祭りでも、怪物でもなく   作:藤沢大典

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第21話:四駆の試行錯誤と、泥濘を裂くスクリュー

 澄んだ水面の下に隠された、底なしの泥と水草のジャングル。

 郊外の美しい湿地帯での特訓が始まってから、およそ一ヶ月が経過していた。

 私は相変わらず泥水まみれになりながら、週に一度のこの過酷なルーティンと格闘を続けていた。保健医の先生が手当てしてくれたおかげで生傷こそ翌日には塞がっているものの、特訓の進捗自体は芳しくない。岸辺から数メートル進んでは水草に足を取られ、泥に顔から突っ込むという無様な失敗を、もう何十回、何百回と繰り返していた。

 

「……はぁっ、はぁっ……!」

 

 膝まで泥に浸かりながら、私は荒い息を吐き出した。

 なぜ、前に進めないのか。

 タイヤを引くための『強力なトルク』は私の中にある。スタミナも無尽蔵にある。なのに、この湿地ではそのエネルギーが全く推進力に変換されない。

 岸辺で腕を組み、ストップウォッチを片手に無言で私を見つめる伊関トレーナーの視線が、チリチリと私の背中を焼くようだった。

 

(……考えろ。ただ力任せに暴れても、体力と時間を無駄にするだけだ)

 

 私は、自身の泥だらけの脚を見つめた。

 最大の障害は、ターフを走る時のように脚がスムーズに動かないことだ。

 特に『泥から脚を抜く時』と『泥へ踏み込む時』。この二つの動作で、凄まじいエネルギーのロスが起きている。

 

(まずは、脚を抜く時だ)

 

 今までの私は、泥の強力な吸着力に対抗するため、力任せに太ももを引き上げようとしていた。だが、それだと足の甲からスネにかけて、水と泥の抵抗をモロに受けてしまう。

 私はゆっくりと呼吸を整え、フォームを変えてみた。

 力任せに引き抜くのではなく、足首の力をスッと抜き、つま先を下に向ける。そして、泥の中から足を抜く際、足の甲ではなく『指先』をギリギリ最後まで泥の中に残すようなイメージで、針を引き抜くように脚を上げてみたのだ。

 

 ――ジュボッ。

 

 音が、変わった。

 これまでの『ゴボボッ』という重苦しい音から、軽快で抵抗の少ない音へ。

 足の表面積を最小限にすることで、泥の吸着力を切り裂き、水草の絡みつきをスルリと回避できたのだ。

 

(いける……! 抜く時は、これだ!)

 

 私はそのままの勢いで、次の一歩を踏み出そうとした。

 脚を抜くのがスムーズになったなら、次は『踏み込む時』だ。

 ターフを走る時の基本は、かかとから着地してつま先へと抜重するか、あるいは前傾姿勢でつま先から着地する。

 だが、この底なし沼で同じことをすれば、点で泥を捉えてしまい、足元が深く沈み込みすぎてバランスを崩してしまう。

 ならば、どうするか。

 

(接地面を最大にして、沈み込みを防ぐ……!)

 

 私は、振り上げた脚を、かかとからでもつま先からでもなく、『足裏全面』を使って、水面を平手打ちするように思い切り叩きつけてみた。

 

 ――バチャァァァンッ!!

 

 先ほどとは打って変わって、激しく重い水飛沫の音が響き渡った。

 音は変わった。しかし。

 

「ぐっ……!?」

 

 足裏全体で水面を叩いた瞬間、凄まじい衝撃が膝から腰へと突き抜けた。

 沈み込みを防ごうとした結果、水と泥の表面張力、さらには水草の塊を面で捉えてしまい、強烈な『壁』を蹴りつけたような反発を食らってしまったのだ。

 前へ進む推進力は全く生まれず、逆に脚が完全にストップしてしまい、私はまたしても前傾姿勢のまま泥水の中へ顔から突っ込んだ。

 

「……ぶはっ! げほっ、ごほっ……!」

 

 口の中に入った泥を吐き出しながら、私は悔しさに水面を叩いた。

 失敗だ。これでは脚がすぐに壊れてしまう。

 抜く時のコツは掴んだが、踏み込みで推進力を得られなければ、永遠に同じ場所で足踏みをするだけだ。

 

「……おい、リバーライト」

 

 岸辺から、伊関さんの声が飛んだ。

 

「ダメ元でもいい。意識を変えろ。お前は今、この沼を『ターフと同じように走ろう』としている。だから失敗するんだ。路面の性質が根底から違う場所に、陸上の常識を持ち込むな」

 

 陸上の常識を持ち込むな。

 私は四つん這いになりながら、伊関さんの言葉を反芻した。

 

(路面の性質……。そうだ、ダートのレースでは、どうやってる?)

 

 以前、ダートを主戦場とするウマ娘がインタビューで語っていたのを思い出した。『砂の上では、蹴るんじゃなくて、足の指で砂を掴むようにして走るんです』と。ターフのように反発力がない砂地では、自分の足指で砂をかき集め、それを土台にして推進力を得るのだという。

 これだ、と思った。

 私は泥水の中に手をついたまま、足の指先にギュッと力を込めた。

 泥の底に沈む足の指で、泥そのものを鷲掴みにするイメージ。砂と同じように、泥をかき集めて土台にすれば……!

 私は、グッと足の指を丸め、踏み込んでみた。

 

 ――ニュルン。

 

「あっ……」

 

 何の手応えもなかった。

 掴もうとした泥は、足の指の隙間からニュルニュルと呆気なく逃げていき、全く土台にならなかったのだ。

 砂と泥は違う。砂は掴めば固まるが、水分をたっぷり含んだ沼の泥は『流体』そのものだ。掴もうとすればするほど、指の間から逃げていく。

 推進力はゼロ。私はまたしてもバランスを崩し、その場に膝をついた。

 

(ダメだ。掴めない。踏み込めない。蹴れない。……じゃあ、どうすれば)

 

 泥は逃げる。水も逃げる。

 流体を相手にして、陸上の走り方をいくら応用しても通じない。

 流体……水……。

 その時、私の脳裏に、全く別の競技の光景がフラッシュバックした。

 夏休みにテレビで見た、水泳の競泳選手たちの姿。

 彼らは、水を『踏む』ことも『掴む』こともしない。

 水という流体の抵抗を逆に利用し、手足で水を後ろへと押し出すことで、その反作用で前へと進んでいく。

 

(……もしかして)

 

 私は、ゆっくりと顔を上げた。

 ここはターフじゃない。ダートでもない。

 水と泥に満たされた、ただの巨大な水たまりだ。

 ならば。

 

(走るな。……『泳ぐように』走るんだ)

 

 発想の転換。

 私は立ち上がり、深く息を吸い込んだ。

 ターフを走る時の『地面を蹴る』という意識を、頭の中から完全に消し去る。

 脚を上げる時は、先ほど掴んだコツ――指先を残して抵抗をなくし、滑らかに抜く。

 そして、踏み込む時。

 地面を叩きつけるのでも、泥を掴むのでもない。

 自分の太い脚を、一枚の巨大な『足ヒレ(フィン)』に見立てるのだ。

 泥の中に脚を沈め、すねから足の甲にかけての広い面で、水と泥、そして絡みつく水草を面で捉える。

 そして、強靭なエンジンのトルクを全開にして、その重たい流体の塊を、力ずくで『後ろへ押し出す(掻く)』!

 

「……っ!!」

 

 踏み込んだ瞬間。

 これまでの陸上の走りでは感じたことのない、凄まじい反発力が身体を前へと押し出した。

 

 ――バシャァァァッ! ザパンッ!!

 

 音が、劇的に変わった。

 もがき苦しむ水飛沫の音ではない。水流を切り裂き、重い泥の塊を後方へと吹き飛ばす、まるで大型船のスクリューのような重厚な排気音。

 

「いける……! 前に、進んでるっ!」

 

 私は夢中で脚を回転させた。

 抜く時は針のように鋭く。踏み込む時は足ヒレのように重く。

 水草が絡みついてこようと関係ない。その水草ごと面で捉えて、後ろへと掻き出してしまうのだから。

 私の大きなガソリンタンクと強靭な出力がなければ、一歩で筋肉が悲鳴を上げるような無茶苦茶なフォーム。エリートのスポーツカーには絶対に真似できない、不格好で、けれど圧倒的な悪路の走破術。

 

 ――バシャッ! ザパンッ! バシャッ! ザパンッ!

 

 私の身体が、泥水の中をまるで水上バイクのように力強く切り裂いていく。

 これまで5メートルしか進めなかった私が、あっという間に10メートル、15メートルと距離を伸ばし、休耕地の中央付近まで一気に到達していた。

 

「……ふっ」

 

 遠く離れた岸辺。

 その光景をストップウォッチ越しに見つめていた伊関トレーナーの口元が、明確に、ニヤリと歪んだのを私は見た。

 私はついに、水草の鎖を引きちぎったのだ。

 泥を掴むのではなく、泥を泳ぐ。

 エリートたちの空には届かなくとも、この泥濘(ぬかるみ)の底でなら、私は誰よりも速く、誰よりも力強く泳ぎ切ることができる。

 沼の中央で荒い息を吐きながら、私は泥だらけの顔をほころばせ、冬の終わりの空に向かって最高の笑顔を浮かべていた。

 




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