祭りでも、怪物でもなく   作:藤沢大典

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第17話:2500mの泥濘と、疑念の点火

 3月某日。

 厳しい冬の寒さがようやく和らぎ、ターフに春の気配が混じり始めた中山レース場。

 私は、パドックの芝をゆっくりと踏みしめながら、足の裏から伝わってくる感触に意識を集中させていた。

 

 バ場状態は『稍重(ややおも)』。

 昨晩降った雨の影響がわずかに残り、芝の根元にじっとりと水分が滞留している状態だ。あの時のように足首まで沈むような酷い泥濘ではないが、パンパンに乾いた良バ場とも違う。踏み込むたびにネチャリと芝が靴底にまとわりつき、脚の引き上げに微かな抵抗を感じる。スピード重視のウマ娘たちが最も嫌う、中途半端に体力を奪われるコンディション。

 

 そして今日のレースは『潮来特別』。

 距離は、芝2500m。

 

「……やっと、この距離が来た」

 

 私は、自然と口角が上がるのを抑えきれなかった。

 これまで私が走ってきた1800mや2000mは、私に言わせれば『息が上がる前に終わってしまう短距離走』に等しかった。だが、2500mとなれば話は別だ。中山レース場の名物である急坂を二度も登らなければならない、心肺機能とスタミナの限界を試される過酷な長丁場。

 私の大きなガソリンタンクと分厚いエンジンが、その真価を100%発揮できる舞台。

 

「ニヤつくな、リバーライト」

 

 検量室の前、伊関トレーナーがノートで私の頭を軽く叩小突いた。

 

「距離が伸びたからといって、やることは変わらん。序盤は無理をせず、自分の適正回転数で時計の針を刻め。中山の急坂を二度越えるこのコースは、ペース配分を少しでも誤れば最後に地獄を見る。……周りがバテるのを待て。そして第3コーナーで、すべてをすり潰せ」

「はいっ!!」

 

 私は力強く頷き、気合とともにゲートへと向かった。

 これまでの良バ場での3連敗の悔しさを、この長く苦しい距離の果てで、すべて晴らしてみせる。

 

「――各ウマ娘、ゲートイン完了。……スタートしました!」

 

 ファンファーレが鳴り響き、11人のウマ娘が一斉にターフへと飛び出す。

 私は伊関さんの指示通り、周囲のポジション争いには加わらず、スッと力を抜いて集団の中団やや後方へと位置を下げた。

 

(歩幅、よし。呼吸、よし。……コンマ3秒のプラス。完璧なペース)

 

 私の内側で、正確なメトロノームがカチ、カチと音を立て始める。

 一周目。スタンド前を通過し、最初の中山の急坂を登る。

 良バ場の時なら軽やかに坂を駆け上がっていくエリートたちも、今日の『稍重』の芝にはわずかに苦戦しているようだった。彼女たちの軽快な蹄の音に混じって、泥が跳ねる重い音が聞こえてくる。

 

(……やっぱり、今日の芝は少しだけ脚に絡みつく)

 

 でも、私にとっては、多摩川の河川敷で泥まみれの廃タイヤを引きずっていたあの重圧に比べれば、そよ風のような抵抗でしかない。

 私は全く同じペース、全く同じフォームのまま、ただ機械のように淡々と周回を重ねていった。

 

 やがて、レースは二周目の向こう正面へと差し掛かる。

 距離はすでに1500mを越えたが、今だホームストレッチは遠い。

 私のエンジンは悲鳴を上げるどころか、まるで『ようやく準備運動が終わった』と言わんばかりに、身体の奥底から力強い熱と駆動音を発生させ始めていた。

 

(いける。……全然、苦しくない!)

 

 第3コーナー。

 伊関さんに指定された、勝負を仕掛けるポイント。

 私は、心臓の奥にあるスロットルを一気に全開まで押し込んだ。

 

 ――ドッ、ドッ、ドッ、ドッ!

 

 重厚な排気音とともに、私の太い脚が稍重のターフを力強くえぐり取る。

 その瞬間、私は信じられない光景を目にした。

 

「……えっ?」

 

 前を走っていた先行集団が、まるで急ブレーキをかけたかのように、一気に私に向かって下がってきたのだ。

 いや、違う。彼女たちが急減速したのではない。私が加速したのと同じタイミングで、2500mという未知の距離と、稍重の重い芝に脚を削り取られた彼女たちのスタミナが、一斉に『限界』を迎えたのだ。

 

「――第4コーナーをカーブして、さあ最後の直線! 先頭集団の脚が止まった! 外から一気にリバーライトが捲っていく!!」

 

 実況の声が、驚愕に裏返る。

 二度目の中山の急坂。

 周囲のウマ娘たちの顔は苦痛に歪み、フォームはバラバラに崩れ、まるで泥の沼でもがいているように足取りが重い。

 その真横を、私は息一つ乱すことなく、一定の重いリズムを刻んだまま涼しい顔で通り過ぎていく。

 

(回れ、回れ……っ! 止まるな、私のエンジン!)

 

 私はただ前だけを見て、力強くターフを蹴り続けた。

 背後からの足音は、もはや一つも聞こえない。良バ場で私を置き去りにした、あの鋭い風切り音も、今日は全く聞こえなかった。

 

「――リバーライト、完全に抜け出した! 後続を突き放す! 2バ身、いや3バ身のリード!!」

 

 直線を独走する。

 歓声が遠く聞こえる。自分の心臓の音だけが、世界で一番大きく鳴り響いている。

 私は、後続を全く寄せ付けることなく、トップスピードを維持したまま、歓喜のゴール板を駆け抜けた。

 

「――リバーライト、圧勝!! 2500mの長丁場を、圧倒的なスタミナでねじ伏せました!!まさかの3バ身差!!」

 

 ゴール後、少しスピードを落としながら、私は大きく息を吐いた。

 やった。勝てた。

 距離が伸びれば、私のスタミナが活きる。伊関さんの言った通りだった。

 しかし。

 検量室の裏で私を出迎えた伊関トレーナーの表情は、勝利の喜びに沸く私の予想とは全く違うものだった。

 

「伊関さん!やりました、1着です! やっぱり距離が伸びたおかげで……」

「…………」

 

 伊関さんは、私の歓喜の声に頷きもせず、手元のノートとストップウォッチの画面を、穴が開くほどの鋭い視線で交互に睨みつけていた。

 その眉間には、深いシワが刻まれている。

 

「あ、あの……? 私、何かラップのペース、間違えてましたか?」

「……いや。ペースは完璧だった。指示通りのタイムだ」

 

 伊関さんは、独り言のように低く呟いた。

 

「2500m。確かにお前の無尽蔵のスタミナが有利に働く距離ではある。……だが、それにしてもだ」

 

 彼はストップウォッチのボタンをカチカチと押し、各ハロンのラップタイムを再確認する。

 

「いくら長距離とはいえ、このクラスの連中が、最後の直線であそこまで完全に脚が止まるものか? お前が3バ身差をつけるほど、他の相手のタイムは落ち込んでいた。まるで、見えない泥沼にでも足を取られたようにな」

「見えない泥沼……?」

「……今日のバ場は『稍重』だったな」

 

 伊関さんはゆっくりと顔を上げ、私の泥で汚れた脚を見つめた。

 彼の脳内で、これまでの私のレースデータが凄まじい勢いで組み替えられ、一つの仮説を構築しようとしていた。

 デビュー戦、東京1800m。バ場状態『重』。結果、圧勝。

 その後の条件戦。バ場状態『良』。結果、スピード負けの3連敗。

 そして今日、中山2500m。バ場状態『稍重』。結果、3バ身差の圧勝。

 伊関さんの瞳の奥に、理知的な光が灯る。

 

(……本当に、デビュー戦はただの『相手の自滅』だったのか? 本当に、今日の圧勝は『距離が伸びたから』という理由だけなのか? こいつの脚は……ひょっとすると……)

 

「伊関さん?」

「……いや、なんでもない。今はまだ、推論の域を出ない話だ」

 

 伊関さんはパタンとノートを閉じ、いつもの無愛想な表情に戻って私を見た。

 

「とにかく、よくやった。これでお前のエンジンの出力が、長丁場で通用することが証明された。……さあ、行くぞ」

「はい!祝勝会ですね!」

「ああ。今日は3バ身差の圧勝に免じて、特大のロールかつ定食にしてやる」

「やったぁ!」

 

 無邪気に喜ぶ私の前を歩きながら。

 伊関さんは、自身のノートの表紙をトントンと指で叩き続けていた。

 

 ただの『スタミナ自慢の鈍重なウマ娘』だと思っていた自分の担当ウマ娘が、もしかすると、エリートたちの常識を根底から覆すような『極端で恐ろしい特性』を秘めているのではないか。

 その疑念の種は、伊関の胸の中で、静かに、けれど確実に芽吹き始めていた。

 




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