祭りでも、怪物でもなく   作:藤沢大典

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第20話:傷だらけの四駆と、優しいおまじない

 それから、週に一度のペースで、伊関トレーナーとの『沼地トレーニング』が私の日課に組み込まれた。

 少し離れた田園地帯の中にある、手付かずの自然が残る湿地帯。澄んだ水面の下に隠された、粘り気のある底なしの泥。そして、脚に不規則に絡みつく強靭な水草のジャングルが、今の私の主戦場だ。

 相変わらず、私はまともに走ることすらできていなかった。泥の抵抗を力任せに引きちぎろうとすればするほど、水草は容赦なく私の脚に食い込み、バランスを崩して水面へ盛大に転倒する。

 ズブッ、という鈍い音とともに、冷たい泥水が容赦なく顔を打ち据える。鼻の奥にツンとした青臭い泥の匂いが入り込み、口の中にはジャリッとした砂の感触が広がった。

 私は泥まみれになりながら、両手をついて何度も何度も立ち上がった。

 

「脚の回転だけで進もうとするな! 泥の粘り気と水草の張力を計算に入れろ!」

 

 岸辺から飛んでくる伊関トレーナーの容赦ない怒号が、静かな水面を震わせる。

 頭では理解しているつもりだった。私の持ち味は、他のウマ娘たちのような軽やかな瞬発力でも、宙を舞うようなストライドでもない。地の底から湧き上がるような、重厚でブレないトルクだ。強靭なエンジンを積んだ四駆のように、あらゆる障害物をすり潰して進む力があるはずなのだ。

 しかし、この沼地は私の想像を遥かに超えて厄介だった。力強く踏み込んだ脚は底なしの泥に深く吸い込まれ、次の一歩を踏み出そうと引き抜く瞬間に、目に見えない幾重もの水草の蔓が足首からふくらはぎにかけて絡みついてくる。それはまるで、沼の底に潜む魔物が私の脚を掴んで、強引に水底へ引きずり込もうとしているかのようだった。

 もがき、足掻き、力任せに前へ進もうとするたびに、強靭な繊維が素肌を激しくかすめていく。

 泥だらけになりながら格闘を続ける私の身体には、いつしか無数の生傷が刻まれるようになっていた。水草の硬い繊維や、泥の中に潜んでいた小石、折れた木の枝などによってつけられた、無数の細かな切り傷や擦り傷だ。

 数時間の過酷な特訓が終わる頃には、私のジャージは本来の色が全く分からないほど真っ黒に染まり、息をするたびに肺が焼け焦げるような悲鳴を上げている状態だった。

 学園に戻り、寮のシャワールームで泥を念入りに洗い流す。温かいお湯が肌を伝うたび、ふくらはぎや太ももに刻まれた無数の傷が、チクチクと鋭い痛みを主張してくる。泥や汚れは石鹸の泡と一緒に排水溝へと流れていくが、ヒリヒリとした生傷の痛みまでは洗い流せない。

 そのため、沼地トレーニングが行われた日の放課後は、学園の保健室へ寄って手当てを受けるのが、私の新しいルーティンとなっていた。

 

「失礼します、先生」

 

 控えめにノックをして保健室の扉を開けると、ほのかに苦く、そしてどこか心を落ち着かせてくれるコーヒーの香りがふわりと漂ってきた。薬品の匂いよりも先にこの香りが届くのが、この保健室の特別なところだ。

 

「ん、いらっしゃい、リバーライトさん」

 

 窓際のデスクから、穏やかな声が響く。

 そこにいたのは、一人のウマ娘だった。

 群青色から毛先に向かって淡い水色へと変化する美しいショートヘアに、どこまでも澄んだアクアマリンのような青い瞳。白い白衣を羽織り、手にはコーヒーの注がれたマグカップを持っている。その姿は、春の柔らかな陽射しを受けてひどく綺麗に見えた。ターフの上を飛ぶように走る一流レースウマ娘たちの華やさともまた違う、静かで透き通るような美しさだ。

 

「すみません先生。また傷をみてもらいに来ちゃいました」

「構わない。処置するから、こっちおいで」

 

 私はパイプ椅子に座り、ジャージの裾を膝の上までまくり上げて、水草で切ったふくらはぎの無数の傷跡を差し出した。

 先生は手元の資料を置き、パイプ椅子を滑らせて私の前に移動してくる。ゆっくりと私の脚を覗き込む彼女の表情はいつも真剣で、走る生徒たちを誰よりも優しく見守ってくれているのが伝わってくる。

 

「いつもみたいに消毒してくね」

 

 先生はそう言って、ピンセットで摘んだガーゼに消毒液を含ませ、ちょんちょんと優しく傷口を拭き取っていく。

 ツンとしたアルコールの匂いが鼻をくすぐり、開いた傷口に微かな染みが走る。思わず顔をしかめそうになるが、不思議なことに、先生の細くて白い指先が肌に触れると、それだけでヒリヒリとしていた痛みがスッと引いていくような感覚があった。

 

「いたいのいたいのとんでいけ。はい、おしまい」

 

 すべての傷口に薬を塗り終えた後、先生はふんわりと微笑んで脚を撫で、まるで小さな子供をあやすような優しい言葉をかけてくれた。

 学園の生徒たちの間でまことしやかに囁かれている噂によれば、先生のこの『おまじない』には、本当に怪我が治りやすくなる不思議な魔法の効果が秘められているらしい。ただのプラシーボ効果なのかもしれない。しかし、実際に彼女の丁寧な手当てとこの言葉を受けると、翌日には水草の厄介な切り傷が綺麗に塞がっているのだから驚きだった。

 

「あまり無茶をしすぎないでね」

「はい。ありがとうございます、先生」

 

 手当てを終えた先生は、デスクの上にあった自分のマグカップを再び手に取り、温かいコーヒーを一口嗜んだ。彼女はいつも適当にゆるっとお仕事をしているように見えて、その実、私たちの体の変化や精神状態、日々のトレーニングの負荷などを誰よりも正確に把握している。

 

「それにしても、この傷。普通にターフやダートを走って出来るものと違うね。転んだ時の擦過傷とも違うし、なにか鋭いもので連続して引っ掻かれたような跡ばかり。まるで、ジャングルか沼地でも強引に切り開いてきたみたい」

 

 先生の鋭い指摘に、私は思わず苦笑いを浮かべた。

 

「あはは。実は、本当に沼地を走ってるんです。伊関トレーナーの指示で」

「沼地?」

 

 先生が、マグカップを持ったまま不思議そうに青い瞳を瞬かせた。

 私は、自分の現状を隠すことなく正直に話すことにした。

 自分が良バ場のスピード勝負では、生まれ持ったバネを持つエリートたちに絶対に勝てないこと。瞬発力も、飛ぶようなストライドも私にはないこと。

 そして、自分の唯一の武器である『どんな悪路でも止まらない走り』を極限まで鍛え上げるために、あえて足場が最悪で、水草の鎖が絡みつく湿地帯でもがいていること。

 

「泥の重さも、水草の抵抗も、全部私のエンジンの出力でねじ伏せて、引きちぎって前に進むんです。そうやって地の底を這いずるような力を身につけないと、私はあの人たちの背中に届かないから」

 

 私は、無数の絆創膏が貼られた自分の太ももを両手でギュッと握りしめた。

 綺麗なターフを走るだけでは、私の走りは完成しない。私が目指すのは、誰もが嫌がる泥だらけの悪路を、誰よりも力強く駆け抜ける不屈の四駆なのだ。

 

「なるほど。すごいね」

 

 先生は、どこか眩しいものを見るような目で私を見つめた。

 ウマ娘にとって、走るということは本能であり、誰もが美しく、軽やかに、風を切って速く走りたいと願うものだ。しかし、その美しさを完全に捨て去り、泥水に顔を突っ込んで、まるで重機のように不格好に足掻く私の姿は、彼女の目にどう映ったのだろうか。

 

「不格好で、みっともないって笑いますか?」

 

 私が少し自嘲気味に尋ねると、先生はマグカップをデスクにコトリと置き、ゆっくりと首を横に振った。

 

「まさか。とても泥臭くて、最高に格好いいウマ娘の走り方だと思う」

 

 その真っ直ぐな言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。

 先生は引き出しを開けると、『頑張る子にはご褒美』と悪戯っぽく笑い、可愛らしいラッピングが施されたにんじんクッキーの袋を取り出して私に差し出した。

 

「がんばれ。わたしにはそれしか言えないけど、あなたのその頑張りが報われるよう、ずっと祈ってる。でも、無茶しすぎて身体を壊しちゃったら、本気で怒るからね」

「はいっ! ありがとうございます、先生!」

 

 私はクッキーの袋を両手で大切に抱え、深々と頭を下げて保健室を後にした。

 ドアを閉めると、廊下の冷たい空気が火照った顔に心地よかった。

 足元に目を落とすと、絆創膏だらけの不格好なふくらはぎがある。けれど、傷の痛みはもうすっかり消えていた。

 来週は、あともう一歩。絶対にあの水草の鎖を引きちぎって、沼の向こう側へと進んでみせる。どんなに転んでも、どんなに泥を飲んでも、私の重たいエンジンは決して止まらない。

 保健医の優しい魔法と、ほんのり甘いクッキーの香りに背中を押されながら、私の泥臭い闘志は、いっそう強く、熱く燃え上がっていた。

 




保健医
公式には存在していないオリウマ娘。
リバーライトが入学した時は養護教諭で車椅子に乗って喋りも途切れ途切れだった気がするが、いつの間にか普通に歩いて普通に話せるようになっていた上に医師資格を取って保健医になっていた謎多き先生。

もし少しでも熱いと思っていただけたなら、お気に入り登録、評価していただければ幸いです。リバーライトの走りの原動力になります!
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