祭りでも、怪物でもなく   作:藤沢大典

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第19話:澄んだ湿地と、絡みつく緑の鎖

 その日の早朝。私はいつもの多摩川の河川敷ではなく、伊関トレーナーが運転する車の助手席に乗っていた。

 学園から車を走らせること数十分。窓の景色からビルや住宅街が消え、ひなびた田園風景が広がる郊外へと足を踏み入れた頃、車は舗装されていないあぜ道で静かに停まった。

 

「降りろ、リバーライト」

 

 伊関さんに促されて車外に出ると、春の生温かい風に乗って、土と草の、青々とした瑞々しい自然の匂いが鼻をくすぐった。

 目の前に広がっていたのは、澄んだ湧き水が流れ込む、手付かずの『自然の湿地帯』だった。

 水面は驚くほど透き通っており、冷たく清らかな水であることが一目でわかる。しかし、問題はその『中身』だった。

 水深は膝下ほどだが、底には長年堆積した分厚い泥が沈殿しており、何より、水の中には太く強靭な水草がジャングルのようにびっしりと群生していた。

 

「あの……伊関さん?ここは一体……?」

「今日からの、お前の新しい特訓場だ」

 

 伊関さんは、トランクからいつものストップウォッチとバインダーを取り出し、無愛想に言い放った。

 

「お前に、お前自身の『本当の武器』を教えてやる。リバーライト、お前は勝てないことをスピード不足のせいだと思っていたな。確かにそれは事実だ。だが、お前が昨日の2500メートルや、過去の重バ場で勝てた理由を『相手が勝手にバテてくれたから』だと思っているなら、それは大きな間違いだ」

 

 伊関さんはバインダーに挟まれたデータ――昨夜、彼が深夜までかかって解析したラップタイムの表を私に見せた。

 

「お前の上がり3ハロンのタイムは、良バ場だろうが、足首まで浸かる重バ場だろうが、常に『35秒台』で固定されている。……この異常さが分かるか?」

「えっと……つまり、私がどんなバ場でも、同じペースでしか走れない不器用なウマ娘ってことですか……?」

「バ鹿野郎。逆だ」

 

 伊関さんは、苛立たしげに私の額をバインダーの角で軽く小突いた。

 

「エリートたちのタイムは、バ場が悪化すれば露骨に落ちる。33秒で走れるスポーツカーも、泥濘(ぬかるみ)の中では36秒にまで失速する。だが、お前は泥の中でも35秒を出し続ける。……これは不器用なんじゃない。お前が、泥や悪路の抵抗を完全にねじ伏せ、無効化する『異常なグリップ力とエンジン出力』を持っているという確たる証拠だ」

 

 伊関さんの言葉が、私の頭の中でゆっくりと反響していく。

 泥の抵抗を、無効化する。

 エリートたちが苦しむ悪路を、平然と走り抜ける脚。

 

「多摩川でのタイヤ引き。あの特訓が、お前の重心を極限まで下げ、泥を確実に噛みちぎる強靭な脚を作り上げた。……お前は良バ場で舞う蝶じゃない。悪天候の泥沼でこそ真価を発揮する、泥濘(ぬかるみ)の申し子だ」

 

 伊関さんは、目の前に広がる美しい、けれど凶悪な湿地帯を指差した。

 

「エリートどもが絶望する重バ場。それすらもお前にとっては『舗装された道』に等しいと錯覚させるほどの極限の悪路適正。それを確固たるものとするための訓練場がここだ。……行ってこい、リバーライト。向こう岸まで、全力で走り抜けろ」

「――っ、はい!」

 

 自分の本当の武器。

 その言葉が、私の胸の奥のエンジンに強烈な火を入れた。

 私はジャージの袖をまくり上げ、躊躇うことなく、澄んだ水が張る湿地へと足を踏み入れた。

 

 ――ズブッ……!

 

「ひっ!?」

 

 だが最初の一歩を踏み出した瞬間、想像以上の抵抗に思わず声が出た。

 透き通った水の下に隠れていた分厚い泥が、靴を、足首を、ふくらはぎを、強烈な力で吸い込んだのだ。

 そして何より厄介なのは、水中に群生する『水草』だった。

 ただの草だと思っていたそれは、脚を動かそうとするたびに強靭なツルとなって足首に幾重にも絡みつき、見えない鎖のように私の動きを完全に封じ込めてきた。

 

(なんだ、これ……っ! タイヤより、全然前に行かないっ!)

 

 背後から均等に引っ張られる廃タイヤの重みとは、全く次元が違う。

 泥の吸着力、水の重い抵抗、そして不規則に絡みつく水草の罠。

 私は強引に脚を引き抜こうと、エンジンの出力を上げて泥を蹴り出そうとした。

 しかし。

 

 ――バシャァッ!!

 

「あぶっ……!?」

 

 右足に絡みついた水草が予想以上に頑丈で脚が上がりきらず、私は無様にバランスを崩し、顔から盛大に水面へと突っ込んでしまった。

 冷たく澄んだ水が口に入り、土の味がした。

 むせ返りながら、四つん這いになって立ち上がろうとするが、今度は両手まで泥にズブズブと沈み込み、水草が腕にまで絡みついてくる。

 

「どうした、リバーライト!もうガス欠か!」

 

 岸辺から、伊関さんの容赦ない声が飛ぶ。

 

「げほっ、ごほっ……!い、いけます!まだ……っ!」

 

 私は泥水の中から顔を上げ、ターフを走る時の綺麗なフォームを完全に捨て去って、再び立ち上がった。

 重心を限界まで落とす。水草ごと泥をえぐり取るために、極端なまでに膝を高く上げ、真下へと力強く足を踏み下ろそうとする。

 だが、ダメだ。

 私の四駆の脚は、確かに強靭なトルクを持っている。しかし、この不安定で複雑な抵抗の中でそれを推進力に変える術を、まだ私の身体は知らなかった。

 一歩進んでは水草に足を取られ、二歩進んでは泥に滑って転倒する。

 走るどころではない。ただ歩くことすらままならず、私は泥と水草にもがく羽虫のように、同じ場所でバシャバシャと無様な水飛沫を上げるしかなかった。

 

「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」

 

 開始からわずか数分。距離にして、岸からたった5メートルほど進んだだけで、私の肺は破れそうなほど悲鳴を上げ、脚の筋肉は乳酸でパンパンに膨れ上がっていた。

 もう、一歩も脚が上がらない。

 私は膝をつき、肩で激しく息をしながら、ただ水面に広がる波紋を見つめることしかできなかった。

 

「……今日はそこまでだ。上がってこい」

 

 伊関さんの静かな声に、私は悔しさで唇を噛み締めながら、這うようにして岸辺へと戻った。

 ジャージは泥で汚れ、髪には水草が絡みついている。

 自分の武器だと教えられた悪路に、手も足も出ず完敗したのだ。

 ザッ、と草を踏んで、伊関さんが私の前に立った。

 彼が見下ろしてくる視線に、失望の色がないか怖くて、私は顔を上げられなかった。

 

「……すみません。私、まともに走ることすら……」

「謝るな。初日から走れるようなら、わざわざこんな場所まで連れてきたりはしない」

 

 伊関さんは、私の頭に絡みついていた水草を無造作にむしり取りながら、淡々と言った。

 

「タイヤ引きは直線的な負荷だ。だが、実際の重バ場は違う。泥の深さ、芝の絡みつき、滑る路面……すべてが不規則に脚の回転を阻害してくる。その『不規則な負荷』の中で、お前のエンジンを常に最高効率で回し続けるための制御術。それをここで身体に叩き込むんだ」

 

 伊関さんは、果てしなく広がる湿地帯を見据えた。

 

「春のGⅠシーズンが始まり、そして終われば、鬱陶しい梅雨の季節がやってくる。……それまでに、この湿地をターフと同じスピードで駆け抜けられるようになれ」

 

 私は泥だらけの顔を上げ、伊関さんの言葉に強く頷いた。

 

「はいっ……!絶対に、走れるようになってみせます!」

 

 エリートたちが空を飛ぶための美しい翼を磨く中。

 私はこの澄んだ水と泥の底で、誰にも知られることなく、どんな悪路でも絶対に止まらない絶対的なモンスターマシンとしての修練を積んでいく。

 水草の鎖を引きちぎるための、新しい、そして果てしなく過酷な戦いが幕を開けた。

 




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