「ん、この音は……?」
「おお、珍しいな」
「……久し振りに聞いたわね」
辺りが暗くなり始めた頃。
移動都市『ヴィセハイム』の道を歩く人々が、耳に届いたその音色に次々と足を止める。
幼い頃から音楽に触れ、耳が肥えているリターニア人ですら唸らせる、ハープによる上質な演奏。
音の出所を探した人々は、とある方向へと視線を集中させた。
『ヴィセハイム』の領主、ゲルトルーデ伯爵が住まう領主邸へと。
彼女が領主になってから時折聴こえていたハープの音色は、時が経つに連れてその頻度を減らし、ここ数年は止んでしまっていた。
だからこそ彼女の音色を覚えていた住民の一部は、その演奏に懐かしさを受ける。
そして同時に、聴き入る住民は同じことを考えた。
よほど良いことがあったに違いない、と。
「……思ったより腕は落ちていないようですわね」
演奏を終えたゲルトルーデ伯爵が、ハープを片付けてから椅子へと座りこむ。
何時もなら煩わしさを感じる机の上に積まれた書類の束も、今の彼女には気にならなかった。
(疲れましたが、とても良い時間でした)
思い出すのは、今日の出来事。
ラテラーノの使者レミュアン、移動拠点『ノア』のオーナー、そして音楽家ツェルニー。
呼び出したのは自分自身だが一堂に会することは予想しておらず、更には今まで聴いたことの無い素晴らしい曲を全員で聴き、その議論をツェルニーと交わすことになるとは、彼女は思いもしなかった。
音楽に対して真摯に向き合ったのは、一体何時以来だろうか?
思い返そうとしてそれが遥か遠い過去の事であることに気付き、彼女は自嘲気味に笑う。
知らない音楽に触発されてハープを弾いてしまうくらいには、純粋な気持ちがまだ残っているという事実が、少しだけ心地良かった。
「そういえば、名前を聞きそびれましたわ」
体調に効果の有った薬について、都合してもらうことの快諾も貰えた。
今までに聴いたことの無い素晴らしい曲を、何曲も耳にすることが出来た。
悪化を感じていたツェルニーとの関係も、議論を通じて多少改善されたように思える。
薬のことも含めて、オーナー達にはお礼や対価を支払いたかったのだが、返ってきた要求はそれらに比べれば些細なものだった。
『ノア』の住民を二人ほど『ヴィセハイム』で面倒を見て欲しい、という要求。
聞けばその二人というのは、リターニアに残りたいというキャプリニーの青年とその保護者である老人らしい。
要求の小ささは気になったが、こちらの利が大きい分には断る理由も無い。
二人とも感染者と言っていたが、アフターグロー区は感染者区画なのでそちらも問題は無い。
思わず即座に了承してしまったが、名前くらいは聞いておけば良かったと、彼女は反省する。
仕事を斡旋しようにも、住居を手配しようにも、その部分で作業が止まってしまったために。
「……薬を頂く際に確認しないと」
止まってしまった書類を脇に避け、彼女はいつもの執務を再開する。
今日聴いた素晴らしい曲を、思い出しながら。
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「──お爺さんから聞きました。僕達の移住を領主にお願いしたというのは本当ですか?」
『 ハイ 余計ナコトデシタカ? 』
「いえ! そんなことはありません! ただ、その……」
『 対価ヲ気ニスル必要ハアリマセン 短イ時間ダッタトハイエ、貴方達ハココノ住民デス オ節介ヲ許シテ下サイ 』
「……ありがとうございます」
『 貴方達ノコレカラニ、幸セガ多イコトヲ願ッテイマス 』
衣食住だけではない。
悪化するばかりだったお爺さんの体調が良くなった。
頭の中で鳴り響いていた旋律も最近は落ち着いている。
誰かと共に仕事をし、学び、遊んで笑い合う。初めての体験が出来た。
唯一の趣味といえるチェロも、修復してもらったおかげで再び演奏が出来るようになった。
「……今なら」
幼い頃から頭の中で鳴り響いていた旋律は、穏やかだが調和が取れ過ぎていて、酷く空虚なものだった。
その旋律に無力さを感じ、全てが無意味なのだと突き付けられるような感覚に陥ったこともある。
だがその空虚な部分を、今なら埋められるような気がする。
受け取ったものが、多過ぎる。
だから自分も何かを贈りたい。
感謝と共に、クライデはそう思った。