祭りでも、怪物でもなく   作:藤沢大典

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第15話:帰還の秒針と、届かない背中

 ガチャリ、と硬質な音がして、自室のドアが開いた。

 夏の終わりの、まだ少し湿気を帯びた空気が流れ込んでくるのと同時に、部屋の空気がピンと張り詰めるのを感じた。

 振り返ると、そこには見慣れたシルバーのスーツケースを引き、長旅の後とは思えないほど完璧にプレスされた衣服に身を包んだルクスキャリバー先輩が立っていた。香港、そしてヨーロッパを巡る長期の海外遠征からの帰還。

 

「先輩……! おかえりなさい!」

 

 私がベッドから跳ね起きて出迎えると、先輩はスーツケースを静かに壁際に寄せ、ゆっくりと私の方へ向き直った。

 世界の強豪と渡り合ってきた、研ぎ澄まされた刃のような佇まい。だが、先輩の視線は私の顔ではなく、私の『全身』をなめるように観察していた。

 デビュー戦での幸運な勝利から数ヶ月。私の身体には、日々の過酷なラップ走と、多摩川の河川敷での狂ったようなタイヤ引きによって、かつてないほどの分厚く重い筋肉の鎧が作られ始めていた。

 

「……」

 

 先輩は無言のまま距離を詰め、私の目の前で立ち止まった。

 鋭い瞳が、大地を掴むために太くなった私の脚を、ブレない体幹を、そして深く落ち着いた呼吸のリズムを、一つ一つ品定めするように見つめている。

 以前なら、この威圧感だけで私は怯え、目を逸らしていただろう。けれど今の私は、先輩の強い視線を真っ直ぐに見つめ返すことができた。私の中にある黒くて重いエンジンが、先輩の『完璧な時計』の鼓動に共鳴して、静かに熱を帯びていくのがわかる。

 やがて、先輩の端正な口元が、ゆっくりと弧を描いた。

 

「……随分と、不格好な肉体に仕上がったな。リバーライト」

 

 それは、私がこれまで見たことのない、先輩の表情だった。

 完璧な淑女の仮面の下に隠された、純粋で獰猛な勝負師としての顔。牙を剥き出しにしたような、ひどく好戦的な、けれど喜びに満ちた笑み。

 

「泣いて泥を啜るしか能のなかった凡ウマ娘が、ずいぶんと生意気な排気音を鳴らすようになったものだ。……私が留守の間に、随分と戦えるようになったみたいじゃないか」

「はい。……地の底を這いずり回って、少しだけ、前へ進む方法がわかりました」

「いいだろう」

 

 先輩は、私の肩をポンと軽く叩いた。それは、ただの同室の後輩に対する労いではない。自分と肩を並べるに足る存在になりつつあるという、孤高の逃亡者からの、最大級の宣戦布告だった。

 

「その重苦しいエンジンを積んだお前が、私の完璧な秒針にどこまでついてこられるか。……せいぜい、壊れないように調整を続けることだ」

「はいっ……! いつか必ず、先輩の背中に追いつきます!」

 

 部屋に、先輩の愛用するヤスリの音が再び響き始めた。

 シャッ、シャッという正確無比なリズム。それは私にとって、どこまでも高く、いつか必ず越えなければならない壁の音だった。

 

 しかし――現実は、そう簡単に私を華々しいステージへとは押し上げてくれなかった。

 ルクス先輩の帰国後、秋から冬にかけて、私は条件戦のレースに立て続けに出走した。

 だが、結果は『3連敗』。

 惨敗というわけではない。掲示板——5着以内の入着には必ず載る。私のエンジンは道中のペースを完璧に守り、バテて沈むようなことは一度もなかった。

 敗因は、残酷なまでの『スピードの絶対値の差』だった。

 道中、私がどれだけ正確にラップを刻み、完璧にスタミナを温存しようと、最後の直線に入った瞬間、彼女たちは弾丸のような末脚を繰り出し、私をあっさりと置き去りにしていく。

 バテない。止まらない。だが、一瞬でトップギアに入るような『キレ』がない。

 6月の時は、たまたま周りが勝手に混乱して失速してくれたから勝てただけだ。まともな勝負になれば、私の鈍重なエンジンでは、彼女たちの美しいスポーツカーの背中に触れることすらできないのだ。

 

「――5着。また、届かなかった……っ」

 

 3度目の敗北を喫した日、私は検量室の裏で悔しさに唇を噛み締めていた。

 息は上がっていない。脚もまだ全然動く。もう一周走れと言われれば、今すぐ同じペースで走れる。体力が有り余っているのに、スピード不足という才能の差で負けることが、これほど歯がゆいとは思わなかった。

 

「腐るな、リバーライト」

 

 壁に背を預けていた伊関トレーナーが、淡々とノートにペンを走らせながら言った。

 

「当然の結果だ。お前には『翼』がないんだ。最後の直線のスピード勝負になれば、エリートたちに分があるのは最初から分かっていたことだ」

「……でも、このままじゃ……ルクス先輩にも、あの子にも……!」

「焦るなと言っている」

 

 伊関さんはノートを閉じ、私の泥だらけの靴を指差した。

 

「距離が足りないんだ。1800や2000メートル程度の距離では、連中のガソリンタンクはお前のエンジンが捕まえる前にゴールまで持ってしまう。……スピードで勝てないなら、連中のスタミナが完全に枯渇するまで走り続けるしかない」

「スタミナが枯渇するまで……」

「そうだ。今はひたすら出力を上げろ。負けてもいい。お前のエンジンの総排気量を増やしていくんだ。距離が2200、2500と伸びていけば、お前の無尽蔵のスタミナが活きる展開が必ず来る」

 

 伊関さんの言葉に、私は深く頷くしかなかった。

 自分には瞬発力がない。だから、相手が勝手にバテてくれるような、もっともっと長く重い距離を走り抜くための体力をつけるしかないのだと、私は自分に言い聞かせた。

 

 そして、季節は巡り――12月。

 冬の冷たい風が、学園の木々を揺らす季節。

 私は、重いコートのポケットに手を突っ込みながら、中山レース場のスタンドの片隅に立っていた。

 今日、この冬のターフで、一つの『伝説』が産声を上げようとしていた。

 

「――いよいよですね。今年の世代、最大の目玉とも言える彼女のデビューです」

 

 実況の声が、場内のスピーカーから響き渡る。

 メイクデビュー戦だというのに、スタンドはGⅠレースかと錯覚するほどの異常な熱気と大観衆で埋め尽くされていた。誰もが、そのウマ娘の走りを一目見ようと、血走った目でパドックからターフへと視線を送っている。

 地下馬道から、一頭のウマ娘が姿を現した。

 

 パロール。私の、大切な妹。

 彼女がターフに足を踏み入れた瞬間、スタンドからどよめきにも似た大歓声が上がった。

 冬の弱い太陽の光さえも味方につけて輝く、赤茶色のショートヘア。周囲のプレッシャーなど微塵も感じていないような、堂々たる佇まいと、不敵な笑み。

 誰の目にも、彼女は『生まれながらの強者』であり、『天才』そのものだった。

 

(……マキちゃん)

 

 私は、スタンドから静かに彼女を見つめていた。

 弱かった私に見切りをつけ、一人で走り続けることを選んだ彼女。その彼女がいよいよ、このトゥインクル・シリーズという大空で羽ばたこうとしている。

 ファンファーレが鳴り響き、16頭のウマ娘がゲートに収まる。

 一瞬の静寂。そして。

 

「好スタート! パロール、迷うことなく前へ出ます!」

 

 ゲートが開いた瞬間、彼女は文字通り風になった。

 レースが始まれば、そこは残酷な実力の世界だ。そしてパロールの走りは、私の地を這うような泥臭い走りとは対極にある、まさに『天性の芸術』だった。

 軽やかに、しかし力強くターフを蹴る。無駄な力みが一切なく、宙を舞うような美しいストライド。重力すらも感じさせないスナップの効いた脚の回転は、中山の荒れた冬芝の影響を全く受け付けない。

 他を圧倒する、次元の違うスピード。

 私がどれだけ欲しがっても決して手に入らない、本物の『翼』がそこにあった。

 道中、パロールは涼しい顔で先頭集団を牽引し続けた。彼女の刻む軽快なペースについていこうとした他のウマ娘たちが、勝手に息を乱し、勝負所の第3コーナーを迎える前に次々と苦しい表情を浮かべ始める。

 対して彼女の呼吸は、まるで午後の散歩でもしているかのように全く乱れていない。

 

「さあ、第4コーナーから最後の直線! パロール、まだ仕掛けない! まだ持ったままだ!」

 

 中山の心臓破りの急坂。私が這いつくばるようにして登ったあの坂を、彼女は翼を広げたまま、いっそう優雅に駆け上がっていく。

 そして、残り200メートルの標識。

 パロールが、ほんの少しだけ重心を沈める。

 

 ――ビュンッ!

 

 そんな風を切る音が聞こえた気がした。

 一瞬の加速。たった数歩の爆発的なストライドで、彼女の身体がトップギアへと切り替わる。

 後ろから必死に食らいつこうとしていた後続のウマ娘たちが、まるでスローモーションの映像に切り替わったかのように、あっという間に置き去りにされていく。

 届かない。誰も、彼女の背中に触れることすら許されない。

 

「パロール、圧勝!! 後続に影すら踏ませない、持ったままでのゴールイン! 新たな世代の主役は自分だと言わんばかりの、衝撃的なデビュー戦です!!」

 

 2着に5馬身以上の絶望的な差をつけ、パロールは悠々とゴール板を駆け抜けた。

 地鳴りのような大歓声に包まれる中山レース場。

 検量室へ引き上げてくる彼女は息一つ乱しておらず、歓喜に沸くスタンドのカメラ群に向かって、完璧な一番星の笑顔を見せつけていた。

 

「……すごいよ、マキちゃん」

 

 私は、誰にも聞こえない声で呟いた。

 彼女は悠々と大きな翼を広げ、空を舞うことに成功した。遥か高みの一番星となるべく、最初の一歩を踏み出したのだ。

 私は、コートの中で強く拳を握りしめた。

 今の私は3連敗中の、まだ条件戦を這いずり回っている鈍重な落ちこぼれだ。

 でも、絶対にこのままでは終わらない。

 瞬発力が足りないのなら、それをものともしない長い距離を全力で駆け抜けることが出来るよう、私のエンジンを鍛錬を積むだけだ。

 

(待ってて、マキちゃん。まだ届かないけど、私も必ず同じ舞台に……)

 

 冬の凍てつく空気を胸いっぱいに吸い込み、私は熱狂に包まれるスタンドを背にした。

 私が今行くべき場所は、才能を称え合う華やかな祝勝会ではない。多摩川の河川敷で待つ、あの泥だらけの廃タイヤの前だ。

 一番星の背中を捕まえるための、長く、苦しい冬の鍛錬が、再び始まろうとしていた。

 




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