最後の方でほんの少しだけヤンデレ要素があります。注意。
自らを毒物と呼ぶ少女には願いがあった。
私は、貴方にとっての“致命傷”となりえるでしょうか。
そうすれば、ずっと貴方のお傍にいることが出来ますでしょうか。
「最近、アズリウスさんが変わってきた気がするんです。」
ロドスの昼休み。ロドス内部の食堂でたまたま席に居合わせたグラウコスがそう言った。俺はほうほうと相槌を打ちながら湯気の立つ蕎麦を啜る。
「どんな風に変わったかといえば…、とても明るくなったんです。いつも上機嫌というか…。私に対しても、全然怒らなくなったんです。
私、以前はアズリウスさんに怒られることもあったんです。たまにですけど、私がぼんやりして適当に合わせたりすると、グラウ、ちゃんと聞いてますの?って。アズリウスさんとは仲が良いですけど、アズリウスさんはぼんやりする私に対してたまに厳しいことがありました。
でも最近、アズリウスさんは私に対してもすごく優しくて。いつもにこにこしながら、すごく気を遣ってくれるんです。」
そうかそうか、と俺は内心ほくほくする。
「これは、アズリウスさんがドクターと付き合い始めてからなんでしょうか?私、そう推測したんです。」
顎に手を当てて考える素振りをしているグラウコスが思慮深げにそう言う。
「最近アズリウスさん、ドクターのことばかり話すんです。アズリウスさん、ドクターと同棲するようになったって話してくれて。ドクターに手製の菓子を作ってあげたら喜んでくれたとか、褒めてくれたとか。それだけじゃなくて、ドクターと出掛けた時の写真とか、お土産のグッズとかも見せてくれるんです。ドクターの話をする時は、いつも楽しそうでした。」
言葉を一旦切ったグラウコスが自分を見る。
「アズリウスさん、幸せなんですね。ドクターと一緒に居て。」
そう言ってグラウコスは頬を緩めた。口調はいつもの淡々とした喋り方のようでいて、声音のどこかに親友の幸せを祝福する温かさがあった。
「ああ。そうであってほしいな。」
落ち着き払った様子をグラウコスに見せながらそう言い、蕎麦を掻き込む作業に意識を向ける。ともすればにやけてしまう自分の顔を、グラウコスから見えないように伏せる。
アズリウスと付き合い始めてからおよそ半年が経とうとしていた。自分との交際がきっかけで、他ならぬアズリウスが前向きになってきたなんて。それを彼女の親友から聞く程の歓びは無いだろう。
だが、その親友の口から思いがけないことを聞くことになるのだった。
「そう言えばアズリウスさん、今日は誰かと買い物に出かける用事があるって言ってましたね。この後、ドクターとデートをする予定があるんですか?」
「…えっ?そんな予定は、聞いていない…?」
* * *
「あの、ドクター。大丈夫ですか?」
執務室に戻った自分はデスクに突っ伏し、頭を抱えていた。そんな俺をグラウコスがおっかなびっくり心配してくれている。グラウコスは俺の突っ伏している机の傍に置いた椅子に跨るように座っている。どうやら今日は休暇で暇をしていたらしい。
「問題ない。自分は今、非常に冷静だ。今までに無いくらいに冷静だ。」
「本当ですか?…今だって難しい表情をしていますし、眉間に皺が寄ってますよ?」
「大丈夫だ……理性は、溢れるくらいにあるんだ……」
そう言いながら、俺はアズリウスが誰といるのか気が気でなかった。なぜ出掛けることを自分に言わなかったのか?隠しておくべきことでもあったのか?まさか、他の男と出掛けているからなのか?
「最近、アズリウスさん人気ですよね。」
グラウコスがそんな俺の気を知ってか知らないでかそう言う。
「アズリウスさん、明るくなってから人当りが良くなったんです。ロドスのオペレーター同士の集まりにも以前より参加するようになって。そこに私も連れて行ってくれるようになったんです。私、つき合いの少ない人達の集まりに行くのには勇気が要りますから。アズリウスさんが手を引いてくれて、とても心強いんです。」
グラウコスが嬉しそうに言う。
「つまり。アズリウスの交友関係は最近広がっていて。今彼女は、他の男と遊んでいるかもしれないと、そう言いたいんだな?」
「……」
いじけた俺の言葉を聞いて、余計なことを言ったことに今気がついたという顔をする。
「い、いえ。でも、アズリウスさんがドクターの事を慕っているのは確かですよ?」
グラウコスがフォローを入れる。
「アズリウスさんがドクターに何も言わなかったのも、何か理由があるのかもしれません。」
俺は溜息をつく。
「それならいいんだが…。」
アズリウスが日に日に外向的になっていることは俺も感じていた。元々人を避けがちだった彼女が次第に眩しくなっていくのは、俺にとって嬉しい事でもある。だが、それと同時に湧いてくる不安と寂しさも無視出来なくなっていた。
彼女が俺を置いて、誰かと何処かへ行ってしまうんではないかと。
「どうしたんですかドクター。戦場でのドクターはあんなに頼もしいじゃないですか。」
グラウコスが俺に向かって言う。
「ああ…。」
これが恋ってやつなのか。急速に膨れ上がる不安が身体を侵食し、どうしようもなく押し寄せる不安の波にひっきりなしに揺さぶられている。
不安。俺は自分に自信が無い?いや、少なくとも戦場での自分についてそう思ったことは無い。あるいは自分の職責について、ロドスでの実績について。恥じるところは無い。そう思っている。
だが。自分に人としての大きな欠落があって。それを埋められない無力感があるのだとしたら。
(自分には、過去の記憶が無い。)
過去を思い出せない自分が、何者であるか分からないという恐怖。記憶を失う前の自分は、味方をも犠牲にする作戦に傾倒していたという噂。そして、この手でサルカズの希望を奪ったという疑惑。
(そんな自分であると言うのに。種族すら分からないこの俺に。ロドスのオペレーター達は全幅の信頼を寄せ、俺の意のままに動こうとする。)
― ドクターの言う事なら、何でも聞くよ? ―
― ドクターは先に逃げて、早く! ―
俺は首を振る。俺は君達の信頼に足る人間なのか?本当の俺が誰なのか、君達は気にならないのか?ロドスのオペレーター達はたやすくその心を俺に許し、その身を犠牲にしようとする。
俺は怖かった。オペレーター達から向けられる信頼の厚さが、俺を驕り高ぶった人物にしてしまわないか。そしてその信望に奢った俺が道を踏み外し、噂に聞いた通りの人物になってしまわないかと。自分の目的の為に、味方を犠牲にすることを厭わない人間になってしまわないかと。
(俺はそんなに大層な人間じゃない。脳内の演習でも無数の失敗を積み重ねているような、完璧では無い人間だ。俺はただ、自分の過去の空白を埋める為に。自分が悪しき人間で無いと証明する為に。必死で、ロドスの戦術指揮官という役目にしがみ付いてきただけだ…。)
そんな俺が、どうしてアズリウスに惹かれたのだろう。彼女と初めて会った時、開口一番アズリウスから出て来たのは〝自分の使い方をお任せする〟という言葉だった。
「毒物と呼ばれる私の力。使い方はお任せしますわ。」
それは、毒物として扱われ続けたアズリウスの在り方だった。毒物としての彼女は、使用者に自分への判断を委ねた上で、使用者の出方を見る。そもそも毒物として使われることしか出来なかった彼女は、そうする以外に選択肢は無かったのだろう。自分の意思を表に出すことは、許されなかったのだろうから。
その処世術に、彼女の人としての尊厳を蔑ろにされ続けてきた人生を感じた。
(毒物としての私に、選択権はありませんわ。)
この世界に、自分の居場所は無いという孤独。
アズリウスの背後に潜む重さと冷たさを想う時。俺は、俺の孤独と彼女の孤独とを重ね合わせていたのかもしれない。
(大丈夫。俺は君を活躍させて見せる。)
彼女と接する内に、俺はそう思うようになった。
「幾多の戦いで功績を得られて、私も本望ですわ。ありがとうございます。」
「『毒物』として負い目を感じながら生きていくより、ありのままの自分を受け入れて、運命を変えられる努力をしよう――こんなささやかな夢を叶える機会を与えてくださったのはドクター、あなたですわ。本当に、感謝してもしきれませんわ……。」
ロドスに彼女の居場所をつくりたかった。戦場で功績を上げさせることで毒物としての彼女の有用性を証明するだけではない。ロドスにいる時、君は君で良いのだと。俺はそう言いたかった。
そして、俺はアズリウスの求めるまま、彼女の手を取った。
「ドクター。もしよろしければ、皆様の前で。私の手に触れてくださるかしら。」
だが、本当に彼女の手を求めていたのは、俺の方だったのではないか。
アズリウスがその小さな手で俺の手を繋いでくれている時、俺の空っぽの胸が満たされるのを感じていた。
過去の記憶のない俺であっても、少なくとも一人の女の子を幸福に出来ているのではないかという安堵。
過去の俺と何の因果もない彼女が、部下と上司の関係を超えて、俺という人間の手を求めてくれることへの歓び。
それは、孤独な俺にとって紛れもない心の支えであり、俺の幸福だった。
(だと言うのに。どうしてこんなに惨めな気分なんだ。)
溜息をつく。俺が握り締めている携帯端末。今彼女がどこにいるのか。俺に行先を告げずに、何をしているのか。彼女に尋ねようと文面を考えては、途中でやめるのを繰り返している。
(別に、アズリウスが余暇に何をしようと、彼女の自由じゃないか…。)
俺はデスクに項垂れる。デスクに山積みになった処理待ちの書類に手が伸びない。ただ俺の頭だけが駆動を続け、アズリウスとの幸福な思い出を延々と繰り返し再生している。彼女が俺に見せた些細な一挙一動ばかりが思い出される。
歩く俺の隣に寄り添い、俺の手を握っていたアズリウスが俺の心の拠り所だった。彼女との繋がりが希薄になった今、アズリウスの掌の柔らかさが無性に恋しい。
今、目の前に書類の束しか無くなった俺は、ああ、こんなにも空虚。
* * *
それでも、俺は抱えていた今日の業務を終わらせた。自分の内に泥沼のように溜まる鬱屈には目を向けず、自分の役割に没頭することに注力した。己の空虚さに意識を向けない為に。
俺を気に掛けて部屋に留まっていたグラウも、代理の秘書として書類仕事を手伝ってくれた。
夕方になり、大方仕事を片付けたところで、携帯にアズリウスからのメッセージが届いた。
「ドクターお疲れ様です。今日はいつ頃お帰りになりますか?夕食をご用意してお待ちしておりますわ。」
見る限りいつも通りのアズリウスの文面だが、彼女が日中、外で誰と何をしていたのかについての言及はない。
(今日何をしていたか、帰って聞き出さなくては。)
「グラウコス。今日は非番なのに手伝ってくれてありがとう。お疲れ様。」
「いえ、お気になさらず。」
そっけないような様子のグラウコスだが、彼女の態度がそう見えてしまうだけで、グラウコスは決して冷たい人間ではない。
「アズリウスさんと、上手くいくといいですね。」
グラウコスはそう言って、それではと執務室を後にした。
(帰るか。)
俺も荷物を纏めて自席を起つ。いつもの帰路も、今日ばかりは足取りが重かった。
「おかえりなさいまし、ドクター。お疲れ様ですわ。」
自室に帰ると、アズリウスがにこやかな笑顔で出迎えてくれた。普段着姿の彼女からは後ろ暗さが微塵も感じられない。寧ろなぜか上機嫌な雰囲気すら感じられる。
「…ただいま。」
俺は挨拶もそぞろに玄関を通ってリビングへ向かう。俺の後方にいるアズリウスには目を向けずに、俺はリビングのソファへ向かった。
君は今日、何をしていたのか。俺の預かり知らぬところで、どこにいたのか。俺は彼女を追及しなくてはならない。気が重い。
ソファに鞄を降ろし、マスクを脱いで項垂れていた俺が、何とか重い口を開こうとしたその時。
「あの、ドクター。」
アズリウスが俺に声を掛ける。一度は台所に向かった筈の彼女がいつの間にか俺の正面にいて、両手にした何かを後ろに隠しながら立っていた。
「今日は何の日か。ご存知ですか?」
彼女は両手を後ろにしたままにこにこと問い掛けてくる。上体を傾けて、嬉しそうに。
「…何だろう。」
一通り思案を巡らせてみたのだが、思い当たる節が無い。
(ドクターは、女心が分かりませんのね。)
そんな風にアズリウスに落胆されるかと思ったが、彼女は俺の反応を予想していたようだった。そのままアズリウスはゆったりと組んでいた腕を前にし、隠していた物をすんなり見せてくれた。
「今日は、ドクターとお付き合いさせて頂いてから、丁度半年ですの…。その記念で、ドクターへのプレゼントをご用意しました。気に入って頂けるかしら。」
アズリウスから差し出されたそれは、黒い包み紙で包装された上品な小箱だった。俺は彼女の小さな手から小箱を受け取り、包みを解いてみる。
「イェラグ製の腕時計ですわ。社交の場や交渉のテーブルでお使い頂けるよう、一級品をご用意しました。日頃お世話になっている感謝の気持ちも込めて、お選びしましたわ。」
箱の中には、新品の高級ブランドの腕時計が入っていた。メタリックシルバーが美しく輝いている。
「…それでは。今日、アズリウスが買い物に出かけていたというのは。これを買う為だったのか。」
「あら。私が出掛けていたこと、ご存知でしたのね。」
驚いた様子を見せるアズリウス。
「ドクターには内緒で行くつもりでしたのに。やはりグラウに話してしまったのが、まずかったですわね。」
アズリウスが苦笑する。
「誰と行ったんだ。」
俺の硬い声音にアズリウスがきょとんとする。俺の雰囲気がまだ硬い理由に、彼女の理解が追いついていないようだった。彼女は戸惑いを見せながらも俺の問いに答える。
「エリジウムと、ソーンズですわ。男物を選ぶのですから、男性陣の意見も聞いた方が良いかと思いまして。本来こういう贈り物に詳しそうなエリジウムに来てもらうだけでも良かったのですけれど、ドクター以外の男性と二人きりになるのは避けたいと思いまして。他の男性も呼んで貰えるよう、エリジウムにお願いしたのですわ。ソーンズが来たのは少々意外でしたが。」
ここまで言って、アズリウスは初めて俺の硬い雰囲気の理由に気づいたようだった。
「もしかして。ドクター。」
俺は黙ったままでいる。アズリウスは驚いたように目を大きくしている。
「私が他の誰かと出掛けたことに、ご立腹なのですか?…嫉妬、されていたのですか?」
俺は暫く黙り込んだ。
嫉妬、していたのかもしれない。アズリウスが俺には内緒で、俺ではない他の誰かと出掛けていた事に。俺は傷ついていたのかもしれない。
「アズリウスが、事前に何も言ってくれなかったから。」
俺は目を逸らしながらふてくされてしまう。我ながら子ども染みていると思う。
彼女が明かしてくれた通り、アズリウスには俺に隠れて出掛ける理由があったのだ。そして、それは俺に親愛の証を渡す為だった。本当は、それを知った時点で俺は飛び上がって喜ぶべきだったのだ。
俺の中で今迄抱えていた不安が全て裏返り、全て歓びに変わってしまっていた。まるでオセロの駒を引っくり返したように。世界が全てひっくり返ってしまったかのように。晴れやかな気分でいるはずだった。
(だが…)
それでも、そんな喜びでさえも。俺の中に未だとぐろを巻いている、黒い感情の靄に覆われてしまっていた。アズリウスが俺に何も言わずに誰かと出掛けた事で、俺は胸の奥にしまっていた自らの影を引っ張り出してしまっていた。俺は自分の心の傷を、抉ってしまっていた。
(どうしてくれようか。)
俺はアズリウスに感謝したい。彼女が本当は俺の事を想ってくれていたのが嬉しくて堪らない。でもその一方で、「なぜ俺に隠れて他の人と会うような事をしたんだ」と彼女を責めたい。ついさっきまで、俺がどんな想いで過ごしていたと思う?もしかしたら君が俺を捨てるかもしれない。そう考えて、俺がどれだけ傷ついたと思っているんだ。
彼女からの思わぬ贈り物への感謝と、俺を傷つけた彼女を責めたい衝動。そんな矛盾する情動の狭間で揺れていたその時、驚いた表情をしていたアズリウスははっと自分の口を両手で覆った。そしてそのまま彼女は両手で顔を覆う。彼女は小刻みに身体を震わせていた。
「アズリウス?」
俺は予想外の彼女の反応に注意を向けざるを得なかった。どうしてそんな反応になるんだ。俺を傷つけたことを後悔しているのか?それとも何かを悲しんでいるのか?しかしそんな後ろ暗い雰囲気は彼女には無い。俺は自分を捕らえていた筈の鬱屈を忘れ、彼女に気を取られていた。
ふと俺は、顔を覆う彼女の両手からはみ出て見える口の端が、歪んでいることに気がついた。
(…笑っている?)
俺は気がついた。彼女は自分の顔を隠し、笑顔を隠そうとしていたのだ。自然と緩んでしまう口の端を両手で隠そうとしていた。アズリウスの体の震えも、彼女の歓喜の震えから来るものだった。
(喜んでいるのか?)
呆気に取られている俺の目の前で、彼女の震えが止まる。彼女は顔を両手で覆ったまま大きく息をついた後、落ち着いた動作で両手を外して、俺に笑顔を見せた。彼女のとびきりの笑顔。
「ご安心くださいまし、ドクター。私の心はいつもドクターのお傍にありますわ。何処へ行っても、何をしていても。私が貴方のものであることに変わりはありませんの。」
そう言ってアズリウスはソファにかけた俺の隣にぽふんと座り、俺をじっと見詰める。彼女の熱い視線。水縹色の瞳が揺れている。
暫く見詰めた後、彼女は俺にその身を預け寄りかかってきた。そして、半分独り言のようにこう呟いた。
私も。ドクターの“致命傷”になれるのですね。
アズリウスのその言葉を聞いた時、以前にも彼女とこのソファで、致命傷に纏わる話をしたことを思い出した。あの時も今と同じように、アズリウスが俺に寄りかかった体勢だった。
(生きる者には全て、弱点がありますの。)
あの時。夜も更けた頃、照明を落とした薄暗がりの中でアズリウスは吶吶と語っていた。
彼女は頭を俺の肩に乗せ、俺の掌に小さな手を重ねていた。
(どんな生物にも大なり小なり、その生き物の弱点となる個所がありますわ。それが、どのような過程を経て致命傷を受けるのか。どのようにして、生物は死に至るのか。)
そう話しながらアズリウスは上体を捻って俺の体の方を向き、俺の胸、心臓の辺りを人差し指で軽く触れる。
(そのような致命傷に関する知見を収集、整理をするのが毒理学者としての私の仕事です。ですから職業柄、つい考えてしまうことがあるのですわ。)
それは。私にとっての致命傷とは何か。
(ただし、ここでは私の生物としての弱点の話をしているのではありませんわ。たしかに、私にはフィジカル面での脆弱性はあります。しかし、今しているのはその話ではありません。この世には、自分の体を傷つけられることよりも。恐ろしいことがあるのですわ。)
ここで言葉を一旦切り、彼女は伏し目がちに言葉を続ける。
(…ドクター。)
小さな手で俺の掌を握ってくる。ぴったりと身を寄せてくる。
(どうか。これからもずっと。私の手を、離さないでくださいまし…)
彼女にとっての致命傷。
アズリウスにとっての致命傷は、俺が傍に居ない事なのだと。あの時彼女はそう伝えていた。
そして俺は思う。
俺にとっての致命傷も、アズリウスが傍に居ない事なのだと。今、気付かされたのだ。
「どうして、私が最近交友関係を広げているか。ドクターはご存知ですか?」
彼女の声が俺を現実に引き戻す。明るい部屋のソファ上で、俺に寄りかかっているアズリウスの微笑みに目を向ける。
「俺を嫉妬させるためか?」
ひょっとして、彼女はずっと俺に嫉妬して欲しかったのだろうか。
俺の答えにアズリウスはうふふと微笑んだ。俺の言葉を否定するつもりは無いようだった。
「申し訳ありません。そういった意図も、無いとは言い切れませんわ。」
「こら。」
俺はこつんとアズリウスの額を小突く。
アズリウスは少し驚いたように片手で額を押さえるが、それが俺のちょっとした仕返しなのだと気づいて苦笑する。
「本当に。ドクターが私を必要としてくださっているのは、嬉しいです。」
アズリウスはそう言ってはにかむ。彼女は毒物だから。毒物としての自分に自信が無いから。俺に必要とされるのが、堪らなく嬉しいのだろう。
「先ほどの答えになりますが。私が交友関係を広げる事が出来ているのは、ドクターのお陰なのですわ。」
ドクターが傍に居てくださるから。ドクターが私に、毒物としての運命に向き合う勇気をくださるから。
「私は運命を変える努力を出来ているのですわ。ですから、私に変化が起きているとしたら。それはすべてドクターのお陰です。ですから、そんなにご心配なさらないでくださいまし。」
そして彼女は再び俺の肩に頭を寄りかからせる。
「…私は自分の運命を変えて。もっと魅力的な人間になって。ドクターに、私の事をもっと見てほしいんですの…」
そう言って暫く黙った後、彼女は再び俺に顔を向ける。
「これでもまだ、私がドクターをお慕いしていることを信じられませんか?」
俺が何か言おうと言葉を捻り出している最中に彼女は動いた。ソファから腰を浮かし、目を瞑りながら俺の頬に顔を近づけた。
ちゅ。
彼女が奥ゆかしげに俺の頬に口づけをする。彼女の顔とおさげが俺のすぐ側にあるのを感じる。そして、更にアズリウスは動いた。
はむ。
っ、耳を噛まれた!?
俺は瞠目した。もちろん甘噛みだったが、俺の耳に軽く押し当てられた彼女の歯、唇の隙間の奥にある舌、彼女の熱い吐息を感じる。
俺の耳を噛んで少しの間圧迫した後、口を離した彼女が辛抱堪らないといった風に俺に抱きついた。
「大好きですわ…!」
呆然とした俺を抱き締める彼女の体は、歓びで震えていた。
「私のものです!!ドクターは、誰にも渡しませんのよ!」
二人きりの部屋で、彼女は声高々に宣言をする。
それは、まるでここにいないロドスのオペレーター達に向けて言っているかのようだった。
…そうか。まだ不安が拭えていなかったのか。
アズリウスの不安。誰かにドクターを盗られてしまうのでは無いかという不安。彼女は世界から忌み嫌われる“毒物”であるという引け目から、いつかドクターに棄てられてしまうのでは無いかという不安。
それが、今日俺が嫉妬した事で、アズリウスはようやく安心する事が出来たのだ。自分も、ドクターを振り向かせられる存在になれたのだと。
私は、貴方にとっての“致命傷”になりえるでしょうか。
そうすればずっと、貴方のお傍にいることが出来ますでしょうか。
俺の嫉妬も、アズリウスにとっては意味があったのか。俺は目の醒める想いでいた。
俺の今までの鬱屈も、屈託も、彼女にとって必要なことだったのなら。ようやく俺と同じ立場に立てて、アズリウスが心底喜んでいるのなら。俺の嫉妬も無駄では無かった。そう思えた。
俺は片手に持っていた黒い小箱を彼女に見せる。
「ありがとう、アズリウス。腕時計、嬉しいよ。」
素直に感謝を伝えると、アズリウスも笑顔で、ええ、良かったです、と答えた。
俺が先程まで抱えていた陰鬱な気持ちはどこへ行ってしまったのだろうか。彼女を責めたい気持ちで一杯になっていたのは、一体いつのことだったのだろうか。
今となっては俺にのしかかる重荷も無く、俺の中には彼女への暖かい想いしかない。そして、この部屋には愛し合う二人しかいなかった。アズリウスは真正面から俺とソファで抱き合っていた。ドクター、と呼ぶ声が俺の胸の中から聞こえて、俺は彼女を優しく抱き締める。
フードを降ろした彼女の首元からは、蒼色の斑点がその紋様を見せている。彼女はその斑点を人に見られることを好まなかった。普段からアズリウスがフード付きの服を着ているのは、おそらくそういった理由もあるのだろう。
“毒物”である彼女に対して良い印象を持つことは、彼女の人柄を知らない者には困難であるに違いない。現に、彼女は買い物をする為の手袋を普段から持ち歩いている。アヌーラであることを知られただけで、日常の買い物すら困難になるのだ。
(君は、普通の女の子と変わらないのにな。)
俺は彼女を抱き締めながらそう思う。少し毒を持っているというだけで、アヌーラであるというだけで。アズリウスはどれだけ理不尽な目に遭ってきたのだろう。どれだけ辛い目に遭ってきたのだろう。だから、俺はアズリウスの首元の紋様に優しく触れる。その紋様を俺に見せてくれる彼女からの信頼を、大切に思いながら。
「ドクター。」
ゆっくりと俺の胸から顔を離したアズリウスが語り掛けてくる。二人の距離は離れていない。
「ドクターが他の女性オペレーターと話している時、私も今日のドクターみたいな気持ちになりますのよ。分かりますか?」
「ああ。今日で痛いほど分かったよ。」
「うふふ…。」
ここでアズリウスは俯き、どこか彼女の雰囲気が変わったように感じた。俯いたアズリウスの表情は見えない。と思ったら徐に俺の方に目を向ける。どこかウットリとしたような蒼い双眸。
ドクター、と優しげに彼女は囁く。
「何なら。ドクターは仕事をせずに。ずっとこの部屋に居てもいいのですよ?」
「えっ?」
…突然何を言い始めるんだ。俺の想像した事すら無い事を言い出すアズリウスに困惑する。
だが、彼女の恍惚とした表情が、妖艶な視線が。彼女の本気を伝えてくる。妖しげな光を湛えた彼女の瞳から目を逸らせない。
「ドクターが他の誰とも会わないでいてくださった方が、私としても心穏やかに過ごせますわ。ご安心くださいまし、生活に必要な物資は私が届けます。大丈夫です。私が養って差し上げますから。」
子どもに優しく諭すように俺に語り掛けてくる。
…ヒモ?アズリウスの、ヒモになれと?
ヒモになることを交際相手のアズリウスに迫られているという、不可思議な状況に俺は狼狽する。
(愛していますの。)
アズリウスは耳元で囁く。吐息が感じられる距離にまで俺に迫っていた。俺は身動きが取れず硬直したままだ。
「ドクターは私のものですわ。私はドクターを独り占めしたい。私、ドクターと二人きりでも生きていけますわ。他の誰の邪魔も入らない、二人だけの場所で。私は貴方と過ごしたい…。」
うっとりとした夢見心地の表情をしたアズリウスは…美しかった。俺は、今まさに彼女に捕らえられようとしている事実を、驚きと畏怖を持って受け入れようとしていた。彼女に迫られている状況はまるで現実味が無くて。俺は逃げ場もなく、為す術もないままに…。
「冗談、ですわ。」
アズリウスの一言で、夢見心地だった俺の意識は一気に現実に引き戻された。彼女に目を向けると、目と鼻の先にまで迫っていた筈の彼女は元いた俺の隣に行儀良く座り直している。
「驚きましたか?」
穏やかに微笑みながら悪戯っぽく問いかけてくるアズリウス。俺はまたもや困惑する。さっきまでの言葉は本心でなかったのか?だが、先程までの彼女の様子はどう考えても本気だった。
「ドクターには使命がありますわ。ロドスの多くの方が、ドクターに導かれる事を望んでいます。私もその一人。そして、ドクターはそんな大勢の方の期待を裏切るような真似をする方ではありません。そうですわよね?」
先程までの妖艶な雰囲気はどこへ行ったのか。いつもの調子のアズリウスは穏やかにそう語る。
「それに、戦場で皆を引っ張る頼もしいドクターを見るのも。私は好きです。」
表情を綻ばせながらそう言った後、彼女は顔を曇らせた。
「でも、いつか。全てが終わって。ドクターが使命から解放されて。ドクターが自由になった、その時は…。」
そこで彼女は口をつぐんだ。まだこの先は言うべきでないと、そう判断したようだった。
「ドクター。これからも、よろしくお願いしますわね。」
アズリウスは俺に笑顔を見せる。
俺は自分の手の中を見る。手中にはアズリウスから受け取った黒い小箱がある。思わず笑みが零れる。
(俺が選んだ相手は…。思った以上に、大変な相手かもしれないな。)
アズリウスの独占欲の強さ。俺への想いの強さは、それこそ俺を監禁してしまいかねないくらいに強いものなのかもしれない。
(でも、実際にそうする君ではない。そうだろう?)
アヌーラであるというだけで理不尽な目に遭ってきても。人を大切に思う心を、手放さなかった君だから。
(それに。もし仮にアズリウスに捕らえられてしまっても…悪くないのかもしれない。)
俺の心の空白を、君の重すぎる愛が埋めてくれるから。
あの時。アズリウスがその手を握る事を俺に求めて来て、彼女の手を取ったあの時から。俺の心は決まっていたのかもしれない。
「愛していますわ。ドクター。」
彼女が俺に覆い被さるようにして抱き締めてくる。アズリウスの暖かい胸の中で、俺はそんな事を考えていた。
人より、少しだけ毒のある君へ。
毒入りスイーツは、俺のもの。