鳴り響くアラーム音に、ノエリアはパソコンを閉じて大きく息を吐いた。すっかり冷めたコーヒーを啜りながらカーテンを開けると、眩しいくらいの朝日が部屋に差し込む。
大きく伸びをして背骨を鳴らし、空になったカップをシンクに置いてから、ノエリアは寝室に向かった。決して広くはないマンションの一室だが、そこには彼女の幸福が詰まっている。
ノエリアが日本という異国の地で勝ち取り、掴んだものはいくつかあるが、我が子たちの寝顔こそは彼女が一等愛してやまない宝であった。
「
誰が聞いても起こすつもりが無いとわかるほど、静かで優しい声音だった。ベッドに座り、双子の姉妹の顔を眺める。母譲りにしてお揃いの金髪は柔らかく光を含み、頬はふくふくと丸みを帯びて仄かに赤が差している。ノエリアはそこに確かな生命の熱を、生物として個である強さと儚さを感じた。
そっと姉妹の姉――翼の頬を撫でる。ほやほやの産毛がノエリアの指に心地よい。子供特有の高い体温、内包するエネルギーの激しさが伝わる。それがどうしようもなく嬉しくて、愛しい。
無心で頬をむにむにもちもちと撫で続けていると、ついに翼が目を覚ました。水色の瞳を彷徨わせて、母の姿を認めるとふにゃっと笑う。
「おかーさん……おはよ……」
「おはよう、翼」
翼は眠い目を擦りながら身体を起こし、
「ほらほら、空もそろそろ起きなくちゃ」
「ん、んん……出勤、イヤ……」
ノエリアの手から逃れるように空は寝返りをうち、ぐずぐずと訳のわからない寝言を呟いた。姉の翼とは違って、空は寝汚いタイプだった。思わず苦笑が漏れる。
「翼、空を起こしておいてくれる? その間にご飯の準備しちゃうわ」
「わかった!」
ノエリアは立ち上がり、寝室を出てゆく。翼は目を擦ってベッドに立ち上がると、日曜朝に欠かさず見ている特撮ヒーローの変身ポーズをとった。腰に構えた右手をガッツポーズの形にして、気合一発、低反発マットレスを踏み込む。
「起きてーーッ!」
▽
「起きて!!」
「ぎゃうっ!?」
耳に飛び込んできた大きな声と同時に、腹部に大きな衝撃。押しつぶされた肺が空気を吐き出して、喉がカエルのような音を鳴らす。思わず目を開けると、姉の顔が視界いっぱいに広がった。太陽のような笑顔が眩しすぎる。
「おはよ、空」
「……今何時?」
「7時!」
「まだ寝れる。お姉ちゃんも一緒に寝よ」
「ダメダメ起きて起きて」
そばにあった毛布を頭から被ると、その上からペチペチ叩かれる。無視していたが、だんだん鼻歌に合わせてリズムを取り始めたので仕方なく身体を起こした。
「わかった、起きる、起きる」
「起きれる?」
「起きざるを得ない。素晴らしい手腕だった、お姉ちゃんは将来ドラマーになれる」
「ほんと!?」
姉がぱあっと顔を輝かせ、私は視線を逸らした。イヤミは根明に通じない。
「……うん。早く行かないとご飯冷めるよ?」
姉は私の返答を聞いて、「おなかぺこだよー」さっさとリビングに向かった。朝から元気すぎる姉の姿を追って、私もベッドからフラフラ立ち上がる。
「おはよう、ねぼすけさん。顔洗ってきちゃいなさい」
「ん……」
目玉焼きとカリカリのベーコンを皿に乗せながら、母が寝ぼけ眼の私を見て笑う。姉はもう食卓について、白身にハフハフとかぶりついている。
洗面台の前に立つと、やる気のなさそうな少女が鏡に映る。母譲りの金髪を加味してもなお、滲み出る根暗感。一卵性の双子でも、活発な美少女と言って差し支えない姉とは雲泥の差だ。
もっとも――私はこの容姿を気に入っている。いかにも陰キャ感のある見た目は、何かと都合が良いのだ。特に私のように、肉体と精神の年齢が一致しないような輩にとっては。
いわゆる『転生者』がまず初めにぶち当たる課題として、どう子供っぽく振る舞うか、と言うのがあると思う。特に生まれた時から記憶があるタイプの転生者なら尚更、赤子のフリに苦心するに違いない。
私の場合、幼少期は姉の真似をすることでやり過ごしていた。身近に実例がいるのだ、利用しない手はない。姉を観察し、真似る上で生じる多少の不自然さも「お姉ちゃんっ子なのね」で片付き、私の精神年齢の歪さが露呈することはなかった……と、思う。本当にお姉ちゃんっ子になってしまったのは誤算だが。
次に新たな問題が浮上したのは、だいたい4〜5歳のころ。時間差で前世を思い出すタイプの転生者は、だいたいこの辺りで自分の背景を自覚するのだろう。即ち、物心がつく時分である。
当時――今もだが――姉は無限の体力を持て余す風の子であった。くたびれた大人には真似するのが辛いほどの行動力でもって、1日に裏山を踏破し海岸を走り抜け、夢の中でも駆け回った。深夜、姉の足踏みに蹴り起こされたことも一度や二度ではない。
これでは身体が持たない。姉の後ろにずっとくっついていた私は、ここでようやく正反対に舵を切ることにした。
つまり、姉と真逆の性格であるようにしたのだ。明るく闊達で運動が得意な姉と、暗めで大人しく内向的な妹。加えて本を読んでおけば、年不相応な知識や語彙にも少しは説明がつく。それに姉が運動で目立つほど、私が知識で目立っても変に思われにくいのではないか、という狙いもあった。
実際、これは妙案だった――小学校に上がる頃には、近所のおじさまおばさま達に『双子姉妹の
とまあ、そんな経緯で完成したのがこの根暗少女という話。左腕の傷跡を引っ掻きながら、私はリビングに向かった。
▽
「いってきまーす!」
「いってきまーす」
玄関を勢いよく飛び出して行った姉を追う。アスファルトに運動靴が軽快な足音を響かせた。
3年目のランドセルは姉のだけ傷が多い。それは姉の数々の冒険の証であり、振り回される私の苦労の歴史でもあった。
「空、置いてくよー!?」
先をゆく姉が、振り返って急かすようにぴょんぴょん跳ねる。放っておくとどこに行くかわからない、まるでスーパーボールのよう。私は大声で抗議した。
「もうっ、そんな早く行ったって待つだけじゃん!」
「でも、ヒナコもアカネも早くきて話してるんだよ!」
「じゃあお姉ちゃんも先に行ってれば――」
そう言いかけて、喉が詰まった。姉が頬を膨らませていたからではない。その先の電柱の上部に、巨大な目玉のようなものがしがみついて周囲を見渡していたからだ。白くぶよぶよした球体には長短様々な人間の腕が生え、瞳孔は絶えずキロキロと動いている。まるで何かを探しているように。
胃の辺りがむかむかとする。
実のところ、この世に生まれ落ちて、もっとも苦痛だったのは子供のフリなんかじゃない。他人には見えない化け物が見えるようになったことだ。震える足を必死に奮い立たせ、私は眼球を視界の端に見据えた。
この手の化け物に対して『やってはいけないこと』は単純だ。
立ち止まった私のもとに駆けてきた姉が、強い口調と共に私の手を取った。
「いっしょに行くよ」
「……うん」
姉は見えない人だ。けれど、私が何か見ているのを察してくれる。私は姉に甘えて、目を瞑りながら暖かな手に引かれて歩く。そうして気づけば、あの目玉は見えなくなっていた。
「……迷惑かけてごめん」
「ふふん! 気にしない気にしない!」
姉は満足げに鼻を鳴らした。私の日常は、姉の右手から伝わる熱に救われていた。
▼
本日午後4時ごろ、〇〇町の▼▼山で児童3名の遺体が発見されました。
▼
「逃げるよ!」
姉が手を引く。ふたり息を切らして、薄暗い山の斜面を転がるように駆け降りる。カナコは腸を蝶々結びにされて境内に飾られてしまった。近くにいたアカネも、賽銭箱の中から伸びた手に引っ張られ、シュレッダーみたいに裂かれて奉納された。そして、社の裏からごろんと転がってきた、肉塊に大きな口をつけたような化け物に私たちは追われている。
どうして――どうして気づかなかったのだろう。見えるはずの、気配を感じられるはずの化け物どもが、まるで息を潜めるみたいに、廃神社の奥に隠れていた。こんなことになるなら、恋のまじないなんて止めるべきだったんだ。
「空! ねえ、来てる!?」
「見えないっ、ごめんなさい、わかんない!」
「大丈夫、お姉ちゃんに任せて!」
姉と共に木々の隙間を縫って走る。けれど何故か、一向に麓にたどり着く気配がない。おそらく道を間違えたのだ、そう気づいたが正しい方向もわからない。ハムスターの回し車の様に、延々と引き延ばされた斜面を下っている様な感覚。
いくら運動ができるとは言え、まだ小学生。無尽蔵に思われた姉の体力も、だんだんと底をついてくる。私はすでに疲れ切って、歩くのもままならないような有様だった。
「お姉ちゃん」
「大丈夫、絶対大丈夫だから。わたしがついてるから」
「お姉ちゃん、もう無理だよ」
「そんなことない!」
姉が叫ぶ。けれど、私はもう限界だった。
「置いて行っていいよ、お姉ちゃん。私に構わず、逃げて」
「そんなことできるわけないじゃん! わたしはお姉ちゃんなんだよ!?」
私は姉の手を振り払う。
「行って。私は隠れてるから、助けを呼んで」
そういう風に言えば、姉は断れない。屁理屈だけは精神年齢が高い方が勝つ。そうだ、死ぬならおまけの生を貰ったやつから死ねばいい。姉は見捨てられたような顔をして、俯いて、ぎゅっと拳を握った。
「絶対『キハッ』……え?」
姉と私が同時に振り返る。肉塊が木をへし折りながら、絶叫にも似た哄笑を上げ、恐ろしいほどの速度で転がってくるのが見える。軌道上に位置する私たちに、もはや避けるほどの猶予は残されていない。
「お姉――」
「――空っ!!!!」
姉がこちらを突き飛ばした体勢で、視界から掻き消えた。直後、何かが木に激突するような轟音が鳴り響く。斜面の下の方で、肉塊が咀嚼するように口を上下した。
「あ……うそ、嫌……」
化け物の口からはみ出ている、見慣れたシュシュのついた腕。バリバリペキペキと嫌な音を立てて、私の姉が粉砕されていく。水風船を突いたように、ぱちゅっと血飛沫が漏れた。
「嫌、嫌だよ」
私の家族、私の半身が。いとも簡単に死んだ。
守るどころか、庇うことすらできなかった。
千切れた姉の手首が地面に落ちる。温かかったはずの手のひらが、血と影に塗れて汚れる。
こんな死に方をして良い人じゃないのに。
「グルルル……キハッ、キハッ」
肉塊はぐちゃぐちゃの肉を満足げに飲み込んで、小さすぎて気づかなかった6対の瞳孔を私に向けた。次の獲物はお前だ、とその瞳が雄弁に語っていた。頭が恐怖でパンパンになって、喉がきゅっと締まった。
「死にたくない、死にたくないよ! お姉ちゃん助けて!」
「キハハ、キハハ」
震える足を叱咤して、弾かれるように私は逃げ出した。夕方の山を、慣れない凸凹道を、ひた走る。姉ならばこんな悪路も気にせず走るのだろう。姉ならば、きっと――
「違う……お姉ちゃんはもう……」
私の手を引いてはくれないのだ。木の根に躓いて、盛大に転んだ。膝を擦って、涙が滲む。振り返ると、化け物が笑いながらこちらへ転がってきていた。ごどろん、ごどろんと嫌な音を立てて。立ちあがろうとして、足首に鮮烈な痛みが走る。
「……やだ、やだ、やだ! 来るな!」
「キハハハハ! キハハハハハハ!」
化け物が口をぱかっと開いた。悍ましく蠕動する口内には、奥歯がびっしり生え揃っている。死にたく……なかった、のに。ぎゅっと目を瞑って、姉の姿を思い浮かべた。
「お姉ちゃん……ッ!」
叫ぶのと同時、パリンというような奇妙な音が聞こえた。目を開けると、化け物と私の間に黒くて薄い板のようなものが張られている。
「キハ……?」
大きさにして1×2m程度の板を、化け物が不思議そうに小突いた。衝撃を受け、先ほどと同じようにパリンと音がして、板が割れた。
そこから、ハリネズミのような何かが現れる。紫色の装甲と、四肢に結び付けられた操り糸。生命を人形に落とし込んだような、奇妙な姿に見覚えがあった。
「……ヘッジ、ホッグ?」
ハリネズミは関節をカタカタ鳴らしながら、化け物の口の中に飛び込んだ。嬉々として噛み付いた化け物の顔に困惑が浮かび、直後に苦悶の声が響き渡る。
「グ、グ……ギバッ」
初めて見る、嘲笑以外の表情。明確な怒り。肉塊は口を大きく開け、
私は――それどころではなかった。前世の記憶が刺激され、馬鹿らしいと思いつつも、次の一手を決めていた。ヘッジホッグの起動はすなわち、次なる一手の布石である。
「セット」
三度、私の前に黒い板が現れる。簡単に壊せることを理解したのか、化け物は勢いよく突進をかました。板が容易く割れ、人形が姿を露わにする。先ほどのハリネズミではない――体の至るところに操り糸が結びついているのには変わらないが。
「ヘッジホッグはリバースと同時に他のシャドールを呼ぶ。今必要なのは……」
盾を一列に繋いだような、奇抜な見た目の細長い絡繰。名を『シャドール・リザード』。顕現したにも関わらず、突進によって板と同時に砕け散った。化け物が得意げな表情を浮かべ、直後、悲鳴を上げながら破裂した。
散らばる肉片を眺めながら、ぼんやり呟く。
「……リザードは、リバースと同時に相手を破壊する……」
必要だった、欲していた力のはずだった。けれどもう守るべき存在は死んだ後で。
「あは、ははは……遅いよ、全部遅いんだよ……」
静寂を取り戻した森の中を、挫いた足を引きずりながら歩く。やがて、肉塊が激突した木の根元までたどり着いた。そこにはポツンと、シュシュのついた手首だけが落ちている。
「翼お姉ちゃん……」
冷たくなったそれを拾い上げて、緊張の糸が切れた。
終わってしまったのだという絶望だけを感じながら、私の意識が影に呑まれた。