祭りでも、怪物でもなく   作:藤沢大典

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第28話:雨の宣戦、樫の女王

 11月の半ば。

 京都レース場の空は、厚く、重たい灰色の雲にすっぽりと覆い隠されていた。

 前日の夜から降り始めた雨は、朝になっても止む気配を見せず、むしろ時間を追うごとにその雨足を強めている。冷たい秋の雨が、美しく整備された京都のターフを容赦なく打ち据え、芝の根元にたっぷりと水分を蓄えさせていた。

 場内の掲示板に点灯しているバ場状態は『稍重(ややおも)』。

 このまま降り続けば、メインレースの時間には確実に『(おも)』、あるいは『不良』にまで悪化するだろう。

 控室の窓からその雨模様を見下ろしながら、私は自身の心臓が、かつてないほど激しく、そして力強く脈打っているのを感じていた。

 

 ウマ娘にとって、最高峰の舞台であるGⅠレース。

 晴れやかな青空の下、大観衆の歓声を浴びて走るのが、誰もが夢見る憧れの姿だ。その憧れに挑むための、この重苦しい雨と足元をすくう泥のターフは、多くのウマ娘たちにとって不運であり、絶望のコンディションでしかない。

 けれど、私にとっては――この雨音のすべてが、私の出陣を祝うファンファーレだった。

 

「……よし」

 

 私は窓から離れ、姿見の前に立った。

 そして、ハンガーに掛けられていた『装甲』に、ゆっくりと袖を通す。

 深く、鮮やかなビリジアンの生地。そこに清潔感のある真っ白な袖が合わさり、胸元には情熱的な真っ赤なリボンが結ばれる。

 パロール――マキちゃんの、明るく空を飛ぶような緑とは少し違う。大地に深く根を張り、どんな悪路にも屈しないための、私だけの深緑の勝負服。

 生地は驚くほど軽く、それでいて、私の分厚くなった筋肉をしっかりと包み込んでくれる安心感があった。

 

 背中まで伸びた髪を高い位置で二つのお団子にまとめ、強く結び直す。

 鏡の中に映る自分は、もう『才能がない』と怯えていたひ弱で情けない私ではない。

 泥濘(ぬかるみ)の底から女王の冠を奪い取るために研ぎ澄まされた、一人の挑戦者。

 

「……リバーライト、準備はいいか」

 

 ノックの音と共に、控室のドアが開いた。

 現れた伊関トレーナーは、いつもの無愛想な表情の中に、研ぎ澄まされた勝負師の鋭い眼光を隠そうともしていなかった。

 

「はい。完璧です」

「バ場は稍重、そして今も雨は降り続けている。メインレースの頃には、さらに芝の根元まで水が浮くはずだ」

 

 伊関さんは、私のビリジアンの勝負服を一度だけ上から下まで見つめ、満足げに頷いた。

 

「パドックでの連中の顔を見てこい。皆、泥にバネを吸われることを恐れて、青ざめた顔をしている。……お前が一人で優雅に泳ぐためのプールは、完全に仕上がったぞ」

「はいっ。……行ってきます、伊関さん」

 

 私は伊関さんと力強く拳を合わせ、控室を後にした。

 雨のパドックは、異様な熱気と緊張感に包まれていた。

 傘の花が咲き乱れるスタンド。GⅠレース特有の、腹の底に響くような歓声とカメラのフラッシュ。

 私は伊関さんの言う通り、周回しながら他のウマ娘たちの様子を観察した。

 このエリザベス女王杯に駒を進めてきたシニアの強豪たちは、一様に洗練された美しい身体つきをしている。だが、彼女たちの足取りはどこか重く、時折、泥を含んだパドックの土を嫌がるように神経質なステップを踏んでいた。

 

 対して私は、一歩一歩、泥の感触を確かめるように、わざと重く足裏をグラウンドに押し付けながら歩いていた。

 

(……滑る。でも、あの沼地に比べれば、全然軽い)

 

 私の異常な落ち着きぶりに気づいたのか、スタンドのファンや記者の間から『おい、リバーライトの気配がヤバいぞ』『あのバ場を見て笑ってやがる。やべぇ』という囁きが漏れ聞こえてくる。おっといけない、顔を引き締めておかないと。

 やがてパドックでのお披露目が終わり、いよいよ本バ場へと続く地下通路へ向かう指示が出た。

 地下通路の中は、外の雨音がくぐもって聞こえ、湿った空気と他のウマ娘たちの荒い呼吸だけが不気味に反響している。

 各々が精神を極限まで集中させ、ターフへの出口を目指して歩みを進める中。

 不意に、前を歩いていた一人のウマ娘が、立ち止まって振り返った。

 

「……いい色ね。その勝負服」

 

 凛とした、鈴を転がすような気品あふれる声だった。

 振り返った彼女を見て、私は思わず息を呑んだ。

 艶やかな長い髪。非の打ち所のない洗練された佇まい。そこに立っているだけで、周囲の空気がピンと張り詰めるような圧倒的な格のオーラ。

 昨年のオークスを制し、この世代の頂点の一角を担う樫の女王、ノヴァヒストリー。

 先日のオールカマーで2着を取っていた、間違いなく私に立ちふさがる『壁』だ。

 

「ノヴァヒストリーさん……」

「緑と白に、赤の差し色。パロールと同じ色彩。……あなたが例の『お姉さん』なのね」

 

 ノヴァヒストリーは、わずかに目を細めて私の全身を――特に、他のウマ娘よりも明らかに太く、無骨に鍛え上げられた私の脚を、値踏みするように見つめた。

 その瞳には、侮蔑ではなく、選ばれた強者ゆえの明確な『拒絶』が宿っていた。

 

「あの子は、この世代の特別よ。私たちの中でも、さらに高い空を飛ぶ才能を持ったウマ娘。……けれど、あなたは違う。あなたの実績、そしてその不格好なまでの筋肉。……あなたは、あの子と同じ色を背負って隣に立つべき『一番星』には見えないわ」

 

 コンクリートの壁に、彼女の厳しい言葉が反響する。

 周りのウマ娘たちが、ヒヤリとした顔で私たち二人の様子を遠巻きに窺っていた。

 

「今日の雨は、確かにあなたのようなパワータイプに味方するでしょう。けれど、勘違いしないで。女王の冠は、ただ泥に強いだけの無骨なウマ娘に渡されるほど安っぽくはないの。……この京都の舞台で、格の違いを知ることになるわ」

 

 宣戦布告。

 オークス覇者からの、冷徹なまでの否定。

 私がマキちゃんと同じ色を纏ってGⅠの舞台に立つことは、生粋のエリートである彼女の美学に反するのだろう。

 以前の私なら、その圧倒的な存在感に気圧されて、目を逸らしていたかもしれない。

 けれど、今の私は違う。

 私は、ノヴァヒストリーの鋭い瞳を、真っ向から見つめ返した。

 

「……確かに、私はマキちゃんのような天才ではありません」

 

 私は、自身の重い脚を一歩前へ踏み出した。

 地下通路のコンクリートを、私の強靭な足音が低く叩く。

 

「空を飛ぶための綺麗な翼も、持ってません。……でも、ノヴァヒストリーさん。今日のレースは『飛ぶ』レースじゃないんです」

 

 私は、ビリジアンの胸元の赤いリボンをギュッと握りしめ、獰猛な笑みを浮かべた。

 

「今日は、どれだけ深く暗い泥の底まで、沈まずに泳ぎ切れるかの勝負です。……あなたが自慢の翼を泥に汚して苦戦している横を、私は鼻歌交じりに泳いでみせます。マキちゃんと同じこの色を、地の底で誰よりも誇らしく輝かせて」

「……っ」

 

 ノヴァヒストリーの眉が、ピクリと動いた。

 彼女は私の瞳の奥に、エリートの常識では測れない『狂気にも似た闘志』を見たのかもしれない。

 

「……ふん、言うわね。泥にまみれるのがお似合いだこと。……いいでしょう。その大口、ターフの上で後悔させてあげるわ」

 

 ノヴァヒストリーはそれだけを言い残すと、美しく髪をなびかせ、光の差すターフへの出口へと歩き出した。

 私も、彼女の背中を追うように歩き出す。

 出口が近づくにつれて、雨音をかき消すほどの地鳴りのような大歓声と、ブラスバンドの生演奏の音が全身にぶつかってくる。

 

(マキちゃん、見てて)

 

 空が泣き、大地が泥に沈む。

 皆が最も嫌い、私が最も愛した最高の戦場。

 

 エリザベス女王杯。

 ビリジアンの鎧を纏った不格好な装甲車が、数多の猛者たちを振り切り、女王の冠を奪い取るための航跡が、今、京都のターフに刻まれようとしていた。

 




ノヴァヒストリー
オリウマ娘。モデル馬「ヌーヴォレコルト」
桜花賞、オークスなど名だたる重賞レースに出走し、華々しい戦績を築いている。
アニメにてサトノクラウンが香港でGⅠを制した話があったが、その彼女に同行し別レースに出走していたりする。

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