのか。自分が他の人と雰囲気良く話している様を間近で見せたことに対する、嫉妬なのか。

夕日に照らし出されたアズリウスは、顔を赤くして今にも泣き出しそうな気配すらあった。

「苦しいんですの、ドクター。私は、毒物としての私に自信がありません。私はドクターのお傍に居させて頂いているのに、いつドクターが他の方と仲良くなられて、私から遠い場所に行ってしまわれるのか、不安でなりませんの。

 本来、ドクターの傍に居させて頂けているだけでも感謝すべきことなのに。私は、醜い女の嫉妬を抑えられませんの…。」

 秘書として自分の近くにいるほど、自分が他の人と良好な関係を築いていることを目の当たりにしてしまう。そしてその度に、彼女は相手への嫉妬に苛まれてしまう。

 自分が交流を持つ相手はロドスの構成員のみならず、その外部にも及ぶ。膨大な人間関係、多様な人達の持つ様々な魅力。そんな強力なライバル達と、世界中から忌み嫌われている〝毒物〟たる自分とを比べ続けることに、耐えられない。それがアズリウスが秘書をしていた時の苦しみであり、だから秘書にはなれないと。アズリウスはそう伝えていた。

「でも、ドクターは、私にとって大切なお方です。私の運命を変える手助けをしてくださって、…こんな私の、傍にいてくださる方なのですから…」

 言葉の最後の方は涙声になっていた。アズリウスは悲しんでいた。他ならぬ彼女自身が克服したいと願っていた〝毒物〟としての自らの運命に、彼女は敗北しようとしていた。

「だから、せめて…。秘書という役目は果たせませんが、ロドスのいちオペレーターとして、私は、ドクターの為に…。」

「もういい、アズリウス。分かった。」

 無理に言葉を絞り出そうとする彼女を嗜める。彼女の水縹色の瞳は、今にも涙が溢れ出てくるんじゃないかという位に潤んでいた。頬を紅潮させて、顔をくしゃくしゃにしているアズリウス。

(すまなかった…。)

 自分は、アズリウスに秘書として一番近くにいてもらうだけで満足していた。それで彼女に対する自分の想いも伝わっていると思っていた。執務室での彼女の笑顔にたしかに偽りはなかった。でも、近くに彼女を置いているだけでは、彼女は不安になるばかりだったのだ。

(アズリウスは、こんなにも自分を必要としてくれていた。)

 自分が接する誰もに、嫉妬してしまうぐらいに。

 でも、彼女はそういった想いを自分に打ち明けることはなかった。ずっと胸に秘めていたのだ。

 紅潮した頬を両手で覆って隠しているアズリウス。彼女の激情が、身体の微細な振動から感じられる。彼女の華奢でかよわい体が、震えている。

 この観覧車に乗るずっと前。事情聴取を進めていた頃に、インディゴと電話をしていた時のことを思い出す。

 

 

【アズリウスさんは、ドクターという光を恐れているんです。人は皆、自分の正直な気持ちや心の弱さが明るみに出るのを、恐れるものですから。

 それでもアズリウスさんは、ドクターを待っている筈なんです。アズリウスさん程ドクターを慕っている人はいませんから。アズリウスさん、私といる時もドクターの話ばかりするんですよ。

 そして、アズリウスさんはロドス以外の明るい場所を知らない方です…。だから、ドクター。】

【迎えに行ってあげてください。】

 

 

 自分は目を開ける。座席に座っている、激情を必死で堪えている少女を見詰める。

「アズリウス。」

 声を掛ける。彼女が頬を覆っていた両手をゆっくりと外し、目元を軽く拭いてこちらを見る。赤く腫らした、水縹色の瞳。

 ごくりと唾を呑む。躊躇いが出る。だが、逃げないと決めた。

「自分も…。よく、孤独に苛まれる。」

 自分に似た種族がいないこと。自分の過去だけが分からないこと。自分が何者か、分からないこと。たとえ多くの人から慕われていても、誰とも共有できないことがあること。

 アズリウスは自分に注視して静かに聞いている。

「だが、アズリウスが傍にいてくれると、独りではないと思える。…安心できるんだ。」

「ドクターも…、そうなんですか。」

 自分は頷く。

「これは、自分の勝手な思い込みかもしれない。でも、アズリウスが自らの生まれつきで傷ついてきたことも、アズリウスの優しさも、背負って来た悲しみも…。全てが、どうしようもなく愛おしいんだ。だから…」

 迎えに来たんだ。

「好きだ、アズリウス。自分の、かけがえのないパートナーになってほしい。」

 

 

 観覧車の駆動音だけがゴンドラ内を響いている。アズリウスは固まったまま微動だにしない。こちらを見詰めたまま。

「…アズリウス?」

 先程のはこちらにとって一世一代の告白だった。それに対して無反応というのは、非常に居心地が悪い。

「ああ…、パートナーというのは、自分の秘書になってほしいという意味ではなく、だな。

 そう、自分にとっての代替の効かない存在であってほしいという意味であって…、いや、代替の効かないというのは人間関係で使うべき言葉でないか…。」

 明らかに無用だと分かっている解説を始め、挙句に迷走してしまう自分。

「ドクター…」

 アズリウスは俯いていて、表情はフードに隠れて見えない。きゅっと握りしめた彼女の小さな握り拳が震えている。

「本当に、私で宜しいんですか…?私は、ドクターのその言葉を、信じても宜しいのですか?」

 それは、祈りにも願いにも似た言葉だった。

「私、きっと他の誰よりも嫉妬深いですわ。私には、ドクターしかいませんもの…。あなたを独占したい想いに、歯止めがかからなくなるかもしれませんわ。」

「その場合は、アズリウスに嫉妬をさせた自分にも責任はある。アズリウスと、自分の問題になるんだ。」

「ドクターも…?〝自分の問題〟としてくださるのですか?」

「ああ。アズリウスには、自分との関係で悲しんでほしくない。苦しんでほしくない。」

 ここで自分は息を吸って、吐いた。

「…愛しているから。」

 正直な気持ちをアズリウスに打ち明ける。先ほど「好きだ」と告白した直後に「愛してる」と言うのは、世間的には重すぎると見られるかもしれない。でも、アズリウスとの関係においては、これで良いと思っていた。自分の率直な気持ちだし、この言葉を伝えることで、彼女の不安が少しでも払拭されるのなら。

 アズリウスが、一人で悩みを抱え込むことがないように。いつか、アズリウスも素直な気持ちを伝えられるような、二人の関係になる為に。今は、彼女を支えたい。

 ふと、すすり泣く声が聞こえた。正面の座席に視線を移すと、俯いたアズリウスから水滴がぽたりぽたりと彼女の膝に落ちている。

「ドクター…。」

 自分を呼ぶ声がする。胸が詰まったような声。

 何度も、何度も、アズリウスの呼び声がする。

 自分は座っていた席を立ち、アズリウスの隣に座りなおした。フード姿の彼女の肩を抱き、少しだけ体を引き寄せてやった。女の子の重みが、自分の肩口にかかってくる。

 すすり泣きが時折、しゃくりあげるような泣き方に変わる。声を押し殺しながらも、彼女は泣いていた。

 でも、この涙はきっと、彼女の孤独な過去との決別を意味しているのだろう。そう思うと、彼女から零れてかかった涙の温かさが、自分の胸に染みてくるような感覚を覚えた。

 

 

♢ ♢ ♢

 

 

 そして。ここまでアズリウスとの大事なやり取りを続けていたせいで、すっかり失念していたことがあった。

「あのー。」

 気付けばゴンドラの扉が開かれていて、外気が流れ込んでくるその先に係員の姿があった。

しまった。アズリウスとの話に夢中になっているうちに、ゴンドラは最下層まで到達していた。早くゴンドラを降りなくてはならないが、隣のアズリウスはまだ自分に寄りかかって泣いている最中だ…。

 そんな自分の逡巡を悟ったのか。陽気な係員は<なるほどね!>とでも言うかのようににこりとした。

「それでは、いってらっしゃいませ!」

 そう言って一度開かれた扉を勢いよく閉めた。バタン。再び自分とアズリウスはゴンドラに閉じ込められ、係員が決め顔でサムズアップしてくる。しっかりやれよとでも言わんばかりのウィンク。そして、彼は待機列に並んでいた客の方に向き直り、呆れた様子でいる客に対して何か説明している様子が窺えた。

「…ドクター。これは?」

 少し気持ちが落ち着いた様子のアズリウスが、目を擦りながら尋ねてくる。

「もう一周だ。係員が気を遣って、自分達を乗せたままにしておいてくれた。」

「そ、そうでしたか…。ご迷惑をおかけしてしまいましたわ。…お恥ずかしい。」

 頬を染めるアズリウス。

「もう一周した後、係員さん達と顔を合わせなくてはならないのが、今から気重ですわね…。」

 まあ、そんなに気にするなとアズリウスを嗜める。

「後で係員にはお礼をしよう。それに、折角もう一周分乗せてもらったんだ。今度は景色を楽しもうか。」

「…ええ。そうですわね。」

 アズリウスが微笑む。今度は二人、肩の触れる距離で共に座っていた。ゴンドラは再び上昇していく。

 

 

 

 二週目のゴンドラを降りる頃には日没が迫っていた。レジャー施設の敷地内は照明が点き始めていた。

「手を繋ごうか、アズリウス。」

 彼女を呼び、左手を差し出した。

「…はい。」

 アズリウスは嬉しそうに目を細めながら、そっと右手を自分の手に重ねてくる。

 手を繋いで敷地内のメインストリームを並んで歩く。

「ドクターの手。大きくて、温かいですわ。」

「アズリウスの手は、小さくてひんやりしてるな。」

「はい…。」

 しかし、この手を繋いで歩くという行為自体は、アズリウスと過去に経験していることだった。恋人になる前から経験していたことであり、新しいことではない。

(何か、より恋人らしいことをしなくてはならないな。)

 先程、これ以上アズリウスを嫉妬させないと決めたばかりだ。やはり恋人相応のことはするべきだろう。

 しかし…?急に接触を増やして、アズリウスは驚かないだろうか。おしとやかで上品な彼女に、がっついていると思われないだろうか。それに、チェルノボーグで目覚めてから数か月分の記憶、および数か月分の人生経験しかない自分が、土壇場で恋愛的な行為を実行出来るのか…?アズリウスをリードすることが出来るのか…?そんな様々な思考が頭の内を駆け巡り、急に不安が膨れ上がってしまった。

「あの…。ドクター。」

 先に声を掛けて来たのはアズリウスの方だった。彼女は自分を手をそれとなく引いて通りの端の方に誘導し、立ち止まる。

「その、私。ドクターに、今日のお礼がしたいんですの…。」

 目を伏せながら、もじもじとしながら伝えてくる。

「ドクターが今日、私をここへ連れて来てくださって。私に…告白してくださって。私は今、とても幸せですわ。本当に、どうにかなってしまいそうなくらいに幸せなんですの…。だから、その感謝をお伝えしたいんですわ。」

 俄かに緊張が走る。恋人らしいことをする段取りや心を決めようとしていたところに、まさかアズリウスに先を越されてしまうのか。自分は、臆病者になってしまうのか。

「ドクター。手を出してくださいまし…。どちらの手でも、構いませんわ。」

 そして。自分が差し出した右手を大事そうに両手で包み込んだアズリウスは、奥ゆかしくキスをした。ドクターの、手の平に。

「あの……。す、好き………ですわ……。」

 頬を染めながら、目を細めて潤ませながら。アズリウスは自分を見詰め、愛の言葉を伝えてくる。

 自分は呆気に取られていた。アズリウスに正面きって告白されたのも衝撃だったのだが、それ以前に手の平にキスされたことの衝撃もまた自分の心を捉えていた。あまり、女性から男性に手の平にキスをすることはないと聞いていたから。なぜアズリウスは、自分の手の平へキスをしたのか。

 手の平へのキス。それが意味することは〝懇願〟

(アズリウス…。)

 そのキスは、彼女の抱いている気持ちをドクターに受け入れてほしいという、彼女の〝懇願〟だったのだと気づいたその時。

 彼女は奥ゆかしくも、彼女の気持ちを自分に伝えようとしてくれていたのだと悟ったその時。

 自分の内側にあるアズリウスへの愛情が燃え上がった。

(アズリウスはそれでいいのか。それで終わりでいいのか。)

 手の平へのキスで終わりだなんて。

【私は、ドクターのことが好きでいても…よろしいですか?】

 そんな自分への懇願で終わらせるなんて。

(そんなことは出来ない。)

 そう思った瞬間、自分はアズリウスの身体を力強く抱き寄せていた。

「えっ、ド、ドクター。」

 戸惑うアズリウスを強引に自分の胸元へ引き込む。全力で彼女の体躯を抱き締める。

「……っ、ドクター…。」

 アズリウスも自分に身を任せ、目を瞑った。両腕をこちらの背中に回してくる。

「…私。誰かに抱き締められたのは、初めてですわ。親類に抱き締められたのも、もう遠い記憶。」

 アズリウスが自分の胸元に顔を埋めるのを感じた。

「私。この温もりを、ずっと求めていたのですわ…。ずっと……。ずっと………」

 それ以上彼女の言葉は続かなかった。自分の服の胸元辺りに、温かい水分が染みてくるのを感じた。

 辺りは既に暗くなり、大通りの照明だけが二人を照らしている。

 アズリウスの震えが止むまで。自分は彼女を抱き締め続けた。




下記ツイートのツリー欄に、このお話の後日談(おまけ)を掲載しました。良ければどうぞ。

https://twitter.com/AizenNatsuki28/status/1530501237317468160?s=20&t=84NpA6GLG57KMvlTDl2lLg
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