祭りでも、怪物でもなく   作:藤沢大典

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第12話:新たな風と泥の足音

 春。トレセン学園に、桜の季節がやってきた。

 薄紅色の花びらが舞い散るメインコースは、新しい季節の訪れと、これから始まる輝かしいレース生活への期待に満ちた声でざわめいている。

 しかし、そんな浮き立つような春の空気の中でも、私はただ一人、自身の内側にだけ深く意識を沈め続けていた。

 

「プラス0.4秒。……よし、合格だ」

 

 朝のメインコース。伊関はストップウォッチを下ろし、短く告げた。

 私は足を止め、荒くなった呼吸を整えながら少しだけ不満げに彼を見た。

 

「えっ、でも……まだ0.4秒もズレてます。ルクス先輩みたいに、もっとぴったり合わせなくていいんですか?」

「お前はルクスキャリバーのような精密なスポーツカーじゃない。コンマ一秒の狂いもなく走る必要などないんだ」

「……?」

「お前の武器はあくまで『トルク』と『スタミナ』だ。そのバカでかいエンジンを、勝負所が来る前にガス欠させずに回し切るための『ペース配分の目安』さえ身体に染み付いていればいい。0.5秒以内の誤差なんてものは、実戦でのバ場の状態や他人の牽制で簡単に吸収される範囲だ」

 

 伊関さんは、私の胸元――エンジンが唸りを上げている場所を指差した。

 

「完璧な時計である必要は無い。お前は自分のエンジンの『一番重く、長く持続する回転数』を、0.5秒の幅の中でキープし続けられればそれでいい。……細かい秒数に気を取られて、肝心の踏み込む力を弱めたら本末転倒だからな」

「一番長く持続する、回転数……。はいっ!」

 

 ルクス先輩は、コンマ一秒を削り出す芸術品。

 私は、多少の誤差は圧倒的な出力でゴリ押すための、頑丈なマシン。

 

「さあ、午前中の『制御』は終わりだ。息を整えろ。……午後は河川敷で、そのエンジンに限界まで負荷をかけるぞ」

 

 隣のコースでは、華やかな勝負服や真新しいジャージに身を包んだウマ娘たちが、弾丸のような瞬発力トレーニングを行っている。一瞬の加速で風を切り裂き、後続を置き去りにする『翼』の輝き。

 対して私は、他人から見れば単調で面白みもない一定のペースを、ただひたすらに、機械的に維持し続けるだけだ。

 

(……見なくていい。私は、私の時計を刻む。誰にも邪魔させない)

 

 デビュー戦を勝利で飾ったあの日から、私の走りは変わった。

 強引なトルクだけでなく、それを意図したタイミングで正確に解放するための制御装置。

 ルクス先輩が深夜に響かせていた、あの寸分の狂いもないヤスリの音。それを自分自身の心臓の鼓動に重ね合わせながら、午前中の静かな戦いは、私の中に一つずつ確かな歯車を組み込んでいった。

 

 その日の午後。

 午前のラップ走を終え、一度寮に戻って泥だらけのジャージに着替えた私は、午後の特訓場所である河川敷へ向かおうとして――メインゲートの近くで、異様な熱気を感じて足を止めた。

 各チームからスカウトのためにやって来た有名トレーナーたち、さらにはスポーツ紙の記者までもが、血走った目で群がっている。彼らの視線の先には、今日からこの学園の門をくぐった『新入生』たちの姿があった。

 今年の入学生は特に注目すべきウマ娘が豊作だと、もっぱらの噂だった。

 遠目からでも、彼女たちが放つ圧倒的なオーラがひしひしと伝わってくる。

 

 まず目を引いたのは、底抜けに明るい笑顔で周囲に元気を与えている、黒髪のウマ娘。大きなお祭りの神輿のように、そこにいるだけで空気をパッと明るく染め上げるような存在感。噂に聞く、キタサンブラックだ。

 そしてその少し離れた場所には、彼女とは対極の、近寄りがたいほどの鋭利な覇気を纏うウマ娘がいた。荒々しくも研ぎ澄まされた刃のような瞳。誰もがその才能に平伏したくなるような、絶対的な王者の風格。ドゥラメンテ。

 さらには、洗練された身のこなしで優雅に歩くサトノクラウンと、それに寄り添うように、まだ幼さを残しながらも底知れないダイヤの原石のような煌めきを放つサトノダイヤモンド。少し離れた場所で静かに佇んでいるけれど、内に秘めたポテンシャルの高さを隠しきれていないシュヴァルグラン。

 ただ歩いているだけで、周囲の空気が彼女たちを中心に回っているかのように錯覚させられる。

 才能の塊。生まれながらにしてターフの頂点に立つことを運命づけられたような、本物の怪物たち。

 そして――その怪物たちの輪の真ん中に、見慣れた赤茶色のショートヘアがあった。

 

「……マキちゃん」

 

 パロール。

 ジュニア時代から無敗の快進撃を続け、この学園に鳴り物入りで入学してきた、私の大切な妹。

 かつて、『パロールだなんて、可愛くない』と私の背中に隠れて泣いていた気弱な女の子。フランス語で『発話』を意味するその高潔な名前に気後れして泣く彼女のために、私が『ロール(巻く)』の響きから『マキちゃん』と不器用なあだ名をつけて頭を撫でた日々。

 でも、真新しい学園の制服に身を包んだ今の彼女は、春の陽光を浴びて、誰よりも眩しく輝いていた。

 複数の有名チームのトレーナーたちから名刺を差し出され、自信に満ちた太陽のような笑顔で応えている。彼女は自らの圧倒的な実力で世界に自分を証明し、堂々とこの学園の真ん中に立っているのだ。

 

「……怖くないと言えば、嘘になるな。リバーライト」

 

 ふと、私の横に並ぶようにして伊関さんが立った。

 彼の手にはいつものノートが握られているが、その視線もまた、新入生たち――とりわけ、春の嵐の中心にいるパロールの姿に向けられていた。

 

「ドゥラメンテにキタサンブラック、そしてお前の妹のパロール。あいつらは、最高級のパーツで組み上げられた最新鋭のスポーツカーだ。少しでも勝負所で隙を見せれば、あっという間に置き去りにされるだろう」

「……はい」

「今の君の目には、あいつらがどう映っている?」

 

 伊関さんの静かな問いかけ。

 半年前の私なら、間違いなく恐怖と絶望で泣き出していただろう。才能の差を見せつけられ、また泥沼の中で一人塞ぎ込んでいたはずだ。

 けれど、今の私は違う。

 私は、自分の泥だらけのジャージと、擦り切れたランニングシューズを見下ろした。

 そして、胸の奥で重く、静かに脈打つエンジンの鼓動を感じ取った。

 

「……あの子たちは、きっと翼を持って飛ぶように走るんだと思います。でも……空高く飛べば飛ぶほど、風の抵抗も、息苦しさも増すはずです」

「ほう」

「私は飛びません。地面に這いつくばって、泥に塗れて、自分の時計の針をただ正確に刻み続けます。……あの子たちが息を上げて、翼を重く感じた一番苦しい場所でも変わらず進み続けて、最後まで食らいついてやろうと思います」

 

 私の言葉を聞いて、伊関さんはほんの少しだけ、だがはっきりと口角を上げた。

 

「言ったな。……なら、その言葉を証明するための午後のメニューだ。行くぞ、リバーライト」

 

 伊関さんはゲートに背を向け、河川敷の方へと歩き出した。

 

「あいつらが空高く飛び上がるなら、お前は地の底をえぐる。午前中に極限まで神経をすり減らしたその身体で、今度はすべてのエネルギーを使い果たす時間だ。あいつらの翼が力尽きる場所を、お前のトルクで塗り替えるための準備だぞ」

「……はいっ!!」

 

 私は華やかな新入生たちの喧騒に背を向け、伊関さんの後を追った。

 多摩川の河川敷で待つ巨大な廃タイヤが、私という不格好な四駆の咆哮を待っている。

 午前は秒針のように正確に。午後は重機のように荒々しく。

 新たな風が吹き荒れる学園の片隅で、泥に塗れた小さな四駆の土台作りは、いっそう過酷さを増していくのだった。

 




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