10月初旬。
阪神レース場。湿り気を帯びた秋の風が、ダートコースの砂を重く押し黙らせていた。
バ場状態は『稍重』。
昨晩から降り続いた雨が砂の奥深くまで浸透し、一歩踏み出すごとに粘りつくような抵抗を生む、力自慢のウマ娘ですら顔をしかめるタフなコンディションだ。
メインレース、『シリウスステークス』。
そのパドックの中央を、一際静謐な、それでいて肌を刺すような鋭いオーラを纏って歩くウマ娘がいた。
ルクスキャリバー。
私のルームメイトであり、世界を渡り歩いてきた孤高の逃亡者。
そして――今日このレースを最後に、ターフを去ることを決めた、私の憧れの背中。
「……」
私は、検量室の脇にある関係者席の柵を、指先が白くなるほど強く握りしめていた。
隣には、無言で腕を組み、鋭い視線をパドックへ向ける伊関トレーナーがいる。
胸の奥が、焼けるように熱い。
悔しくて、歯痒くて、言葉にならない感情が渦巻いていた。
私は、あの郊外の沼地で泥を泳ぎ、水草の鎖を引きちぎり、良バ場ですら力ずくでねじ伏せる『全地形対応』の脚をようやく手に入れた。どんな悪路だろうと、どんな逆境だろうと、今の私なら先輩のあの完璧な秒針に、一歩も引かずに食らいついていける。
やっと。やっと、同じ地平で戦えるだけの準備が整ったのだ。
それなのに。
現実は、あまりにも残酷に、そして呆気なく終わりの時を突きつけてきた。
私のエンジンの準備が整った矢先、追いかけるべき唯一の背中が、私の手の届かない場所へ飛び立とうとしていた。
「間に、合わなかった……っ」
私の呟きは、スタンドを埋め尽くすファンの喧騒にかき消された。
伊関さんは、前を向いたまま静かに言った。
「運命という奴は、いつだってお前の都合など待ってはくれない。……だが、見届けろ、リバーライト。あれがお前が追いかけた、本物の『完成形』の姿だ」
『各ウマ娘、ゲートイン完了。……スタートしました!』
ファンファーレが鳴り響き、重い砂を跳ね上げてウマ娘たちが飛び出す。
芝のレースのような華やかさはない。泥に塗れ、砂を被り、ただ純粋な出力と体力が削り取られていく2000mの死闘。
ルクスキャリバー先輩は、芝の時と変わらぬ、いや、それ以上に気高い佇まいで先頭に立ち、他のウマ娘たちを引き連れていた。
彼女の武器は、どんな状況でも狂わない完璧な『秒針』だ。本来、足場が不安定なダート、それも水分を含んだ稍重のバ場は、精密な時計のような彼女の走りには最も不向きなはずだった。
けれど、先輩は。
跳ね上がる泥を。視界を遮る砂煙を。
まるですべてがあらかじめ決まっていた演出であるかのように、一切の乱れなく、優雅に切り裂いて進んでいく。
(……綺麗だ)
私は、瞬きすることすら忘れて、その背中を追っていた。
泥だらけのダートの上で、彼女だけが一点の汚れもない銀色の光を放っているように見えた。
脚を抜く瞬間の鋭さ。着地した瞬間のブレのなさ。
それは、彼女がどれほどの血の滲むような調整と、プライドを懸けた研鑽を積み重ねてきたかを雄弁に物語っていた。
やがて、レースは第4コーナーを回り、最後の直線へと差し掛かる。
阪神の重い砂。先行して風を切り続けてきた先輩のスタミナは、確実に、そして残酷に終わりへと近づいていた。
後方から、ダートのスペシャリストたちが凄まじい勢いで追いすがってくる。
彼女たちの荒々しいパワーに、先輩の繊細な秒針がジリジリと飲み込まれていく。
「――外からガラルドナードが躱していく! さらに後続も一気に殺到する! ルクスキャリバー、苦しいか! 完全に飲み込まれる!」
実況の絶叫が響く。
先輩の脚色が目に見えて鈍り、後続のウマ娘たちに次々と置き去りにされていく。
本来の彼女の土俵ではないダート。限界を超えた身体は、もはや前に進むための推進力を生み出せていない。
それでも。
彼女の背筋は、最後まで一ミリも曲がらなかった。
次々と抜かされ、バ群に沈み込みながらも、鋭い眼光で前のみを見据え、必死に砂を捉え、どれほど苦しくても不格好な姿を晒すことだけは自分に許さない。
たとえ最下位に沈もうとも、最後まで『ルクスキャリバー』であり続けるという、孤高のプライド。
「先輩……っ!!」
私は、柵を乗り越えんばかりの勢いで叫んでいた。
結果は、8着。
有終の美、1着という勲章どころか、掲示板にすら載ることはできなかった。
けれど、ゴール板を駆け抜けた彼女の姿は、勝利した誰よりも堂々と、そして神々しく輝いていた。
レース後の、静まり返った地下通路。
最後の戦いを終え、汗と泥にまみれ、すべてを出し尽くしたルクスキャリバー先輩が、ゆっくりと歩いてきた。
スタッフたちが遠巻きに見守る中、私はどうしても声をかけられず、ただそこに立ち尽くしていた。
彼女になんと声をかけたらいいのだろう。
お疲れ様でした……違う。残念でしたね……違う。
先輩は、そんな言葉に詰まった状態の私の前でふと足を止めた。
荒くなった呼吸を整えることすら、今の彼女には優雅な所作に見えた。
「……リバーライト」
先輩が、私の名前を呼んだ。
その未だに炎を宿らせている鋭い瞳が、私の目を真っ直ぐに射抜く。
「先輩……。私、私……っ。最後に先輩と、レースで……」
こみ上げてくる感情を抑えきれず、私の視界が涙で滲んだ。
追いつきたかった。間に合いたかった。この新しい脚で、先輩の秒針を狂わせてみたかった。
先輩は、そんな私の震える肩を、冷たく、けれど確かな温もりを込めて、ポンと叩いた。
「泣くな。お前のそのエンジン音が、ここまで聞こえていたぞ」
先輩は、わずかに口角を上げた。
それは、獰猛な勝負師としての笑みではなく、同じ屋根の下で過ごしたルームメイトを、心から信頼する者だけが見せる穏やかな微笑みだった。
「間に合わなかったのではない。……お前が私の先へ行くための時間を、私が稼いでおいてやっただけだ。勘違いするな」
先輩は、私の胸元――赤いリボンが結ばれるはずの場所を、指先でトン、と突いた。
「エリザベス女王杯。……パロールと同じ色を纏うのだろう?」
「……! はい、そうです」
「なら、無様な走りは許さない。走り終えた時、その勝負服に泥一つ付いていない綺麗なままだったら……承知しないぞ」
泥だらけになって、地の底から這い上がってこい。
そう言っているのだと、私にはわかった。
「私は、もう走らない。私の秒針は、ここで止まる。……だが、リバーライト。お前の航跡は、これからどこまでも続いていく」
先輩は、最後に一度だけ、私の頭を乱暴に撫でた。
「……行ってこい。私の誇り高いルームメイト」
それだけを言い残すと、彼女は一度も振り返ることなく、光の差す出口へと歩いていった。
8着という残酷な数字を背負いながらも、その背中は、最後まで誰よりも真っ直ぐで、美しかった。
「…………はいっ」
私は、溢れ出した涙を力強く拭い、先輩の後ろ姿に向かって深く、深く頭を下げた。
憧れだった背中は、もうそこにはない。
けれど、私の胸の中には、先輩から受け取った『完璧な秒針の誇り』が、熱く、激しく拍動していた。
11月、エリザベス女王杯。
そこで私は、あの子と同じ色を纏い、先輩が守り抜いたプライドを胸に、泥濘の底から世界を塗り替えに行く。
先輩が見守る空へ、泥だらけの怪物が産声を上げる日は、もうすぐそこまで迫っていた。
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