祭りでも、怪物でもなく   作:藤沢大典

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第14話:泥濘の幻惑と覚醒の片鱗

 6月下旬、東京レース場。

 空は、分厚く重い鉛色の雲に覆われていた。

 前々日からしとしとと降り続いていた梅雨の雨は、今日の朝方に一度、バケツをひっくり返したような強い通り雨となってターフを激しく打ち据えた。午後になり奇跡的に雨自体は上がり、レースは予定通り開催されることになったものの、芝の状態は誰の目にも最悪と言わざるを得なかった。

 

 バ場状態、『重(おも)』。

 水を含んだ芝は本来の鮮やかな緑色を失い、黒ずんでべちゃべちゃとしている。一歩踏みしめるだけで、じゅわりと靴の裏から冷たい水が染み出し、足首まで泥濘(ぬかるみ)に絡め取られるような、不快なコンディション。

 パドックを周回する同世代のウマ娘たちの顔には、明らかな嫌悪感と戸惑いが浮かんでいた。

 彼女たちにとって、東京レース場の芝1800メートルは、自慢のストライドと瞬発力を披露するための『晴れ舞台』のはずだ。それが今日は、脚のバネを無慈避に吸い尽くす底なし沼へと変貌している。泥を跳ね上げ、服を汚しながら走ることへの忌避感と、何より『滑って転倒するかもしれない』という恐怖が、彼女たちの走りのリズムを無意識のうちに萎縮させていた。

 一方の私はといえば、ただひたすらに、自身の内側の『数値』だけを維持することに必死だった。

 

「いいか、リバーライト。いつも通りだ」

 

 検量室の前、伊関トレーナーがノートを片手に淡々と告げる。

 

「特別なことは何もするな。バ場が悪かろうが、お前はただ練習通り、自分の心拍と歩幅を一定に保つことだけに集中しろ。序盤は中団後方に控え、第3コーナーからギアを上げる。……このバ場なら、周りの連中も無理はしてこないはずだ。自分のペースを乱されるなよ」

「はいっ」

 

 私は力強く頷き、ゲートへと向かった。

 泥を跳ね上げ、顔を真っ黒にして走るなんて、不格好かもしれない。でも、今の私にはそんなことを気にする余裕すらなかった。

 

「――各ウマ娘、ゲートイン完了。……スタートしました!」

 

 ファンファーレと共に、鉄の扉が開く。

 私は伊関さんの指示通り、自分の一番負担の少ない、いつもの『エンジンの適正回転数』でターフへと飛び出した。

 一歩、二歩。靴の裏が泥を掴み、ずしりとした重みが脚にかかる。

 

(……やっぱり重いな。でも、この重さの中で『0.5秒以内』を刻まなきゃ)

 

 周囲の景色は見ない。ただ、自分の心臓の音をメトロノームにして、脳内で正確な秒針を鳴らし続ける。

 ところが、最初のコーナーを曲がろうとした時、私は自身の目を疑った。

 

(えっ……!?)

 

 目の前に、誰もいない。

 正確には、逃げを打った数人のウマ娘の背中が見えるだけで、私の前には広大なスペースが空いていた。

 慌てて横に視線をやると、本来なら私よりもずっと前、先行集団にいるはずの他のウマ娘たちが、私の斜め後ろで苦しそうに泥を蹴っているのが見えた。

 私は、まさかの『4番手』という好位につけてしまっていたのだ。

 

(どうしよう!? 私、ペース速すぎた!?)

 

 私は一瞬、パニックになりかけた。

 いつもなら、私はスタートダッシュに優れた彼女たちに置いていかれ、自然と中団より後ろのポジションに収まるはずなのだ。伊関さんの指示も『序盤は中団後方で控えておけ』だった。

 

 私は慌てて、自分の体内時計を再確認した。

 心拍数、ストライド、呼吸。……狂っていない。練習通り、伊関さんに指定された『いつものペース』を刻んでいるはずだ。

 私が速くなったわけではない。

 重バ場に不慣れな彼女たちは、滑る足元に怯え、泥に脚のバネを奪われて、勝手にペースを落とし、極端なスローペースを作り出していたのだ。

 

(い、いや、でも伊関さんの指示は『中団後方』だし……! ちゃんといつもの場所に戻らなきゃ、後で怒られちゃう!)

 

 生真面目さが災いした。

 私は『自分のラップが正しいこと』よりも『指示されたポジションにいないこと』に焦りを感じ、脳内のメトロノームを意図的に少しだけ遅らせた。

 前に出るのではなく、じわじわと、不自然にならないように速度を落とし、後ろから来るウマ娘たちに道を譲って、本来の定位置である中団後方へと下がろうとしたのだ。

 しかし、この『混乱によるペースダウン』が、後続のウマ娘たちにとっては最悪の『罠』となってしまった。

 

「――っ! 前のあの子、もう脚が上がってるわよ!?」

「嘘でしょ、あのペースでもうバテたの!? やっぱり今日のバ場は異常だわ!」

「今のペースですらオーバーワークなの!? もっと落とさないと、最後まで持たない!」

 

 私の後ろを走っていたウマ娘たちの間に、目に見えるような動揺が走った。

 ただでさえ、彼女たちは慣れない泥の感触に神経をすり減らしていた。そこへ、好スタートを切ったはずの私がズルズルと後退してきたのを見て、『今のペースは自殺行為だ』と盛大に勘違いをしてしまったのだ。

 皆が一斉にペースを落とし、ブレーキをかける。

 ただでさえ足場の悪い重バ場での、急な減速。

 彼女たちの美しい走りのリズムは、この一瞬で決定的に破壊された。焦ってペースを落としたかと思えば、今度は周りに置いていかれまいと無理に泥を蹴って再加速しようとする。チグハグな加減速。空回りする脚。

 彼女たちの限りあるスタミナは、この魔の重バ場と、疑心暗鬼によって生み出された乱ペースによって、ガリガリと音を立てて削り取られていった。

 

(あ、あれ……? みんな、なんかすごく苦しそう……)

 

 無事に中団後方まで下がった私は、周囲から聞こえてくるゼーゼーという荒い呼吸音に首を傾げた。

 まだレースは半分も終わっていない。なのに、隣を走るウマ娘の顔は泥跳ねと疲労で歪み、フォームはバラバラに崩れていた。

 やがて、レースは第3コーナーへと差し掛かった。

 本来なら、ここで各々が最後の直線に向けて息を入れ、トップスピードに乗るための準備をする場所。

 しかし、今日の彼女たちに、そんな余力は一滴も残っていなかった。

 

「……よし」

 

 私は、小さく呟いた。

 周りの混乱なんて関係ない。私の時計の針が、伊関さんに指定された『仕掛けの時刻』を指し示した。

 私は、心臓の奥にあるスロットルを押し込んだ。

 

 ――ドッ、ドッ、ドッ、ドッ!

 

 これまでの一定の回転数が、力強い駆動音へと変わる。

 周囲のウマ娘たちが泥に脚をすくわれ、まるでスローモーションのように失速していく中。

 私だけが、いつもの練習のように、一定の出力を維持して泥濘をかき分けて前へと進んだ。

 

「――第4コーナーをカーブして直線! 先頭集団は重バ場に苦しんでいる! おっと、外から一気に上がってきたのはリバーライトだ!!」

 

 実況の声が響く。

 最後の長い直線。周囲が絶望的な表情で脚を止める中、私はただ、午前中のラップ走のように、自分の走りのフォームを崩さないことだけに集中していた。

 

 ヒュンッ、と風を切って、あっという間に先頭を捉え、そのまま置き去りにする。

 背後から追いすがってくる足音は、一つも聞こえなかった。

 

「――リバーライト、圧勝!! 重バ場の東京レース場、数多のウマ娘たちが泥に沈む中、一人だけ別の世界を走っているような勝利でした!!」

 

 ゴール板を駆け抜けた私は、少しだけ拍子抜けした顔で息を吐いた。

 いつもの特訓なら、ここからさらに心臓が破れそうになるのに。今日は、なんだかあっさりと勝ててしまった。

 

(……なんか、いつもよりずっと楽だったな。みんなが勝手にバテてくれたおかげかな)

 

 検量室に引き揚げてくると、伊関さんがノートを見つめたまま、小さく鼻を鳴らした。

 

「……ツイてたな、リバーライト」

「えっ……やっぱり、私のミスですか?」

「ミスと言えばミスだ。指示されたポジションに固執して、不自然にペースを落としやがって。……だが、結果としてそのお前の無様な減速が、エリート共の心理を狂わせた。連中、勝手に自分たちの首を絞めて自滅していったぞ」

 

 伊関さんは、私の泥だらけのおでこを軽く叩いた。

 

「ま、あんなガタガタなレース展開なら、お前のような一定のペースでしか走れない奴でも勝てるということだ。運も実力のうちと言うが、次からはもっとマシな勝ち方をしろ」

「……はい。すみません、次はもっと格好よく勝てるように頑張ります」

 

 伊関さんも、そして私自身も。

 この勝利が『泥だらけの河川敷で鍛えた重バ場適性』によるものだとは、微塵も気づいていなかった。

 ただ、相手のペース配分のミスに助けられた、ラッキーな勝利。

 

 そんな誤解を抱えたまま。

 小さな四駆は、泥だらけの顔をほころばせ、伊関さんと共にささやかな祝勝会の定食屋へと向かった。

 真の覚醒の時が、まだ少し先にあることなど、誰も知る由もなかった。

 




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