祭りでも、怪物でもなく   作:藤沢大典

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第27話:静かな部屋の雨乞いと、決戦の空

 ルクス先輩が学園を去り、退寮してから数日が経った。

 二人で過ごしていた寮の部屋は、以前よりもずっと広く、そして驚くほど静かに感じられた。窓際から聞こえていたあの規則正しいヤスリの音も、今はもうない。

 一人きりの部屋で、私は窓の外を見上げた。

 10月下旬。空は憎たらしいほど雲一つない、高く澄んだ秋晴れだ。

 

(ど、どうしよう。毎日毎日、見事なまでに晴れマークばっかり……)

 

 私は、深いため息を漏らした。

 エリザベス女王杯まで、あと少し。クローゼットには、出番を待つ青緑と赤の真新しい勝負服が眠っている。マキちゃんと同じ色を纏って挑む、初めてのGⅠレース。

 伊関トレーナーは『お前の脚は良バ場でも通用する』と言ってくれたし、私自身もそれは分かっている。

 けれど、先輩がいなくなった静かな部屋で一人あれこれと考えていると、どうしても初めての大舞台への不安が膨らんでしまうのだ。

 あの天才という肩書を背負って一人で戦っている妹に、私の最強の姿を見せるために。強豪たるウマ娘たちと全く同じ土俵で戦うよりも、私のエンジンが120%の威力を発揮できる『雨』と『泥濘(ぬかるみ)』という絶対の安心感が、どうしても欲しかった。

 

(……そうだ。祈ろう。私の力が及ばないなら、神様にすがるしかない!)

 

 プレッシャーで少し視野が狭くなっていた私は、ある必死の行動に出ることにした。

 

 その日の放課後。

 伊関トレーナーが自身のトレーナー室のドアを開けると、部屋の中は異様な光景に包まれていた。

 

「……おい、リバーライト。これは何の儀式だ」

 

 伊関さんは、ドアノブから手を離さないまま、ひきつった声で尋ねた。

 普段は明るい部屋のカーテンが閉め切られ、部屋の至る所――窓際、観葉植物の枝、蛍光灯の紐にまで、無数の黒い物体が吊るされている。

 

「あ、伊関さん。お疲れ様です」

 

 私は、デスクの前に正座したまま振り返った。周囲には、大量のティッシュと、空になった真っ黒な油性マジックが散乱している。

 

「お疲れ様です、じゃない。なんだこの呪いのオブジェは」

「雨乞いです」

 

 私は、マジックのインクで真っ黒に染まった両手を合わせ、至極真面目な顔で答えた。

 ふれふれ坊主。てるてる坊主の真逆のそれを量産しながら私は力説する。

 

「どうしても雨を降らせたいんです! 初めてのGⅠで、私すっごく緊張してて……。マキちゃんに一番カッコいいところを見せるために、私が一番自信を持てる泥んこのバ場になってほしくて……!」

 

 必死にまくし立てる私を見て、伊関さんは深々とため息をつき、私の頭をバインダーの角で軽く小突いた。

 

「アホかお前は。マジックで塗ったティッシュを逆さに吊るしただけで天候が変わるか。だいたい部屋がシンナー臭いんだぞ」

「うぅ……でも、ネットのオカルト掲示板で調べた『雨乞いのカエルの舞』も今夜から寮の中庭で踊る予定で……!」

 

 スパーン!と、今度は強めのツッコミが私の頭に炸裂した。

 

「深夜にカエルの真似なんかして体力を削るな! お前はもう、空模様なんかに祈らなくても勝てるだけのエンジンを積んでいるんだ。ルクスがいなくなって心細いのは分かるが、自分のこれまでの特訓を信じろ!」

 

 伊関さんに一喝され、私はハッとした。

 そうだ。私はあの過酷な湿地帯で、どんなバ場でも泳ぎ切る脚を手に入れたはずじゃないか。GⅠという言葉の重みと勝負服のプレッシャーで、少し空回りしてしまっていたようだ。

 

「……すみません。私、ちょっと焦ってました」

「分かればいい。ほら、この不気味な黒い物体は全部捨てろ。……本当に天候が荒れやすいのは、梅雨時の夏だからな」

「夏……」

「ああ。宝塚記念の時期とかな。もし来年、そこに出るようなことがあれば、その時は俺も一緒にカエルの舞でも踊ってやる」

 

 伊関さんはニヤリと悪戯っぽく笑いながら、私にそう言った。

 

「本当ですか!? 言いましたね伊関さん! 絶対ですよ!」

「ああ。だが、まずは目の前の女王杯だ。オカルトに頼る暇があるなら、腹一杯飯を食って、坂路でも走ってこい」

 

 伊関さんの言葉に、私は憑き物が落ちたように元気よく頷いた。

 それから数日後の、11月中旬。

 エリザベス女王杯を目前に控えた早朝、私はトレーニング用の坂路コースで最終調整を行っていた。

 

「……心拍、筋出力、ともに過去最高値だ。余計なプレッシャーも抜けたようだな」

 

 私がコースを一本走り終えて戻ってくると、伊関さんはノートを確認しながら満足げに口角を上げた。

 

「はい。エンジンも脚の回転も、よりはっきり分かるようになった気がします」

「いい傾向だ。いよいよだな、リバーライト。……京都の舞台も、整いつつあるぞ」

 

 伊関さんはスマホを操作し、当日の京都レース場の天候予測を表示した。

 

「皮肉なものだ。お前があんな黒いてるてる坊主を作っていた時は快晴だったのに……週末の京都には、寒冷前線の影響で大きな雨雲がかかる予報が出ている」

「えっ……本当ですか!?」

 

 画面には、日曜日の京都に並ぶ傘のマーク。それも、かなり強い雨を示唆する色がついている。

 

「お前の雨乞いが時間差で効いたのか、あるいはルクスがお前のために空を揺らしたのか。……どちらにせよ、コンディションはお前に味方し始めている」

 

 伊関さんの瞳に、獰猛な光が宿る。

 

「京都の外回りコース。あそこの3コーナーには『淀の坂』がある。普通、坂を登り切った後の下りでは、連中は勢いをつけて一気に加速する。だが、もしそこが『重バ場』なら……下り坂の加速は、制御不能の滑走へと変わる」

 

 伊関さんは、私の脚を指差した。

 

「だが、泳ぎを知っているお前だけは違う。下り坂の泥濘すら、お前は推進力に変えて泳ぎ切ることができる。……あそこで一気に勝負を決めるぞ」

「はいっ!!」

 

 私は、曇り始めた空に向かって、激しく拳を握りしめた。

 その日の夜。

 誰もいない寮の自室で、私はクローゼットからあの勝負服を取り出した。

 明日、私は京都へと出発する。

 私は一度だけ、その服に袖を通してみた。

 鏡の中に映る、青緑と赤の色彩。パロールと同じ色の、誇り高い鎧。

 

「……マキちゃん。ルクス先輩」

 

 私は、鏡の中の自分に向かって囁いた。

 一人は、空の頂点で見守っている。

 一人は、ターフの外から見届けている。

 

 一人きりの部屋だけれど、私はもう孤独じゃない。背負っている思いの重さが、私のエンジンをどこまでも力強く回してくれる。

 泥だらけの怪物が、女王の冠を奪いに行く。

 その幕が、いよいよ上がろうとしていた。

 




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