郊外の湿地帯に、初夏の瑞々しい風が吹き抜けていた。
水面を覆い尽くしていた水草は、季節の進みとともにいっそう勢いを増し、その緑の網の目はさらに深く、強固なものへと成長している。だが、今の私はもう、その緑の鎖に囚われることはなかった。
「……ふっ!!」
バシャァッ、ザパンッ! と、重厚な駆動音が湿地に響き渡る。
私は泥水の中を『泳ぐように』駆け抜けていた。指先を鋭く抜き、足裏全体で泥と水の塊を後ろへと一気に掻き出す。一歩ごとに爆辞のような水飛沫が上がり、私の身体は慣性が働いているかのように滑らかに、かつ力強く前へと進んでいく。
泥の深さも、水草の抵抗も、もはや私のエンジンの回転を止める理由にはならなかった。むしろ、その抵抗が強ければ強いほど、私の脚はより確かなグリップを掴み、推進力へと変えていく。
「――そこまでだ、リバーライト。上がってこい」
対岸まで一気に泳ぎ切った私に、伊関トレーナーの静かな声が届いた。
私は堤防の上に這い上がり、心地よい疲労感の中で大きく息を吐き出した。ジャージは泥に汚れ、首筋には水飛沫が光っているが、かつてのように生傷だらけで倒れ込むことはもうない。私の身体は、この悪路を『日常』として受け入れ始めていた。
「いい動きだ。……
伊関さんはバインダーにペンを走らせながら、ふと顔を上げた。その瞳には、いつもの冷徹な分析眼だけでなく、何かを決意したような鋭い光が宿っている。
「リバーライト。お前の今後のローテーションだが……目標を一つ定めた」
「目標……ですか?」
私は、首にかけたタオルで顔の泥を拭いながら聞き返した。
今の私はまだ条件戦を勝ち上がったばかりの身だ。具体的な重賞レースの名前を出されるのは、どこか遠い世界の話のように感じてしまう。
「11月、京都レース場。芝2200メートル――『エリザベス女王杯』。ここを、お前の最大の標的に据える」
エリザベス女王杯。
ウマ娘の頂点を決める最高峰のGⅠレースの一つ。京都の2200メートルという、スタミナと底力が試される過酷な舞台だ。
「2200という距離は、お前の無尽蔵のタンクを活かすには十分な長さだ。それに、11月の京都は天候が崩れやすい。芝も使い込まれて荒れ、重バ場になる確率も高い。……お前の『泥を泳ぐ脚』が、エリートたちの翼を叩き折るには最高の戦場だ」
伊関さんの言葉に、背筋がゾクッとした。
これまで『自分には才能がない』と泣いていた私が、GⅠという夢の舞台を、明確な勝機を持って告げられたのだ。あの華やかなパロールやドゥラメンテたちが舞う、あの空へ手が届くかもしれない。
「もちろん、そこへ至るまでにはまだ越えなければならない壁は多い。だが、今のうちから準備をしておく必要がある。……その第一歩として、お前の『勝負服』の登録を行うことにした」
「勝負服……」
その言葉に、私は思わず自分の泥だらけのジャージを見つめた。
勝負服。それは、学園から認められた一握りのウマ娘だけが袖を通すことを許される、彼女たちの誇りと意志を形にした、たった一着の特別な衣装だ。
「デザインの希望はあるか? 基本的にはトレーナーが考案することも多いが、お前の意向を無視するつもりはない。お前を一番速く走らせるための『戦闘服』だ。何か思い浮かぶ意匠があれば言ってみろ」
デザイン。
そう言われても、私はお洒落には疎いし、自分を格好よく見せたいという欲求もあまりなかった。これまで不格好な四駆だと自称してきた自分に、どんな色が似合うのか、どんな形が相応しいのか、皆目見当もつかない。
けれど。
ぼんやりと、たった一つだけ、私の心の中に浮かび上がった色があった。
それは、空の頂点で誰よりも眩しく輝きながら、孤独な天才として走り続けている、私の大切な妹の姿だった。
「……マキちゃん」
私は、伊関さんの目を真っ直ぐに見つめて、静かに口を開いた。
「マキちゃん……パロールと、同じ色が良いです」
「パロールと、か」
伊関さんは、わずかに意外そうな表情を浮かべて、私の言葉を反芻した。
パロールの勝負服。彼女は先日、正式にデザインが確定したばかりだと聞いている。その色は、彼女の圧倒的な才能を象徴するような、鮮やかで、それでいてどこか高潔な輝きを放つ色彩のはずだ。
「パロールと同じ色。……それは、お前が彼女の影として生きるということか? それとも、彼女を追い越すための覚悟か?」
伊関さんの問いかけに、私は小さく、けれどはっきりと首を横に振った。
「どちらでもありません。……あの子は今、一人で高い空に浮かんで、みんなの期待を全部背負って戦っています。パロールという名前の、重い鎧を着て。……だから、私が同じ色を纏って走ることで、あの子に伝えたいんです。あなたは一人じゃないよって。私が泥だらけになって、地の底から追いついていくからねって」
同じ色を纏い、同じ場所に立つ。
それは、あの子が被っている『天才』という名の孤独を、私が半分引き受けるための誓いだった。
あの子が一番星として夜空を照らすなら、私は同じ色の光を宿した
「……分かった。それがお前の意志なら、尊重しよう」
伊関さんは、少しだけ表情を緩め、バインダーにメモを書き込んだ。
「パロールのトレーナーは、学園内でも有名な有力者だ。向こうのデザインの詳細は、こちらで問い合わせておいてやる。……同じ色彩を持ちながら、全く正反対の走り方をする姉妹か。ファンやマスコミはさぞかし騒ぐだろうな」
想像するだけで、また騒がしくなる予感がした。
でも、もう怖くはなかった。
泥だらけのジャージを脱ぎ捨てて、あの子と同じ色を身に纏うその時。
私は、誰よりも強靭で、不格好で、そして誇り高い一頭のウマ娘として、エリザベス女王杯という戦場へ足を踏み入れるのだ。
「ありがとうございます、伊関さん」
「礼を言うのはまだ早い。……同じ色を纏う以上、無様なレースは許されなくなるぞ。パロールの名に傷をつけるようなことがあれば、向こう陣営にどんな文句をつけられるか分からん」
「はいっ!!」
私は、まだ冷たい湿地の水で顔を洗い、対岸にある自分たちの車へと歩き出した。
初夏の陽射しは日増しに強くなっていく。
そして、その先には――伊関さんが待ち望んでいた、空が泣き、ターフが底なし沼へと変わる『梅雨』の季節が、すぐそこまで迫っていた。
同じ色を纏う日を夢見て、私の泥濘のエンジンは、さらに熱い火を灯し続けていた。
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