寮へ続く見慣れた並木道を歩きながら、私の心臓はずっと、落ち着きなく早鐘を打ち続けていた。
夕暮れの冷たい風が頬を撫でていくけれど、身体の奥底には微かな熱が燻っている。右手のひらにぎゅっと握りしめているのは、伊関と名乗ったあのトレーナーから渡された、ノートの切れ端だ。
そこには彼の名前と、電話番号だけが飾り気のない真っ直ぐな字で書かれていた。
(私の『車体』を、一から作り直す……)
河川敷で言われた言葉が、頭の中で何度もリフレインしている。
トラクターとF1。異常な心肺機能。そして、それを支えきれていない貧弱な身体。
選抜レースで惨敗してからの一ヶ月間、誰もいない泥濘(ぬかるみ)の中でただ無様に転がり続けていた私を、あの人はずっと見ていた。エリートたちが集う綺麗なターフではなく、泥に塗れた悪路を這いずり回る私の中に、『スタミナ』と『諦めの悪さ』という武器を見出してくれた。
(あんなスカウト、からかわれてるだけかもしれないのに)
頭の片隅では、臆病な私がそう囁いている。
でも、あの人の真っ直ぐな瞳を、嘘だと切り捨てることはどうしてもできなかった。
寮の裏口からこっそりと入り、誰にも会わないように急いで大浴場へと向かった。
ジャージを脱ぎ捨てカゴに突っ込み、シャワーの熱いお湯を頭から被って身体にべったりとついた泥や砂利を丁寧に洗い流していく。足元に広がる茶色い水が透明に変わっていくのを見つめながら、私はふと、曇った鏡に映る自分の身体に目を向けた。
細い腕。薄い胸板。
脚の筋肉には、瞬発力を生み出すようなしなやかなバネの膨らみなんてどこにもない。
少し強い調教メニューをこなせばすぐに熱を出し、すぐに息を上げてしまう、ひ弱で脆い身体。
『今の脆い身体のままお前をフル稼働させたら、レースの途中で自壊するぞ』
伊関さんの言葉は、残酷なまでに正確だった。
鏡の中の自分と、脳裏に焼き付いている『マキちゃん』の姿が重なる。
妹のパロール――マキちゃんの身体は、私とは全く違っていた。弾むような筋肉、無駄のない体幹。どんな過酷なレースでも絶対にブレない、生まれ持った『強さ』の結晶のようなシルエット。
才能の差は、精神論なんかじゃない。骨の太さ、筋肉の質、そういった残酷な物理の差として明確に存在している。
(でも……もし、この身体を、一から作り直すことができたなら)
絶対に壊れない、頑丈な土台。
それが手に入れば、私はもう一度、マキちゃんの背中を追うことができるのだろうか。
『姉貴』と突き放したあの子に、もう一度『お姉ちゃん』と呼ばせることができるのだろうか。
ギュッと両手で顔を覆い、深く息を吐き出す。
答えは出ない。でも、止まっていたはずの足が、確かに前を向こうとしているのを感じていた。
泥を落とし、寮が指定するスウェットに着替えた後。
自分の部屋のドアを開けると、そこは外の喧騒が嘘みたいに静まり返っていた。
「……ただいま戻りました、先輩」
「ああ。今日は少し、遅かったな」
机に向かったまま、同室の先輩が短く応えた。
黒を基調とした私服に身を包む先輩は、華やかで賑やかなトレセン学園のウマ娘というよりは、孤高の職人のような研ぎ澄まされた空気を纏っている。
ルクスキャリバー先輩。まるでストップウォッチを持ったまま走っているかのような完璧と言えるペース管理で常に先頭を走り続ける、私とは違った眩いばかりの経歴を持つ先輩。デビューした年にGⅠ出場経験も持つ、間違いなく上澄みの一人だ。
その彼女の手元にあるのは、使い込まれた蹄鉄と、専用のヤスリ。
――シャッ、シャッ……。
ミリ単位の微細な調整を行うその横顔は、精密時計の内部構造みたいに正確で、見ていて溜息が出るほど無駄がない。一切のブレも妥協も許さない、完璧な『完成品』としてのウマ娘。
私とは対極にいる、本物の中の本物。
すでに実力あるチームに所属し、自分の進むべき道を明確に見据えている先輩の後ろ姿は、いつ見ても凛としていて美しかった。
「泥は、落とせたのか」
「えっ……あ、はい。すみません、また泥だらけで帰ってきちゃって」
「別に謝る必要はない。ただ、一ヶ月間毎日同じ靴を洗い続けていれば、さすがの私も気づくというだけだ」
ヤスリを動かす手を止めないまま、先輩が静かに言う。
視線の先には、部屋の入り口に揃えて置かれた私のランニングシューズがあった。
どんなにブラシで擦って泥を落としても、一ヶ月間、毎日欠かさず河川敷の泥濘を走り続けたせいで、生地の奥の奥まで土の色が深く染み付いてしまっている。洗っても洗っても落ちない、薄汚れた茶色の染み。才能がないなりに誰よりも数をこなし、無様に足掻いてきた私の不格好な証。
綺麗なターフを走るエリートたちは、絶対に履かない靴だ。
私は手元にあるノートの切れ端を、両手で強く握りしめた。
「あの、先輩……」
「なんだ」
「私……スカウト、された……のかも、しれません」
自分でも驚くほど、震えた声が出た。
自信のなさがそのまま表れたような、歯切れの悪い報告。
選抜レースで誰にも相手にされず、一ヶ月間河川敷で泣きながら走っていた私がスカウトされた。そんなこと、常に理性的でストイックな先輩に言ったら、きっと『悪い大人に騙されているんじゃないか』と呆れられるに決まっている。
それでも、誰かに聞いてほしかった。
この震える背中を、ほんの少しでいいから肯定してほしかったのだ。
その瞬間、ヤスリの音がピタリと止まった。
先輩は静かに椅子を回して、私の方を見た。感情の読めない、凪いだ湖面のような瞳。その視線が、私の顔と、手元のヨレた紙切れを真っ直ぐに射抜く。
怒られるかもしれない。鼻で笑われるかもしれない。
ギュッと目を瞑りかけた、その時だった。
「どんなチームだ」
予想外に真剣な声のトーンに、私はゆっくりと目を開けた。
「えっと……伊関、トレーナーという方で。私に、短い距離のスピード勝負は向いてないって……。ただ、スタミナと、何があっても立ち止まらないところだけは評価するから……まずは、この貧弱な身体を一から鍛え直して、タフな消耗戦で勝てる土台を作る、って……」
「そうか」
私のしどろもどろな説明を聞き終えると、先輩はたった一言、短く返した。
それだけだった。
驚きもしないし、おめでとうと手放しで喜ぶわけでもない。先輩らしい、あまりにも素っ気ない返事。
でも、余計なことを決して口にしないこの職人気質の先輩が、私の不確かな言葉を否定せずに受け止めてくれた。それだけで、私の胸の奥に詰まっていた氷の塊が、ふっと溶けていくような気がした。
「……どんな男かは知らないが」
カチリ、と調整を終えた蹄鉄を机に置いて、先輩がぽつりと付け足す。
「スピードでも、血統でもなく……お前のその、洗っても落ちない泥だらけの靴を見て声をかけたのなら」
先輩の視線が、再び玄関のシューズへと向けられる。
「その男、見る目がないわけじゃないらしいな」
不器用な、でも先輩なりの最大限の肯定。
その言葉を聞いた瞬間、堪えていた涙がじわりと視界を滲ませた。
「先輩……っ」
「泣く暇があるなら、早く連絡してやれ。待たせるのは三流のやることだ」
「……はいっ!」
私は乱暴に目元を拭うと、制服のポケットからスマートフォンを取り出した。
綺麗な芝の上では、誰も私を見てくれなかった。でも、あの薄暗い河川敷の泥の中で足掻き続ける私を見つけてくれた人がいる。そして、そんな不格好な私を、否定せずに背中を押してくれる人がここにいる。
深呼吸をして、画面に電話番号を打ち込む。
時計の針が正確に時を刻む静寂な部屋の中で、泥に咲く向日葵の運命の歯車が、たしかにカチリと音を立てて回り始めていた。
ルクスキャリバー
オリウマ娘。モデル馬「トウケイヘイロー」。デビュー年に朝日FSや翌々年に天皇賞・秋などGⅠクラスにも出走経験あり。逃げを主体とする戦い方で、札幌記念(GⅡ)で2着に6馬身の大差をつけて勝利したことも。
トウケイ(時計)ヘイロー(後光)からもじってルクス(光)キャリバー(時計の内部機構)と命名。
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