東京レース場での劇的な勝利から一ヶ月後。
6月某日。私は、阪神レース場で行われたGⅢレース『マーメイドステークス』のターフに立っていた。
距離は芝2000m。
オープン入りを果たした私が初めて挑む、重賞レースの舞台だ。
道中、私は中団やや後ろのポジションでじっと息を潜めていた。
そして第3コーナーへ差し掛かる、私の勝負所。私は自慢のスタミナを解放し、自身の重いエンジンを早めに吹かしてポジションを一気に押し上げていく。
「――第3コーナーを回って、リバーライトが外から動く! 豊富なスタミナを活かして、一気に前を飲み込みにかかる!」
直線を向き、力強い足取りで先頭へと躍り出る。
阪神の急坂も、私のブレない体幹とグリップ力の前では苦にならない。
(いける……! 初めての重賞、このまま押し切れる!)
そう確信した、ゴール直前のことだった。
「――大外から一気にブランシュパレス! 恐ろしい末脚で飛んでくる!!」
道中、私よりもさらに後方でひたすら息を潜め、最後の直線にすべてのガソリンを賭けていたブランシュパレスが、弾丸のような切れ味で私の外に強襲してきたのだ。
「――ブランシュパレス差し切った! 見事な末脚で重賞初制覇! 粘ったリバーライトは惜しくも2着!!」
結果は、2着。
重賞の高い壁と、相手の一瞬のキレ味を前に、惜しくも初タイトルには手が届かなかった。
だが、検量室に引き揚げてきた私と伊関トレーナーの間に、悲観的な空気は微塵もなかった。
「……惜しかったな、リバーライト」
「はい。でも伊関さん、私、全然苦しくないです。むしろ距離が足りませんでした。あと200m長ければ、相手の瞬発力が先に尽きて、私のエンジンが必ず差し返していました」
私は、荒くない呼吸のまま、力強く頷いた。
敗因は明白だった。2000mという距離は、私の分厚いエンジンが相手のスタミナを完全に削り切るには、ほんの少しだけ短かったのだ。
しかし、収穫はあまりにも大きかった。
あの泥を泳ぐようなスクリュー走法は、格上の重賞ウマ娘たちが集う良バ場のハイスピード戦においても、完全に通用したのだ。自ら早めに動いて後続の脚を削り、そのまま粘り込む戦法。2着という結果は、東京での勝利が決してまぐれではなかったことを証明していた。
「十分すぎるほどの感触だ。お前のエンジンは、すでに重賞クラスでも底を見せていない」
伊関さんは、手元のストップウォッチを満足げにポケットにしまった。
「これで心置きなく、秋の大一番に照準を合わせられる。……さあ、学園へ戻るぞ。お前に見せたいものがある」
「見せたいもの、ですか?」
不思議そうに首を傾げる私を急かすように、伊関さんは足早に検量室を後にした。
翌日の放課後。
トレセン学園のトレーナー室に顔を出すと、伊関さんのデスクの上に、銀色の箔押しが施された立派な化粧箱が置かれていた。
「開けてみろ」
促されるままに、私は少し緊張しながら箱の蓋を持ち上げた。
ふわりと、新しい生地の匂いが漂う。
その中に丁寧に折りたたまれて収まっていたのは、鮮やかな色彩を放つ一着の衣装だった。
「これ……っ!」
「お前の勝負服だ。先日、無事に学園とURAの認可が下りた」
私は震える手で、その衣装をそっと持ち上げた。
ベースとなるのは、深い森や静かな湖畔を思わせるような、品のあるビリジアン。
そこに、肩口がふんわりと膨らんだ清潔感のある真っ白な長袖。袖口には、ベースカラーと同じ緑と、鮮烈な赤のラインが引き締めのように入っている。
そして何より目を引くのは、胸元に大きく結ばれた、情熱的な真っ赤なリボンだ。スカートの裾部分にも、風を切るような鋭いV字の赤いアクセントが施されている。
落ち着いた緑と白のベースに、鮮烈な赤。
それは間違いなく、私がリクエストした通りの色だった。
「パロールのトレーナーに確認を取った。あちらも緑と白と赤を基調としたデザインで登録を済ませているらしい。お前の要望通り、同じ色を纏った勝負服だ」
「マキちゃんと、同じ色……」
私は、胸元でその生地をギュッと抱きしめた。
テレビの向こう側で、エリートたちの空をたった一人で飛んでいる、私の大切な妹。あの子が背負っている重い鎧と、同じ重さ、同じ色彩の覚悟が、今、私の手の中にある。
「着てみろ、リバーライト。サイズに問題がないか確認する」
伊関さんに言われ、私は更衣室へと駆け込んだ。
袖を通し、背中のファスナーを上げる。生地は驚くほど軽く、それでいて私の分厚くなった筋肉の動きを一切阻害しない、最高のフィット感だった。
白のニーハイブーツを履き、鏡の前に立つ。
「……なんだか、私じゃないみたい」
鏡に映っていたのは、いつもの泥だらけで不格好なジャージ姿の私ではなかった。
鮮やかな青緑の生地が、鍛え上げられた体幹のラインを美しく際立たせ、胸元の赤いリボンが、これから戦場へと赴く闘志を象徴するように誇らしく輝いている。
「……お待たせしました、伊関さん」
更衣室のカーテンを開けてトレーナー室に戻ると、伊関さんは腕を組んだまま、無言で私の全身を上から下まで値踏みするように見つめた。
「……」
「ど、どうですか? やっぱり私みたいな泥んこウマ娘には、こういう華やかな服は似合わないでしょうか……?」
私が少し照れくさそうに赤いリボンを指先で弄ると、伊関さんは静かに息を吐き、口角をわずかに上げた。
「……いや。悪くない。むしろ、よく似合っている」
「本当ですか?」
「ああ。パロールと同じ色を纏うことで、ただの『泥臭い四駆』から、一流のターフを走るに相応しい『装甲車』へと格が上がったように見える」
伊関さんは、私の勝負服姿を満足げに見つめながら、デスクの上に広げていた秋のレースカレンダーを指でトントンと叩いた。
「
伊関さんの視線の先にあるのは、11月の文字、『エリザベス女王杯』。
「秋まで、あと数ヶ月。この夏は、その勝負服に恥じないだけのスタミナをさらに上乗せするぞ。……覚悟はできているな?」
「はいっ!!」
私は、両手を強く握り締め、力強く返事をした。
マキちゃん、見ていてね。
私はもう、
あなたと同じ色を纏い、あなたの待つ一番星の空へと駆け上がるための、不屈のエンジンを積んだ装甲車だ。
窓の外では、梅雨入りを告げる重い雨雲が、学園の空を覆い始めていた。
けれど私の心は、真新しい青緑の勝負服に包まれて、これ以上ないほどの晴れやかな熱気に満ち溢れていた。
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