祭りでも、怪物でもなく   作:藤沢大典

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第10話:夜の誓いと、小さな四駆の始動

 深夜、寮の談話室。

 消灯時間を過ぎ、他のウマ娘たちが夢の中にいる静まり返った部屋の中で、私は一人、壁掛けのテレビ画面から放たれる光の中にいた。

 画面に映し出されているのは、数時間前に海を越えた異国、香港のシャティンレース場で行われた国際G1レースの録画映像だ。

 夕方、私が河川敷で泥にまみれ、伊関トレーナーの厳しい声を聞きながら廃タイヤを引きずっていたその時間に、このレースは行われていた。リアルタイムで先輩の勇姿を拝むことはできなかったけれど、結果を知った上で見ても、その映像が放つ熱量は少しも削がれてはいなかった。

 傾きかけた西日に照らされた鮮やかな緑の芝の上を、一人の漆黒のウマ娘が弾丸のようなスピードで駆け抜けていく。かつて私と同じ部屋で過ごした誇り高き先輩、ルクスキャリバーだ。

 

「ルクスキャリバー、依然として先頭で粘る! 世界の強豪たちを相手に、なんと堂々たる逃げだ!」

 

 実況アナウンサーの絶叫が、静かな談話室に小さく響く。

 最後の直線。背後からは、各国の頂点を極めた猛者たちが、地鳴りのような足音を立てて猛追してくる。並の精神力なら、その圧倒的な重圧だけで足がすくみ、呼吸を乱してしまうような極限の状態。

 だが、画面の中のルクス先輩は少しも揺らがなかった。あの一分一秒、一センチの狂いもない精密機械のような逃げで、迫り来る世界の強敵たちを真っ向から封じ込めようとしている。限界を超えたスピードの中で、先輩の全身の筋肉が激しく波打ち、勝利への執念を爆発させていた。

 

 結果は、わずか一バ身差の2着。

 世界という巨大な壁に、本当に、本当のあと一歩だけ、届かなかった。

 けれど、ゴール板を駆け抜けた瞬間にカメラが捉えた先輩の瞳は、敗北に曇ることなど一切なかった。むしろ、自身のすべてを出し切り、世界を力でねじ伏せようとした勝負師の、恐ろしいほどに鋭い光を放ち続けていたのだ。

 私は膝の上で、爪が食い込むほど強く拳を握りしめた。

 あんなに才能にあふれた完璧な人が、あんなにも必死に、泥臭く勝利を求めて戦っている。自分の不格好さや才能のなさを言い訳にして、立ち止まっている暇なんて一秒たりともない。

 先輩が香港の西日に刻んだその勇姿は、私の胸の奥深く、これまで静かに燻っていたエンジンに、最大級の燃料を投下してくれた。

 

――――――

 

 年が明け、迎えた1月半ば。

 私にとっての初陣の舞台となる中山レース場の朝は、骨の髄まで芯から冷えるような、厳しい冬の寒さに包まれていた。

 華やかな春のG1シーズンや、秋の鮮やかなターフとは全く違う景色がそこにあった。枯れて茶色く変色した芝は荒れて硬く、冬の乾いた冷たい風が容赦なく砂埃を巻き上げている。どこか殺伐とした、けれどごまかしのきかない、研ぎ澄まされた空気がレース場全体を支配していた。

 

 私のデビュー戦。メイクデビュー、芝2000m。

 パドックに並ぶ他のウマ娘たちは、すでに秋にデビューして勝ち上がっている周囲の同期たちに負けじと、若さゆえの鋭い気合を全身から発していた。彼女たちの脚はすらりと細く、しなやかなバネを感じさせる、まるで最新鋭のスポーツカーのような美しさを持っている。

 対して、私の姿はどうだろうか。

 他の出走者たちと比べても明らかに小柄な私の体躯は、決して見栄えのするものではない。だが、これまでの数ヶ月に及ぶ地獄の特訓を経て、私の脚はかつてのひ弱さを完全に失っていた。

 泥まみれの河川敷で重たい廃タイヤを引き続け、冷たい土を深くえぐり続けたことで培われた、無骨で高密度な筋肉。飛ぶような瞬発力はない。けれど、どんな悪路でも絶対にブレない強靭な体幹と、大地を確実に掴み取るその力強さだけは、ここにいる誰にも負けないという確かな自信があった。

 

「緊張しているか」

 

 検量室の前、伊関トレーナーがいつものように無愛想な顔で腕を組んで立っていた。吐き出す息が、白い霧となって冬の空気に溶けていく。

 

「不思議と、すごく落ち着いています。あの日、河川敷で引っ張ったタイヤの方が、今よりずっと重かったです」

 

 私が真っ直ぐに答えると、伊関さんはほんのわずかに口角を上げ、私の細い肩にポンと手を置いた。

 

「ふん、ならいい。作戦を伝える」

 

 伊関さんの瞳が、勝負師のそれへと切り替わる。

 

「序盤は中団より後ろ、後方でじっと控えておけ。周りの奴らの軽快なペースに絶対に惑わされるな。お前にはあいつらのような一瞬の加速力はない。一歩一歩、自分のエンジンの回転数を一定に保つことだけに集中しろ」

「はい」

「勝負は第3コーナーの手前からだ。そこから、お前のエンジンのギアを上げろ。普通の奴らが最終直線の末脚勝負に備えて、一度ペースを落として息を入れるタイミングだ。そこで、お前は一気にトップスピードに乗れ。中山の急坂も、冬の荒れた芝も関係ない。お前のその底なしのスタミナの本当の使い所を、連中に見せつけてこい」

 

 伊関さんの力強い言葉が、私の背中をドンと強く押し出した。

 

「ゲート、開きました! 各ウマ娘、綺麗なスタートです!」

 

 ファンファーレが鳴り響き、鉄の扉が弾ける乾いた音が冬の空気を震わせた。

 一斉にターフへと飛び出した16人のウマ娘たちの蹄の音が、地響きとなって内臓を揺らす。

 私は伊関さんの指示通り、スタートダッシュで無理に前へは出なかった。先頭争いをする子たちが作り出す激しい風の抵抗を避け、集団の少し後ろ、砂が飛んでくるような荒れた内側のコースへと静かに進路を取る。

 

(景色は見ない。私の内側の、エンジンの音だけを聞くんだ)

 

 ルクス先輩の走りが教えてくれた『精度の重要性』。

 自分の一歩が何センチ幅なのか。今、心臓の奥にあるエンジンが何回転で回っているか。それだけを冷徹に計算し続ける。

 周囲のウマ娘たちがポジション争いで焦りを見せ、無駄な体力を消耗し始める中、私はただ一定の、狂いのないリズムで歩みを刻み続けた。水分を失い、荒れ果てた冬の重い芝が靴底に絡みつくが、私のブレない体幹にとっては心地よい反発力でしかない。

 

(重い芝。でも、あの泥沼に比べれば、ただの絨毯と同じだ!)

 

 1000メートルの標識を過ぎ、レースが中盤戦へと差し掛かる。

 第3コーナーの手前。

 逃げ集団と先行集団の脚色が、中山特有のアップダウンと冬のタフな芝によってわずかに鈍り始めた。誰もが一度深く息を吸い込み、最後の直線でのスプリント勝負に備えようとする、その一瞬の静寂。

 

(今だ!)

 

 私は、心臓の奥にあるスロットルを一気に全開まで押し込んだ。

 

 ――ドッ、ドッ、ドッ、ドッ!

 

 これまでの一定だったリズムが、限界を知らない猛烈な駆動音へと変わる。

 一瞬でトップスピードに達するような鋭い切れ味ではない。じわり、じわりと、けれど絶対に減速することのない圧倒的な推進力が、小さな背中を力強く突き上げてくる。

 第3コーナーを大外から回る頃には、私はすでに息を整えようとしていた先行集団のすぐ真横まで進出していた。

 

「外から一気に16番リバーライト! まるで一頭だけ別のバ場を走っているかのような、信じられない力強い伸びだ! 第4コーナーを待たずに、一気に先頭集団を飲み込みにかかる!」

 

 実況アナウンサーの驚愕に満ちた声が、場内のスピーカーから響き渡る。

 私の横を通り過ぎていくウマ娘たちの顔に、明らかな絶望と混乱が走るのが分かった。まだ直線じゃない。まだ勝負をかけるポイントじゃないはずだ。そんな彼女たちの綺麗な常識を、私の無骨なエンジンが容赦なく踏みにじり、置き去りにしていく。

 

「さあ、最後の直線に入った!リバーライトが完全に先頭に躍り出た!」

 

 待ち構えるのは、中山レース場が誇る心臓破りの急坂。

 ただでさえ体力を削り取る冬の芝の上で、さらに重力を味方につけた急坂が、彼女たちの美しい脚を無慈悲に奪いに来る。

 周囲の足音が次々と鈍り、苦しそうな呼吸音が背後へと遠ざかっていく中、私は一年前、誰もいない夕暮れの河川敷で廃タイヤを引きずって歩いたあの日の感覚を鮮明に思い出していた。

 

(踏み込め!地面を噛み砕け!絶対に止まるな、私のエンジン!)

 

 一歩ごとに、容赦なく後続を突き放していく。

 1バ身、2バ身、3バ身。

 彼女たちのように空を飛ぶ翼は私にはない。けれど、誰よりも遅く産声を上げ、泥水をすすって鍛え上げられたこの小さな身体は、荒れ果てた冬のターフの上で、誰よりも力強く、絶対的な勝利への道を切り拓いていた。

 

「リバーライト、後続を大きく突き放して、今1着でゴールイン!!遅れてきた小さな大器が、冬の中山で衝撃のデビューを飾りました!」

 

 ゴール板を駆け抜けた瞬間。

 私はスピードを緩め、肺が破れそうなほどの激しい呼吸を繰り返しながら、冬の高く澄んだ青空を見上げた。

 

 勝った。

 才能のなさに絶望し、泥を啜り、重たいタイヤを引き、誰にも見られない場所でただ一人足掻き続けたあの日々が。今日、この中山のターフの上で、たしかに一つの真実になったのだ。

 

「やったよ。伊関さん、ルクス先輩!」

 

 スピードのない落ちこぼれ。

 そんな烙印を押された小さな四駆の、泥だらけで誇り高い長い旅路が、今、ここから力強く始まった。

 




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