その少女は普段ならドクターと呼び掛けてくるはずだった。だがその時は何の予告もなく、自室の席に座っていた俺の背後からか細い両手を伸ばして俺の目元を覆った。アズリウスが俺から視界を奪ったのだ。
「ドクター」
「うわっ」
唐突に目元に当てられた冷んやりとした手の感触に俺は驚く。
「私は、誰ですか?」
悪戯っぽく問い掛けてくる。それは目隠しの定番の質問。穏やかながらも楽しげな口調のアズリウスの言葉を俺は聴いていた。
「この部屋に他に誰がいるんだ、アズリウス」
「うふふ、正解ですわ」
彼女はそう言って両手を離し、俺を解放した。すべすべとした彼女の手が俺の目元から離れる感触に一抹の寂しさを感じた後、俺の目に視界が戻ってくる。自席の後ろを振り向けば、微笑む彼女がそこに立っていた。
「どうしたんだ。随分と機嫌が良さげだね」
「こんなに早い時刻に仕事を終えて、二人で部屋にいる事が堪らなく嬉しいのですわ」
そう言ってデスクに座った俺との距離を詰めてくる。
「ドクターは何をなさっているのですか?」
「アルバムを、見ていた」
アズリウスが俺の首後ろから覗き込んでくる。
「あら。珍しいですわね」
耳元に彼女の吐息の気配すら感じる。アズリウスの顔の距離の近さに内心どぎまぎする。
過去を振り返るに、いつだかの彼女は俺の手に触れる事を切望していた。
(もし宜しければ。皆様の前で、私の手に触れてくださるかしら)
だがそれも昔の話。二人で積み重ねた時間はこのアルバムの中にあり、紆余曲折を経て俺に心を許してくれた彼女はこうして気取らない素顔を見せてくれる。先程の子どものような悪戯っぽさのように。
「ドクターは、常に前だけを向いている方だと思っていましたから。アルバムなど見ない方かと思っていましたわ」
「そんな事はないよ」
もしも俺が前だけを見ているように思えるのだとしたら、それは俺に振り返るだけの過去が無いだけなのだ。記憶喪失ゆえに俺は、ロドスの人達と築いた道標にしか俺の存在を見出す事が出来ない。それ故にロドスとの繋がりは俺にとって欠かせないものであるし、それらの繋がりの中でも取り分けアズリウスと過ごした時間は俺にとってかけがえのないものだった。
「…………」
「どうしましたの?私の目をじっとお見つめになって」
こう言ってアズリウスはかしこまったポーズを取り、かわいらしく小首を傾げて尋ねてくる。
「何かご用ですの?」
「いや。その、さ」
俺は先程の目隠しをされた時の感覚を思い出していた。どうしてか、あの感覚がずっと心に引っ掛かっていた。アズリウスに自分の自由を奪われていた感覚。そしてあの感覚が、いつだか誤ってアズリウスの毒を呑んでしまった時の記憶を呼び覚ましていた。
ある日。アズリウスがグラウコスの為に用意した毒入りジュースを、その事情を知らずにいた予備隊員の手違いにより俺が飲む事になってしまった時。体内を急速に駆け巡る毒に俺は四肢の自由を奪われ、唐突に椅子から崩れ落ちて床に昏倒した。そんな俺を見て、血相を変えたアズリウスが俺の元へ駆け寄った。
(どうなさいましたの!? ドクター、ドクターっ!!)
あの時。薄れゆく視界の中で見えた、今にも泣き出しそうなアズリウス。
(死なないで……どうか死なないでくださいまし!ドクター!)
後悔と悲嘆に暮れながらも処置に尽力するアズリウスを見ていて……俺の中の冷静な部分は、少しだけ得をした気分になってしまったのだ。
俺の為に、そこまで思い詰めてくれるアズリウスがいるのなら。俺の事をこんなにも想ってくれる人がいるのなら。愛する人の毒に倒れてしまったとしても、悪くないのかもしれないと。
その時はアズリウスの迅速な処置もあって、俺は一命を取り留める事が出来た。
寝台に横たわった俺の胸の中でさめざめと泣くアズリウスを見ていて、俺はやはり死ななくて良かったと思った。もしアズリウスの毒のせいで俺が死んでしまったら、君は一生立ち直れなくなるかもしれないから。
「ドクター?」
アズリウスの声に、俺の意識は過去の回想から現実に引き戻される。
「ああ……いや、変な頼みなんだけどさ。もう一度、俺に目隠しをしてみてくれないか」
「どうしましたの?」
不思議そうな顔をするアズリウス。そしてくすっと笑い、目を細めた。
「ドクターは変わった方ですのね。でも……そうですわね。私のような毒物をパートナーに選んでくださる方なのですから。変わっていますわ」
そう言いながらアズリウスは背を向けた俺に歩み寄り、両手を伸ばして再び俺に目隠しをする。
「どんな気分ですか?ドクター」
「そうだな」
俺の視界は奪われ、アズリウスのつやつやとした手の平が俺の目元を覆う。
「アズリウスの手が気持ち良い」
アズリウスの冷んやりとした小さな手が俺の目元を隠している。暗闇の中で、俺はアズリウスに視界の自由を奪われている。
(委ねているんだ、アズリウスに。俺の大事なものを)
俺の心は満たされていた。自分の大事な何かを委ねても良いと思える、そんな相手がいる事に。
毒物である彼女を俺は愛していた。もしこのまま、視界の自由を奪われたまま彼女に何かをされたとしても、俺はきっと後悔しないだろう。
俺の目に手を添えたままのアズリウスは黙っている。 穏やかに微笑んでいる気配がする。俺は暗闇の中で君の顔を想像してみる。きっと今の君も、いつものような愛情深い目で俺を見てくれているんだろうな。
ドクター、とアズリウスの呼び声がする。背後のアズリウスは俺の目を隠していた両手を外し、後ろから俺を抱き締めてきた。
静かながらも温かい時間が、二人の間を流れていた。