9月下旬。
夏の間、あの静かな湿地帯で泥と水草を掻き分け続け、肌を焼く陽射しの下で肺が焼けるまでエンジンを回し続けた成果を試す時が来た。
中山レース場、芝2200m。GⅡレース『オールカマー』。
秋のGⅠ戦線を見据えた歴戦の実力者たちが顔を揃える、格式高い伝統の一戦だ。準オープンを勝ち上がったばかりの私にとっては、これまでで最も過酷な、そして最も格上に挑む戦いとなる。
控室の鏡の前。私は、トレセン学園指定の共通レース服の襟元をギュッと引き締めた。
私の自室のクローゼットには、夏前に届いたばかりの真新しい勝負服が、大切にカバーをかけられて眠っている。マキちゃんと同じ、青緑と白、そして真っ赤なリボンの衣装。
ウマ娘にとって、自分の意志と魂を形にしたあの専用の勝負服に袖を通すことが許されるのは、原則として最高峰のGⅠレースの舞台のみだ。
(……待っていて。今日勝って、絶対にあの服を着る資格を手に入れてみせるから)
お団子にまとめた髪を揺らしながら、私は鏡の中の自分を睨みつける。
かつて才能のなさに怯えていた凡ウマ娘の面影はどこにもない。泥を泳ぎ、悪路を砕き、自らの足で勝利を掴み取ってきた『装甲車』としての器が、そこには確かにあった。
「……いい面構えだ、リバーライト」
検量室の前。伊関トレーナーは、私の姿を一度だけ満足げに見つめ、すぐに手元のタブレットへと視線を戻した。
「中山2200m。中央場所としては珍しい非根幹距離であり、トリッキーな内回りコースだ。二度の急坂、そして器用なコーナリングが求められる。……だが、今日もお前に小細工は求めない」
「はい。……泳いできます、伊関さん」
「ああ。良バ場の中山でも、お前のスクリューを止められると思うな。残り1000mから、全開で掻き回してこい」
私は力強く頷き、大歓声の渦巻く本バ場へと足を踏み出した。
「――各ウマ娘、ゲートイン完了。……スタートしました!」
ファンファーレの余韻が残る中、15頭のウマ娘が一斉に飛び出した。
私はいつも通り、中団よりやや後ろのポジションを確保する。バ場状態は『良』。秋の陽光に照らされた中山の芝は、パンパンに乾いて最高のコンディションを保っている。
最初の1000mを通過。タイムは61秒3。
淀みのない、引き締まったペースだ。シニアの実力者たちは、無駄な動きを一切見せず、虎視眈々と仕掛けのタイミングを窺っている。
(……軽い。でも、この軽さに騙されちゃいけない)
私は、自身の足裏から伝わる反発を、沼地の抵抗として脳内で変換し始めた。
膝を高く上げ、足裏全体でターフの奥にある土の層を強引に捉える。そして、後ろへ。一歩ごとに地殻を揺らすような、重厚な推進力を発生させる。
やがて、レースは二度目の第3コーナーへと差し掛かった。
残り1000m。
まだ誰も動かない。誰もが『早すぎる』と判断するその瞬間、私はスロットルを一気に全開まで押し込んだ。
――ドッ、ドッ、ドッ、ドッ!!
私の身体から、空気を震わせるような激しい駆動音が鳴り響く。
大外を回り、並み居る強豪たちを次々と飲み込みにかかった。その常識外れのロングスパートに、観客席から地鳴りのようなどよめきが上がる。
「――おっと、リバーライトが動いた! ここで一気にポジションを押し上げていく! まだ直線まで距離があるが、なんという強気の仕掛けだ!!」
実況の声が響く。
第4コーナーを回る頃には、私は前を射程圏内に捉える位置までポジションを押し上げていた。
しかし、今日の相手は重賞を幾度も戦い抜いてきたシニアの精鋭たちだ。私の奇襲に驚きはしたものの、彼女たちは冷静に私の背中をマークし、己の武器である末脚を解き放つ瞬間を虎視眈々と狙っていた。
「――さあ、最後の直線! 中山の急坂が待ち構えている!」
残り200m。
中山の名物である、心臓を破るような急坂。
私の横を、良バ場の瞬発力を武器にするエリートたちが鋭い風切り音とともに追い抜こうとした、その時だった。
「――最内から一気に抜け出すのはノヴァヒストリー! ロスなく立ち回り、堂々と先頭に躍り出た!」
内側の経済コースを完璧に立ち回り、一瞬の切れ味で抜け出したのは、昨年のオークスを制した世代の女王、ノヴァヒストリーだった。
一切の無駄を省いたその走りは、力任せの私のエンジンとは対極にある、洗練され尽くした芸術品のようだった。秋のGⅠ戦線で雌雄を決することになるであろう、本物の強者だけが放つ圧倒的な『格』のオーラがそこにあった。
(……速い! 綺麗だ……でも、まだ私のエンジンは止まってないっ!!)
私は歯を食いしばり、泥を泳ぐ時と同じ、重く、太い脚を回し続けた。
優雅に坂を駆け上がる女王の背中を追おうとした、次の瞬間。
「――外からシーサイドパンドラ! 凄まじい末脚だ!!」
私の眼の前を走っていたシーサイドパンドラが、ノヴァヒストリーに合わせるかのように更に末脚を爆発させた。私たちがスタミナを削り合う中、ひたすらに脚を溜めていた彼女の末脚は、中山の急坂をも平地のように駆け上がり、先頭のノヴァヒストリーをもまとめて飲み込んでいった。
スピードの絶対値。一瞬のキレ味。
それが、私の重たいエンジンと彼女たちの美しい翼を隔てる決定的な違いだった。
1着、2着……。
上位の背中が、一瞬で遠ざかっていく。
それでも私は、決して脚色を鈍らせることなく、自分の出せる最大の出力でゴール板まで全開で泳ぎきった。
「――シーサイドパンドラ、鮮やかに差し切って1着! 2着にノヴァヒストリー! そしてリバーライトは……粘って5着でゴールイン!」
掲示板、確保。
だが、1着のシーサイドパンドラ、2着のノヴァヒストリーからは明確に離された5着という結果だった。
ゴールを過ぎ、息を整えながら第1コーナーまで走り抜けた私は、悔しさで拳を震わせていた。
あのクローゼットで眠る勝負服。マキちゃんと同じ色を纏って大舞台に立つためには、ここで圧倒的な結果を残して勢いをつけるはずだったのに。
結局は上位のエリートたちの背中を見送るしかなかった自分の不甲斐なさが、泥の味のように苦く口の中に広がった。
検量室の裏。私は汗まみれの共通レース服のまま、伊関トレーナーの前で深く頭を下げた。
「……すみませんでした、伊関さん。5着なんて……あんなに特訓したのに。これじゃあ、胸を張ってGⅠに行けません」
私の声は、情けなく震えていた。
だが、予想に反して、伊関さんから怒号が飛ぶことはなかった。
「……」
伊関さんは、手元のタブレットの画面を食い入るように見つめ、何かを呟きながら何度もラップタイムを計算し直していた。
その眉間のシワは深く、瞳の奥には、見たこともないような異様な光が灯っている。
「伊関、さん?」
「……お前、気づかなかったのか?」
伊関さんはゆっくりと顔を上げ、私の目を真っ直ぐに見据えた。
その顔は、敗北した担当ウマ娘を慰める者のそれではない。獲物を見つけた狩人のような、あるいは世紀の大発見を前にした科学者のような、獰猛な笑みを浮かべていた。
「このオールカマー。上位の4頭は、最後の直線、あの坂を登り切った瞬間に爆発的に速度を上げている。逆を言えば坂ではスピードをセーブして走っていたんだ。……当たり前だ。中山の急坂は、どんな怪物にとってもスタミナを削り取る『壁』だからな」
伊関さんは、画面を私の方へ向けた。
「だが、リバーライト。……お前一人だけが、あの坂を登り始めた途端、速度が上がった。登り切ったら戻っちまったがな」
「えっ……?」
「お前の走法は、摩擦と抵抗を逆利用して推進力に変えるものだ。普通のウマ娘が『重力』という抵抗に負けて失速する坂道こそが、お前のスクリューにとって最もグリップを感じる場所に変わっていたんだ」
伊関さんは、私の肩をガシッと掴んだ。
「いいか、リバーライト。今日の負けを気に病むな。良バ場のこの条件では、最高速度で劣るお前が負けることすら想定内だ。むしろ想定以上の負け方をしたと言っていい」
伊関さんは力強く、私の肩を掴んだ。
「お前のエンジンの本領は、他が音を上げて止まるような、もっと過酷な場所でこそ発揮される。同じ2200mでも、もっと道の険しい舞台……雨の降る泥濘や起伏の激しいコースのような状況なら、結果は180度引っくり返る。それを確信した」
伊関さんの言葉が、敗北で凍りついていた私の心に、新たな燃料を注ぎ込んでいく。
私は、自身の泥だらけの靴を見つめた。
私のエンジンは、まだ底を見せていない。
綺麗なターフでは届かなかったあの背中たちを、背後から追い抜くことが出来る。私の背を抜かせないことが出来る。……私の土俵で戦う時が、必ず来る。
「……次は、絶対に。どんな状況でも、私が一番最初に泳ぎきってみせます」
「ああ……帰るぞ。本番の『女王杯』へ向けて、最後のチューンナップだ」
「――はいっ!!」
お団子に結んだ髪を揺らし、私は夕闇に包まれ始めた中山レース場を後にした。
次にターフを踏む時は、エリザベス女王の冠を懸けた最高の舞台。
あの青緑と赤の勝負服に袖を通すその日まで。私は
もし少しでも熱いと思っていただけたなら、お気に入り登録、評価していただければ幸いです。リバーライトの走りの原動力になります!