逃避行
聴覚を支配する蝉の声に、鬱陶しいぐらい眩しい陽の光。肌を焼くような熱さの紫外線は、建物の陰では少しだけなりを潜めて、代わりにから立ちのぼる熱気がこの身を包み込む。
うるさいぐらいの蝉の合唱と、車の排気ガスのにおい。それらすべてが夏を演出する舞台装置となって、いよいよ本格的な夏の到来を告げるのだ
「……暑い」
どこにでもあるアパートの一室。それが俺の目的地だった
いつも通り、一緒に登校する相手を呼びに行く。たったそれだけの、余りにも重要な日常のワンシーン。
「おーい、早く出ないと遅刻するぞ?」
今日は、そのシーンに少しだけ異常が混じっていた。彼女はいつも、俺が来た時には外で待っているか、そうでなかったとしても呼べば返事と共に顔を出す。しかし今日は、そのどちらもなかった
「寝てんのか?」
ノックにも、声にも、返事一つない
「……入りますよ?」
彼女の両親に断りを入れながら、ドアノブに手をかける。鍵はかかっていない。ガチャリ、金属音と共に扉が開く
「…………は?」
赤い。紅い。赫い
むせ返るような鉄のにおいと、一箇所にへばりついている何かの肉。赤色の正体は肉から流れ出る液体で、それが何なのか、わからない筈が無かった
「……おま、え」
…………何よりも、最悪な事が一つある
「何を、したんだ……?」
原型がわからないほどぐちゃぐちゃに潰された肉の塊の前に座り込む少女。昨日まで、いつも通りに笑っていて、今日もいつも通りに笑う筈だった少女。俺が、ここに来た目的
「……あー」
異質だった。死体のある部屋という非日常の中で、日常と何ら変わらない笑顔を浮かべて、いつも通りの言葉を話す
「おはよう」
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「……黙っててくれるんだ」
「……まぁ、な」
彼女が服を捲って見せた、腹についた大きな痣。それだけで、全ての事情が飲み込めてしまった
「……驚かないの?」
「驚いてるよ。十分、な」
今にも吐いてしまいそうなほど気分が悪い。それでも俺が冷静さを保っているのはきっと……彼女の前で無様は晒せないという、つまらない意地の所為だろう
「そんな事より早く着替えろ。血を落として、匂いも誤魔化して………」
「……待ってよ、何する気?」
「逃げよう、一緒に」
人生を投げ出す決断をするのは、思ったよりも簡単だった
「………いいの?」
ここで逃げれば、まだ戻れるよ?
彼女の目は、そう訴えかけてきている。今ここで戻って、またいつも通りの日常を送る。そんな選択肢だってある事は理解している
「ああ」
でも、そこに彼女はいない。理由なんてそれだけで充分だ。俺が欲しいのは、ただの日常じゃない
……それに
「お前は何も悪くないよ。償うべき罪なんて、どこにも無い」
呆気に取られたような顔が、やけに頭に残るようだった
「お前は多分、自分のやった事を肯定しきれてないんだ。だから、その分俺がお前を肯定する」
この殺人は間違ってない。正しいことなんだ。少なくとも俺はそう信じてるから、彼女にもそう思っていて欲しい。……なんて、ただの願望だけれど
「……あはは」
彼女は、ほんの少しだけ口角を上げる
「変なの。……ありがとう」
追われて、逃げて、その果てに何があるのかはわからない。逃避行の果てには、悲しみや後悔しか残らないかもしれない。それでも、俺は彼女と共に行く事を選択した
「……行こう、出来るだけ早く」
蝉は、今もうるさく鳴いている。その鳴き声が、逃亡者を笑っているように聞こえたのは、きっと気の所為なんかじゃ無かった