5月上旬。
初夏の瑞々しい風が、東京レース場の広大なターフを吹き抜けていく。
空はどこまでも高く晴れ渡り、太陽の光をいっぱいに浴びた芝は美しく刈り揃えられ、パンパンに張っていた。絶好のレース日和。エリートたちがその自慢のバネを極限まで活かし、飛ぶように駆けるための最高の舞台――バ場状態『良』。
緑風ステークス。
芝2400メートルで行われるこのレースは、オープン入りを目前に控えた実力者たちが集う長距離戦だ。パドックを周回するウマ娘たちは皆、無駄のない洗練された身体つきをしており、その瞳には良バ場でのスピード勝負に対する静かな自信が宿っていた。
かつての私なら、この乾いた芝の感触と周囲の洗練された空気に呑まれ、レース前から絶望していただろう。
けれど今の私の心は、この突き抜けるような青空とは裏腹に、深く、暗く、重たい泥の底にあった。
「いいか、リバーライト」
検量室の前。伊関トレーナーが手元のノートを閉じ、私の目を真っ直ぐに見据えた。
「今日は良バ場だ。お前の強靭なグリップ力が活きる悪路じゃない。普通に走れば、連中は最後の直線で33秒台から34秒前半の末脚を叩き出してくる。……まともな瞬発力勝負になれば、お前の鈍重なエンジンでは絶対に勝てない」
「はい」
「だから、連中に『飛ばさせるな』。……あの沼地で掴んだ『泳ぐ』感覚を思い出せ」
伊関さんは、私の泥一つついていない綺麗な靴を指差した。
「泥の抵抗を力ずくで押し出していたあの特異なフォーム。それをこの摩擦の高い良バ場で行えば、お前の脚には凄まじい反発力が返ってくる。……連中が息を潜めて脚を溜めている中、お前は残り1000メートルから『泳ぎ』始めろ。レースの上がりを、極限のスタミナ消耗戦に引きずり込むんだ」
私は深く頷いた。
瞬発力がないなら、相手の瞬発力を削り取ればいい。
底なし沼で泥を飲み込みながら掴み取った私の新しい走り方が、この晴天の東京でどう通用するのか。試す時は、今だ。
「――各ウマ娘、ゲートイン完了。……スタートしました!」
ファンファーレと共に、18頭のウマ娘が一斉にターフへと飛び出した。
私は伊関さんの指示通り、後方集団――11番手あたりのポジションにスッと収まる。
先頭集団が最初の1000メートルを通過した。タイムはスローペース。周囲のウマ娘たちは皆、最後の525メートルの直線での勝負に備え、ギリギリまでガソリンを温存しようと息を潜めている。
(……軽い)
私は、自身の足裏から伝わってくる感触を確かめながら走っていた。
あの不気味な休耕地で、私の行く手を阻んだ底なしの泥。脚に絡みつく強靭な水草の鎖。それに比べれば、この美しく整備されたターフは、まるで空気の上を走っているかのように抵抗がない。
やがて、レースは第3コーナーへと差し掛かる。
エリートたちはまだ動かない。
だが、私の勝負所はここからだ。
(……回れ、私のエンジン!!)
私は、ターフの上で新たに獲得したフォームを起動した。
膝の引き上げ方を鋭くし、ターフを『蹴って跳ぶ』のではなく、足裏全体を巨大な足ヒレに見立てて、地球の表面そのものを『後ろへ掻き出す』。
――ズッ、ズザァァァッ!!
私の足元から、ターフの常識を覆すような重厚な駆動音が響き渡った。
沼地では水飛沫として空中に逃げていたエネルギーを、硬いターフは逃がすことなく、100パーセントの推進力として跳ね返してくる。
「――っ!? なんだ、あの子!?」
私が残り1000メートルの地点から急激にスロットルを開け、外側から一気に集団を飲み込みにかかったのを見て、周囲のウマ娘たちが驚愕の声を上げた。
このペースで仕掛ければ、最後の直線で必ずガス欠を起こす。そう判断したライバルたちは、私のロングスパートに付き合うことを避け、自重した。
だが、それが彼女たちの致命的なミスだった。
私は暴走しているわけではない。胸の奥のエンジンは最高の効率で、最も心地よい重低音を響かせている。11番手から10番手、そして第4コーナーを回る頃には、私は9番手の位置までポジションを押し上げていた。
「――さあ、東京レース場、525メートルの長い直線へと向かいます!逃げウマ娘が粘る!後続も一斉に追い出しにかかる!」
直線に入り、いよいよエリートたちが自慢の『翼』を広げようとした。
一瞬のバネの力でトップギアに入り、33秒台の末脚で飛ぼうとする。
しかし。
「……あ、足が……っ!?」
「なんで、トップスピードに乗らないの……!?」
彼女たちの顔が、驚愕と苦痛に歪んだ。
2400メートルという絶対的な距離。そして何より、私が第3コーナーから強引にペースを引き上げたことで、彼女たちは無意識のうちに『スタミナを削られる追走』を強いられていたのだ。
翼を広げようにも、そのバネはすでに悲鳴を上げ、重く垂れ下がっている。
対して私は、翼など最初から持っていない。
不格好な四駆のまま、泥を泳ぐ船のまま、ただ狂ったように脚を回し続けるだけだ。
――ドッ! ドッ! ドッ! ドッ!
エリートたちが33秒、34秒で走れないなら、私はただ、自身の持つ『35秒台』の重厚なスクリューを、一切緩めることなく最後まで回し切るだけ。
私の上がり3ハロンのタイムは、決して爆発的なものではない。
だが、誰もが限界を迎えて脚を止めるこの魔の直線において、全く減速しないという事実が、どれほど恐ろしい武器になるか。
「――外からリバーライト! リバーライトの末脚が止まらない! 前で粘るヘラクレスプライドを捕らえにかかる!」
風が、後ろへ流れていく。
歓声が、足元へ置き去りになっていく。
「――リバーライト、差し切った! 乾いた東京の直線を、自慢のスタミナでねじ伏せました! 1着でゴールイン!!」
ゴール板を駆け抜けた瞬間。
後ろを振り返ると、逃げ粘った2着のウマ娘との間には、確かな1バ身以上の差が刻まれていた。
「……伊関さん。私、泳げました」
検量室の裏に引き揚げてきた私を見て、伊関トレーナーはストップウォッチを握りしめ、深く息を吐き出した。
「……勝ち時計、2分25秒4。そして、お前の上がり3ハロンのタイムは……『35秒3』だ」
その数字を聞いて、私はこくりと頷いた。
過酷な特訓を経て、私の平均タイムは35.5秒から35.0秒へと0.5秒も縮められていた。平均からすればやや遅いものであったが、それでも私の自信へつながる十分な数字だった。
良バ場の東京において、上がり35.3秒という数字だけを見れば、翼の生えた彼女たちのそれには遠く及ばない平凡なタイムだ。
「だが、それがいい」
伊関さんの瞳に、狂気を孕んだ熱い歓喜が宿る。
「2400メートルの長丁場で、自らロングスパートを仕掛けてレース全体をスタミナ勝負に引きずり込む。連中の瞬発力を完全に削り取った上で、お前は涼しい顔で『35秒3』の出力を最後まで維持してねじ伏せた。……一瞬のトップスピードを競う華やかな陸上競技を、お前は力ずくで、泥臭い牽引競争に変えてしまったんだ」
伊関さんは、私の肩をガシッと掴んだ。
「あの沼地で掴んだ流体を押し出すフォーム。それが、お前のエンジンが持つ莫大なスタミナを、一切のロスなく良バ場での持続力へと変換した。……全天候、全地形対応の『完全なる四駆』の誕生だ」
私は、遠くの電光掲示板を見上げた。
1着、4番。私のゼッケンと同じ番号だ。
その文字が、春の陽光に照らされて誇らしげに輝いている。
「今日は特別だ。お前の新しい戦術の完成を祝して……夕飯はロールかつの食べ放題にしてやる」
「本当ですか!?やったぁ!」
私は、泥一つついていない綺麗なジャージのまま、満面の笑みでガッツポーズをした。
(……マキちゃん。私、晴れた日でも、ちゃんと周りのみんなと戦えるようになったよ)
空の頂点にいるあの子に、また一歩近づけた気がした。
あの沼地での生傷も、泥の味も、すべてはこの瞬間のためにあったのだ。
華麗に空を飛ぶ翼を羨む必要はもうない。誰もが疲弊して足を止める苦しい場所でこそ、私の不屈のエンジンは輝いて回り続けるのだ。
重いエンジン音を響かせる小さな四駆は、誰も知らないうちに、天候すらも選ばない絶対的な強者へと、その恐ろしい進化を遂げていた。
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