祭りでも、怪物でもなく   作:藤沢大典

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第16話:乾いた東京と、観覧席の妹

 2月14日。

 世間はバレンタインデーという華やかなイベントで浮き立っていたが、私にとってはそのような甘い空気とは一切無縁の一日だった。

 

 東京レース場。芝1800m。

 奇しくもここは、去年の6月に私が『衝撃の圧勝』を飾った、あのメイクデビュー戦と全く同じ舞台、同じ距離である。

 だが、あの日と今日とでは、決定的に違う条件が一つだけあった。

 

「……軽いなぁ……」

 

 パドックからターフへと足を踏み入れた瞬間、靴の裏から伝わってくる感触に、私は小さく息を吐いた。

 雲一つない、突き抜けるような冬の青空。冷たく乾燥した風。

 バ場状態は『良』。

 昨年は水を含んでべちゃべちゃだった芝は、今日は美しく刈り揃えられ、パンパンに乾いて硬く引き締まっている。他の子たちがその自慢のバネを120%発揮できる、最高の高速バ場だ。

 

「いいか、リバーライト」

 

 検量室の前で、伊関トレーナーがノートから顔を上げずに言った。

 

「今日は以前のように、連中が勝手にペースを乱して自滅してくれるような展開にはならない。この走りやすいバ場なら、誰もが息を潜めてスタミナを温存し、最後の直線での純粋な『スピード勝負』を挑んでくるはずだ」

「はい。……わかっています」

 

 秋から冬にかけての3連敗。その悔しさが、否応なしに脳裏をよぎる。

 私の脚は、あの重い廃タイヤを引き続けることで、一定の出力を延々と保ち続けるための四駆として最適化されている。この弾むような乾いたターフの上では、私の脚は空回りするばかりで、エリートたちのような一瞬のトップスピードを生み出すことができない。

 

(……でも、やるしかない。スピードの絶対値が足りないなら、少しでも早くスロットルを開けて、強引に押し切るだけだ)

 

 私は、自身の胸の奥にあるディーゼルエンジンに火を入れるように、深く、長く深呼吸をした。

 

 同じ頃。

 東京レース場の熱気あふれる巨大なスタンドの片隅に、目深に被ったキャップとマフラーで顔を隠した一人の少女の姿があった。

 

(……お姉ちゃん)

 

 パロールだ。

 トレセン学園の今世代の主役の一人であり、圧倒的なデビューを飾った天才ウマ娘。彼女は今日、自身のトレーニングの合間を縫って、誰にも知られないようにお忍びでこの場所へやってきていた。

 スタンドの観客たちの声が、パロールの耳に無遠慮に飛び込んでくる。

 

「リバーライトか。デビュー戦は強かったけどな」

 

「あれは他のウマ娘たちが勝手にペース崩して自滅しただけのまぐれだろ。まともなペースの良バ場じゃキレ負けして全然ダメだ。今日も良バ場の東京の直線じゃ、とても持たないね」

 

 心ないファンたちの評価に、パロールはマフラーの下でギュッと唇を噛み締めた。

 違う。お姉ちゃんはそんな安い言葉で片付けられるような、底の浅いウマ娘じゃない。

 パロールは知っている。彼女が毎晩、泥だらけになって寮に帰ってくる姿を。誰よりも重いものを引き、誰よりも正確な秒針を刻もうと足掻いている、その恐ろしいまでの執念を。

 

(……見せてよ、お姉ちゃん。私のこの重い『天才の鎧』を壊しに来てくれるんでしょう?)

 

 パロールは、祈るような、あるいは怯えるような視線で、ターフに立つ不格好な姉の姿を見つめていた。

 

「――各ウマ娘、一斉にスタートしました!」

 

 ゲートが開き、16人のウマ娘たちが一斉にターフへと飛び出した。

 私は伊関さんとの特訓通り、周囲のハイペースな飛び出しには付き合わず、自分の心拍と歩幅だけを信じて中団の位置につけた。

 

(プラス0.2秒。……よし、完璧なペースだ)

 

 私の体内時計は、寸分の狂いもなく「私が最も長く走り続けられる適正回転数」を刻んでいた。

 しかし、予想通り、デビュー戦の時のような『周囲の混乱と自滅』は起きない。乾いて走りやすい良バ場では、エリートウマ娘たちは無駄なスタミナを消費することなく、私の後退にも惑わされず、快適に風を切って進んでいく。

 私の重圧な足音は、彼女たちの軽やかな蹄の音にかき消されてしまっていた。

 やがて、レースは東京レース場が誇る、525mの長く過酷な最終直線へと差し掛かる。

 

(ここから……っ! 回れ、私のエンジン!!)

 

 私は、普段よりも早めのタイミングでスロットルを全開に押し込んだ。

 ドッ、ドッ、ドッ! という重い駆動音が全身を駆け巡り、ジリジリと前方の集団へと迫っていく。

 バテる気配は微塵もない。スタミナのタンクはまだ半分以上残っている。

 だが――。

 

「さあ、直線での末脚勝負!抜け出したのは……」

 

 ――ヒュンッ! ヒュンッ!

 

 私の両脇を、凄まじい風切り音とともに、二つの影が通り過ぎていった。

 それは、道中でしっかりと脚を溜め、息を整えていた、瞬発力に勝るエリートウマ娘たちだった。

 彼女たちの背中から、目に見えない『翼』が広がるのが見えた。パンパンに乾いた良バ場が、彼女たちのバネを極限まで跳ね上げ、一瞬でトップスピードへと押し上げていく。

 

(……っ、また、このパターン……!)

 

 私は必死にターフを蹴り、前を行く二つの背中に手を伸ばす。

 止まらない。私の脚はまだ動く。けれど、どうしても『最高速度』の絶対値が足りない。私が一歩進む間に、彼女たちは一歩半進んでしまう。

 距離が縮まらない。むしろ、わずかずつ離されていく。

 

「――ガーネットオリーブ、1着でゴールイン! 続いて2着マングローヴァ、3着にリバーライトが粘り込みました!」

 

 無情なゴール板が、私の頭上を通り過ぎた。

 結果は、3着。

 掲示板は確保したものの、またしても『良バ場のスピード勝負』という壁に弾き返された格好だった。

 

「……すみません、伊関さん。また、届きませんでした」

 

 検量室の裏。私は綺麗なジャージのまま、深く頭を下げた。

 

「謝るな。完璧なラップだったぞ、リバーライト」

 

 伊関さんはノートから顔を上げず、淡々とした声で言った。

 

「良バ場の1800m。連中が最も得意とする土俵で、相手にミスがなかったにもかかわらず、お前は上がり3ハロンのタイムを一切落とさずに走り切って3着をもぎ取った。これは『惨敗』じゃあない。お前のエンジンの基礎出力が、確実に底上げされている証拠だ」

「でも……」

「自分の呼吸を聞いてみろ。お前、今、息が上がっているか?」

 

 伊関さんに言われ、私はハッとした。

 

 全力で直線を走り抜けたはずなのに。私の呼吸は、少し早いだけで、ゼーゼーと肺が悲鳴を上げるような苦しさは全くなかったのだ。

 対して、私を追い抜いて1着、2着に入ったウマ娘たちは、検量室の奥で膝に手をつき、酸素を求めて激しく肩で息をしている。彼女たちは、あの525mの直線で、文字通りすべての燃料を使い果たしていた。

 

「……私のスタミナ、全然余ってます」

「だろうな。1800m程度では、お前のタンクを空にすることなど不可能なんだ。……今はひたすら耐えろ。距離が伸びるレースに出られるようになるまで、この乾いたバ場での悔しさを、エンジンの出力変換への糧にしろ」

 

 伊関さんの言葉に、私は強く拳を握りしめた。

 もっと距離を。もっと重い負荷を。

 この有り余るエネルギーをすべてぶつけられる場所へ辿り着くまで、私は決して足を止めない。

 

 その頃。スタンドの喧騒を背に、パロールは一人、静かに帰路についていた。

 

「なんだ、やっぱりリバーライトは良バ場じゃ無理か」

「前の勝利も偶然に助けられただけか。本来は今回の3着が精一杯ってところだ」

 

 すれ違う観客たちの呆れ声を聞きながら、パロールはマフラーの下で、微かに、けれど獰猛な笑みを浮かべていた。

 彼女には、はっきりと見えていたのだ。

 

 ゴール板を駆け抜けた瞬間。

 前を走っていた二人は完全に失速し、脚が止まりかけていた。

 だが、3着で入線した姉だけは、そこからもう一周走れると言わんばかりのペースで、全く減速することなく第1コーナーの奥まで走り抜けていったことを。

 

(……すごいよ、お姉ちゃん)

 

 もし、このレースが2400mだったら。

 前の二人は確実にガス欠を起こして沈み、お姉ちゃんのあの力強い走りが、涼しい顔をしてすべてを追い抜いていたはずだ。

 パロールの背筋に、ゾクッとするような冷たい震えが走った。

 それは恐怖であり、同時に、たまらないほどの安堵だった。

 

(早く来て。お姉ちゃん)

 

 天才・パロールという重い鎧を着て、私はこれからも勝ち続ける。この学園の頂点に君臨するエリートたちをすべてなぎ倒し、孤高の一番星として。

 でも、その先で。

 すべてを塗りつぶすような無尽蔵のエンジン音を響かせて、お姉ちゃんが私を追いかけて来てくれる。

 パロールは、冬の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込むと、学園へと向かう足取りを力強く速めた。

 姉妹の距離は、乾いたターフの上で、目に見えない確かな熱を帯びながら少しずつ縮まっていた。

 




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