深夜二時。
トレセン学園のトレーナー寮、その一室。
消灯時間をとうに過ぎ、静まり返った暗い部屋の中で、俺のデスクのモニターだけが青白い光を放っていた。
「……」
俺は、冷めきったブラックコーヒーを喉に流し込みながら、マウスのホイールを無言で回し続けていた。
画面に映し出されているのは、リバーライトの過去のレース映像と、ハロンごとのラップタイム、歩幅、ピッチ、心拍数など、あらゆる数値を記録した膨大なデータ群だ。
今日の潮来特別、中山2500mでの3バ身差の圧勝。
彼女の適性が長距離にあることは間違いない。それは予想通りだ。
だが、あの最後の直線で、後続のウマ娘たちがまるで泥沼に足を取られたかのように一斉に失速した光景が、どうしても俺の脳裏から離れなかった。
(距離が長かったから、連中がバテた? ……いや、それだけじゃない。あの失速の仕方は異常だ。何か、他の要因が連中の走りを決定的に狂わせた)
俺は、今日のレース映像を一時停止し、バ場の状態を示すデータに目を向けた。
『稍重(ややおも)』。
昨夜の雨の影響で、芝の根元に水分が残っていた。
俺はマウスを操作し、今度は昨年の6月、リバーライトが『衝撃のデビュー戦』を飾った時のデータを呼び出した。
東京1800m。あの日のバ場状態は、梅雨の豪雨による最悪の『重バ場』。
あの時、俺は「リバーライトが不自然にペースを落としたことで、後続が疑心暗鬼に陥り、勝手に自滅した」と結論づけていた。
(……本当に、そうだったのか?)
俺はデビュー戦の映像を再生し、リバーライトの『脚元』だけを極限まで拡大して、コマ送りで再生し始めた。
「……なっ」
思わず、俺の口から声が漏れた。
画面の中、足首まで浸かるような
他のエリートウマ娘たちが、着地の瞬間にツルリと滑り、推進力を泥に吸収されてフォームを崩している中。リバーライトの靴底は、まるでスパイクが直接地球の核に突き刺さっているかのように、一ミリたりともブレていなかったのだ。
泥を掴み、えぐり、確実に前への推進力へと変換している。
(滑っていない……。いや、滑らないように走っているんじゃない。こいつのフォームは、最初から『足場が悪いこと』を前提とした重心移動になっているんだ)
俺は震える手でキーボードを叩き、彼女のこれまでの全レースの『上がり3ハロン(最後の600m)』のタイムを並べて比較した。
・デビュー戦(中山2000・良バ場)35秒7
・条件戦①(東京1800・重バ場)35秒4
・三面川特別(新潟1800・良バ場)35秒6
・山中湖特別(東京1800・良バ場)35秒6
・tvk賞(東京2000・良バ場)35秒5
・条件戦②(東京1800・良バ場)35秒3
・今日のレース(中山2500・稍重)35秒3
データが弾き出したその事実に、俺は戦慄した。
エリートウマ娘たちの上がり3ハロンのタイムは、バ場状態によって劇的に変化する。良バ場なら33秒台から34秒台という脅威的なトップスピードを叩き出すが、今日のような稍重や重バ場になれば、泥にバネを奪われて36秒、あるいは37秒台まで露骨にタイムを落としてしまう。
だが、リバーライトは違った。
良バ場だろうが、稍重だろうが、泥沼の重バ場だろうが。
彼女の上がり3ハロンのタイムは、常に『35秒台半ば』で完全に固定されていたのだ。
「……そうか。そういうことだったのか」
俺は、暗い部屋の中で一人、低く笑い声を漏らした。
こいつは、良バ場でスピード負けしていたんじゃない。
どんなコンディションでも、常に一定の、重く強い出力を出し続けていただけなのだ。
良バ場では、34秒で走るエリートたちに置いていかれる。
しかし、天候が崩れ、バ場が悪化し、エリートたちが37秒、38秒とタイムを落とす中、リバーライトだけは涼しい顔で『35秒台』を出し続ける。
相対的に、彼女が圧倒的なスピードで他を抜き去っているように見えていたのだ。
(なぜ、こんな極端な脚質が生まれた……?)
そこまで考えて、俺はハッとした。
脳裏に浮かんだのは、多摩川の河川敷で、毎日毎日、大人が何人も乗れるような巨大な廃タイヤを引きずり回していた、泥だらけの彼女の姿だ。
俺は、長距離に耐えうるスタミナと、ブレない強靭な体幹を作らせるためだけに、あのメニューを課していた。
だが、考えてみれば当然のことだ。
雨の日も風の日も、ぬかるんだ土手で自身の体重の何倍ものゴムの塊を引っ張り続ければ、どうなるか。
少しでも足元が滑れば、タイヤの重みに引きずり倒される。だから彼女は無意識のうちに、泥の中でも絶対に滑らない、極限まで重心を下げた強烈な『グリップ力』を身につけていたのだ。
美しいターフを風のように滑空するスポーツカーたちとは真逆の、泥を噛みちぎって強引に進む、本物の『四駆』の脚。
「……見つけたぞ。リバーライト」
俺は、モニターの光に照らされながら、手元のノートに太いペンで力強く書き殴った。
無尽蔵のスタミナ。
正確無比なペース配分。
そして――『異常なまでの重バ場適性』。
これこそが、才能がないと泣いていたあの臆病なウマ娘に隠されていた、真の牙。
華やかなスポーツカーたちが集う世代を、根底から破壊するための特異点。
キタサンブラックの脅威の逃げも、ドゥラメンテの研ぎ澄まされた刃も、パロールの圧倒的なスピードも。
それらはすべて、太陽が輝く『良バ場』という前提があって初めて成立する才能だ。
もし、彼女たちが絶対に避けられない大一番で、空が泣き、ターフが底なし沼へと変貌したなら。
誇り高きエリートたちの翼は泥を吸って重く垂れ下がり、自慢のサスペンションは悲鳴を上げるだろう。
その絶望の泥濘の底から、俺の育てた不格好な怪物が、大排気量のエンジン音を響かせてすべてをすり潰しにいくのだ。
「……ふっ、ははははっ!」
俺は、普段の自分では考えられないほど感情を剥き出しにして、暗い部屋の中で声を上げて笑った。
痛快だった。
生まれ持った才能の差など、この泥臭い武器さえあればひっくり返せる。いや、エリートたちが高く飛べば飛ぶほど、泥に引きずり下ろされた時の絶望は深くなる。
「ルクスキャリバー……お前がこいつに一目置いたのも、偶然ではなかったというわけか」
同室の先輩であり、完璧な秒針を持つ逃亡者。彼女は、理屈ではなく本能で、リバーライトの中に眠るこの『悪路の怪物』の気配を感じ取っていたのかもしれない。
俺はコーヒーカップを置き、窓の外を見た。
夜空には雲がかかり、星は見えない。
だが、俺にはその曇り空が、これ以上ないほどの希望に見えた。
「雨を待とう。リバーライト」
俺は、窓ガラスに映る自分自身の顔に向かって、獰猛な笑みを浮かべたまま呟いた。
「春が過ぎれば、あの鬱陶しい梅雨の季節がやってくる。……その時、お前の本当の産声を、この学園のすべての連中に聞かせてやるんだ」
パズルは完全に組み上がった。
落ちこぼれの小さな四駆は、誰も知らないうちに、エリートたちを恐怖の底に陥れる『泥の怪物』へと変貌を遂げていた。
ノートのページを強く閉じると、俺はようやく、深い満足感とともに目を閉じた。
明日の朝からの特訓メニューを、さらに残酷なものへと書き換えるために。
伊関トレーナー
本作オリトレ。
リバーライトのモデル馬、マリアライトの調教師が久保田さんらしいので「久保田っぽい名前…ク◯タっつったらヤ◯マーとかコマ◯とか…あ、イセ◯でいんじゃね?」と安易に決められた。
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