祭りでも、怪物でもなく   作:藤沢大典

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第23話:泥泳ぐ脚、乾いた風を裂く

 5月上旬。

 初夏の瑞々しい風が、東京レース場の広大なターフを吹き抜けていく。

 空はどこまでも高く晴れ渡り、太陽の光をいっぱいに浴びた芝は美しく刈り揃えられ、パンパンに張っていた。絶好のレース日和。エリートたちがその自慢のバネを極限まで活かし、飛ぶように駆けるための最高の舞台――バ場状態『良』。

 

 緑風ステークス。

 芝2400メートルで行われるこのレースは、オープン入りを目前に控えた実力者たちが集う長距離戦だ。パドックを周回するウマ娘たちは皆、無駄のない洗練された身体つきをしており、その瞳には良バ場でのスピード勝負に対する静かな自信が宿っていた。

 かつての私なら、この乾いた芝の感触と周囲の洗練された空気に呑まれ、レース前から絶望していただろう。

 けれど今の私の心は、この突き抜けるような青空とは裏腹に、深く、暗く、重たい泥の底にあった。

 

「いいか、リバーライト」

 

 検量室の前。伊関トレーナーが手元のノートを閉じ、私の目を真っ直ぐに見据えた。

 

「今日は良バ場だ。お前の強靭なグリップ力が活きる悪路じゃない。普通に走れば、連中は最後の直線で33秒台から34秒前半の末脚を叩き出してくる。……まともな瞬発力勝負になれば、お前の鈍重なエンジンでは絶対に勝てない」

「はい」

「だから、連中に『飛ばさせるな』。……あの沼地で掴んだ『泳ぐ』感覚を思い出せ」

 

 伊関さんは、私の泥一つついていない綺麗な靴を指差した。

 

「泥の抵抗を力ずくで押し出していたあの特異なフォーム。それをこの摩擦の高い良バ場で行えば、お前の脚には凄まじい反発力が返ってくる。……連中が息を潜めて脚を溜めている中、お前は残り1000メートルから『泳ぎ』始めろ。レースの上がりを、極限のスタミナ消耗戦に引きずり込むんだ」

 

 私は深く頷いた。

 瞬発力がないなら、相手の瞬発力を削り取ればいい。

 底なし沼で泥を飲み込みながら掴み取った私の新しい走り方が、この晴天の東京でどう通用するのか。試す時は、今だ。

 

「――各ウマ娘、ゲートイン完了。……スタートしました!」

 

 ファンファーレと共に、18頭のウマ娘が一斉にターフへと飛び出した。

 私は伊関さんの指示通り、後方集団――11番手あたりのポジションにスッと収まる。

 先頭集団が最初の1000メートルを通過した。タイムはスローペース。周囲のウマ娘たちは皆、最後の525メートルの直線での勝負に備え、ギリギリまでガソリンを温存しようと息を潜めている。

 

(……軽い)

 

 私は、自身の足裏から伝わってくる感触を確かめながら走っていた。

 あの不気味な休耕地で、私の行く手を阻んだ底なしの泥。脚に絡みつく強靭な水草の鎖。それに比べれば、この美しく整備されたターフは、まるで空気の上を走っているかのように抵抗がない。

 やがて、レースは第3コーナーへと差し掛かる。

 エリートたちはまだ動かない。

 だが、私の勝負所はここからだ。

 

(……回れ、私のエンジン!!)

 

 私は、ターフの上で新たに獲得したフォームを起動した。

 膝の引き上げ方を鋭くし、ターフを『蹴って跳ぶ』のではなく、足裏全体を巨大な足ヒレに見立てて、地球の表面そのものを『後ろへ掻き出す』。

 

 ――ズッ、ズザァァァッ!!

 

 私の足元から、ターフの常識を覆すような重厚な駆動音が響き渡った。

 沼地では水飛沫として空中に逃げていたエネルギーを、硬いターフは逃がすことなく、100パーセントの推進力として跳ね返してくる。

 

「――っ!? なんだ、あの子!?」

 

 私が残り1000メートルの地点から急激にスロットルを開け、外側から一気に集団を飲み込みにかかったのを見て、周囲のウマ娘たちが驚愕の声を上げた。

 このペースで仕掛ければ、最後の直線で必ずガス欠を起こす。そう判断したライバルたちは、私のロングスパートに付き合うことを避け、自重した。

 だが、それが彼女たちの致命的なミスだった。

 私は暴走しているわけではない。胸の奥のエンジンは最高の効率で、最も心地よい重低音を響かせている。11番手から10番手、そして第4コーナーを回る頃には、私は9番手の位置までポジションを押し上げていた。

 

「――さあ、東京レース場、525メートルの長い直線へと向かいます!逃げウマ娘が粘る!後続も一斉に追い出しにかかる!」

 

 直線に入り、いよいよエリートたちが自慢の『翼』を広げようとした。

 一瞬のバネの力でトップギアに入り、33秒台の末脚で飛ぼうとする。

 しかし。

 

「……あ、足が……っ!?」

「なんで、トップスピードに乗らないの……!?」

 

 彼女たちの顔が、驚愕と苦痛に歪んだ。

 2400メートルという絶対的な距離。そして何より、私が第3コーナーから強引にペースを引き上げたことで、彼女たちは無意識のうちに『スタミナを削られる追走』を強いられていたのだ。

 翼を広げようにも、そのバネはすでに悲鳴を上げ、重く垂れ下がっている。

 対して私は、翼など最初から持っていない。

 不格好な四駆のまま、泥を泳ぐ船のまま、ただ狂ったように脚を回し続けるだけだ。

 

 ――ドッ! ドッ! ドッ! ドッ!

 

 エリートたちが33秒、34秒で走れないなら、私はただ、自身の持つ『35秒台』の重厚なスクリューを、一切緩めることなく最後まで回し切るだけ。

 私の上がり3ハロンのタイムは、決して爆発的なものではない。

 だが、誰もが限界を迎えて脚を止めるこの魔の直線において、全く減速しないという事実が、どれほど恐ろしい武器になるか。

 

「――外からリバーライト! リバーライトの末脚が止まらない! 前で粘るヘラクレスプライドを捕らえにかかる!」

 

 風が、後ろへ流れていく。

 歓声が、足元へ置き去りになっていく。

 

「――リバーライト、差し切った! 乾いた東京の直線を、自慢のスタミナでねじ伏せました! 1着でゴールイン!!」

 

 ゴール板を駆け抜けた瞬間。

 後ろを振り返ると、逃げ粘った2着のウマ娘との間には、確かな1バ身以上の差が刻まれていた。

 

「……伊関さん。私、泳げました」

 

 検量室の裏に引き揚げてきた私を見て、伊関トレーナーはストップウォッチを握りしめ、深く息を吐き出した。

 

「……勝ち時計、2分25秒4。そして、お前の上がり3ハロンのタイムは……『35秒3』だ」

 

 その数字を聞いて、私はこくりと頷いた。

 過酷な特訓を経て、私の平均タイムは35.5秒から35.0秒へと0.5秒も縮められていた。平均からすればやや遅いものであったが、それでも私の自信へつながる十分な数字だった。

 良バ場の東京において、上がり35.3秒という数字だけを見れば、翼の生えた彼女たちのそれには遠く及ばない平凡なタイムだ。

 

「だが、それがいい」

 

 伊関さんの瞳に、狂気を孕んだ熱い歓喜が宿る。

 

「2400メートルの長丁場で、自らロングスパートを仕掛けてレース全体をスタミナ勝負に引きずり込む。連中の瞬発力を完全に削り取った上で、お前は涼しい顔で『35秒3』の出力を最後まで維持してねじ伏せた。……一瞬のトップスピードを競う華やかな陸上競技を、お前は力ずくで、泥臭い牽引競争に変えてしまったんだ」

 

 伊関さんは、私の肩をガシッと掴んだ。

 

「あの沼地で掴んだ流体を押し出すフォーム。それが、お前のエンジンが持つ莫大なスタミナを、一切のロスなく良バ場での持続力へと変換した。……全天候、全地形対応の『完全なる四駆』の誕生だ」

 

 私は、遠くの電光掲示板を見上げた。

 1着、4番。私のゼッケンと同じ番号だ。

 その文字が、春の陽光に照らされて誇らしげに輝いている。

 

「今日は特別だ。お前の新しい戦術の完成を祝して……夕飯はロールかつの食べ放題にしてやる」

「本当ですか!?やったぁ!」

 

 私は、泥一つついていない綺麗なジャージのまま、満面の笑みでガッツポーズをした。

 

(……マキちゃん。私、晴れた日でも、ちゃんと周りのみんなと戦えるようになったよ)

 

 空の頂点にいるあの子に、また一歩近づけた気がした。

 あの沼地での生傷も、泥の味も、すべてはこの瞬間のためにあったのだ。

 華麗に空を飛ぶ翼を羨む必要はもうない。誰もが疲弊して足を止める苦しい場所でこそ、私の不屈のエンジンは輝いて回り続けるのだ。

 重いエンジン音を響かせる小さな四駆は、誰も知らないうちに、天候すらも選ばない絶対的な強者へと、その恐ろしい進化を遂げていた。

 




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