テレジアに手を引かれ山小屋のような宿泊施設に戻った時、ふんわりと美味しそうな香りがした。
見れば、部屋の両端に置かれた簡素なベッド達の間、そこに置かれた小さなテーブルの上に、湯気が立っている鍋があった。
「お腹が空いているのなら、少し早いけど夕飯にしましょう」とテレジアは言って、俺に、片方のベッドに腰掛けるように促した。
二人のうちどちらかが使用しているベッドかもしれないと思い躊躇したのだが、そんな俺の心配を察したのか、テレジアは器にスープをよそいながらこちらを向く。
「アスベストスなら数日は戻ってこないから、しばらくは使っても大丈夫よ」
「いや、そういうことじゃなくて……」
「それとも、こっちの方が良い?」
「……大丈夫です」
含んだ意味も無い純粋な声音で、恐らくは自身が使用している方のベッドを指し示すものだから、俺は変に意識される前に折れた。
ギシリと音を鳴らしながらベッドに腰掛けると、少し経ってから、スープが入った器とスプーンが手渡される。
……肉っぽいものが見当たらないから、単純な野菜スープだとは思う。
俺が知ってる野菜と同じとは限らないけど……。
そんなことを考えている間に、同じように器とスプーンを持ったテレジアが、向かいのベッドに腰掛ける。
そうして何となく目が合って、それから逃げるように俺はスープへと視線を落とす。
「──いただきます」
野菜と一緒にスープを一口。美味い。
温かさも体に染みていくようだ。
「お口に合ったみたいね。……良かった」
そう言って、テレジアも食事を開始する。
しばらく食事の音だけが部屋に響いた後、おもむろにテレジアは口を開いた。
「オーナー、私はあなたの手助けをすると約束したけれど、それを理由にあなたが不自由を感じる必要も無いと思っているわ」
「話せないこと、話したくないこと、あるいは話すべきではないこと……」
「理由も事情もあるでしょう。無理強いをするつもりはないから、あなたが好きに決めて大丈夫よ」
「でもあまり、心配はさせないでね?」と困ったような微笑みを向けられて、俺の罪悪感は更に増した。
訳の分からない状況が立て続けに発生して、混乱の中から中々抜け出せなかったけれど、流石に今朝の頃よりは俺も落ち着いている。
スープの残りを飲み干し、鍋の横に食器を置く。
とりあえず、今日の事。
ヤエルさんと何をして何を話したかくらいは、ちゃんと説明しなければ。
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「──遠目で見たことはあったけれど、やっぱり彼女は……」
一通りの説明をした後、テレジアは「少し時間をちょうだい」と言って、考え込んでしまった。
声に出して確認するように、ぼそぼそと聞き取れない単語をいくつか呟いてから、彼女は顔を上げる。とても難しい表情がそこにはあった。
「話してくれてありがとう、オーナー。少なくとも彼女に悪意は無いはずだから、また会うことがあっても、当面の間は普通に接しても大丈夫だと思うわ」
「……一応確認なんですけど、この場合の普通ってどれくらいまででしょうか?」
「そうね……。今日みたいな会話も食事もお出掛けも問題ないけど……巫女の侍女長と言っていたのよね?」
「はい、確かにそう言っていました」
「可能性としてはとても低いけれど……カランド山に招かれそうになったら気を付けて」
「それは……流石に無いと思いますけど」
そもそもあんな高い山、登れる気がしない。
もし本当にお誘いを受けたとしても、身体的な問題で断るしかないだろう。素人が雪山に登るなんて自殺行為に等しいのだから。
だが俺の言葉を聞いて、テレジアは困ったように眉を歪ませていた。
「……オーナー。あなたと話して、あなたの話を聞いて、あなたの様子を見てずっと感じていたことなのだけれど……もう少し、警戒心を持った方が良いと思うわ」
えー……? それを貴女が言うの……?
こんな得体の知れない男性に積極的に関わっている時点で、その台詞は自分に返ってくるようなものだと思うんですが?
内心でそんなことを思いながら「分かりました。気を付けます」と返すと、テレジアは少しムッとした表情に変わった。
「サルカズは身体能力が高い者が多いの。荒事になってもある程度なら解決出来る力があるのよ?」
『生息演算』をプレイしている時、住民やシャイニングが確かにそんなことを言っていた気がする。
言われてみればシャイニングの剣捌きは、技術はもちろん卓越した身体能力が無ければ不可能だろう。
ただ、目の前のテレジアの細腕を見る限り、どうしてもそんなに力があるようには見えないのだが……。
「オーナー」
俺の視線に気付いたのか、テレジアは小さくため息を吐いた。
そして何かを決心したかのような強い意志を持った瞳で、ベッドから立ち上がる。
「ごめんなさい」
こちらへと近付いてきたテレジアは、そう言って俺をベッドに押し倒した。
彼女の右手は俺の胸元に置かれ、左手は俺の右手首を掴んでいる。
左手は自由なままだったが、俺は特に何もしなかった。
彼女のサラサラな髪の一部が俺の耳に触れて、少しだけくすぐったい。
テレジアの端正な顔立ちがとても近くにあって、心臓が跳ねた気がした。
だが彼女の表情は困ったように曇っていく。
「……これでもあなたは警戒心を抱かないのね」
「『ごめんなさい』って言ってましたし……」
敵意も感じられなかったというのもあるが、それは黙っておいた。
あと、理由も無くこんなことをする人では無いだろう、という信頼もある。
「でも、せめて抵抗くらいはした方が良いわ」
「いや、その、抵抗はしてます」
「…………本当に?」
テレジアが、目を丸くしていた。
だが俺の方は、それを気にかける余裕が無かった。
先程から起き上がろうとしているのだが、びくともしない。
自由だった左手で、胸元に置かれた彼女の手をどけようとしたのだが、それも上手くいかない。
いや、ちょっとサルカズの力を舐めていたかもしれない。
こんなに身体能力の差があるとは思っていなかった。
「気を付けた方が良いことは分かったので、そろそろ……」
「……………………」
「あの、テレジアさん?」
「──ええ、大丈夫よ」
俺の呼び掛けに一拍遅れてから、テレジアはようやく離れてくれた。
起き上がって視線を向ければ、彼女は自身の手の平をジッと見つめていた。
「オーナー、少し鍛えた方が良いわ。いろいろと……危ないから」
自分のベッドの方へと戻りながら、彼女はそう忠告してくれた。
そうしてまたベッドに腰掛け、気持ちを切り替えるかのように瞳を閉じて、開ける。
「──少し話が脱線してしまったけれど、実は改めてあなたに聞きたいことがあるの」
「これからどうするのか、出来ればちゃんと答えてくれると嬉しいわ」
「……『ノア』に、戻るのよね?」
ここが本当に『生息演算』の世界、ゲームの世界だと言うのなら。
きっと『ノア』が鍵になる。
……そうに決まってるよな。