祭りでも、怪物でもなく   作:藤沢大典

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第29話:緑のスクリューと、泥濘の戴冠

 11月半ば、京都レース場、エリザベス女王杯。

 冷たい秋の雨が、淀のターフを容赦なく打ち据えている。

 バ場状態は『稍重(ややおも)』。

 踏みしめる芝はじゅわりと冷たい水を吐き出し、足首まで絡みつくような嫌な粘り気を孕んでいる。瞬発力自慢のウマ娘たちの顔には、自慢の翼が泥を吸うことを危惧する確かな焦りが浮かんでいた。

 だが、私にとっては、この雨音のすべてが、私の出陣を祝うファンファーレだった。

 

『冷たい雨が降りしきる秋の京都! 稍重へと悪化したターフの上、女王の座を巡る戦いがいよいよ幕を開けます! 18頭のウマ娘、悪天候をものともしないその眼光。運命のファンファーレが鳴り響き、今、全ウマ娘がゲートへと収まりました。静寂を切り裂く運命の瞬間、今――!』

 

 ――ガチャンッ!

 

『ゲートが開いた! 18人、一斉に飛び出しました! 泥を跳ね上げ、淀の激闘がスタートです!』

 

 私は伊関さんとの打ち合わせ通り、中団の9番手のポジションにスッと収まる。

 私の視界の隅、ずっと後方の13番手あたりに、ノヴァヒストリーの姿があった。彼女は世代の頂点に立つ強者の矜持にかけて、この馬場でも自身の末脚を信じ、嵐の前の静けさを保っている。

 

 先頭を行くウマ娘が、最初の1000mを通過する。

 私は体内の時計の針を確認する。タイムはおよそ60秒5〜7くらい。逃げウマ娘にとっては平均ペースだが、私たち後方集団にとっては極端なスローペースだ。周りのライバルたちは皆、最後の直線でのキレ勝負に備え、ギリギリまでガソリンを温存しようとしている。

 

(でも、このバ場じゃ、最後の直線だけで勝負は決まらない)

 

 冷たい雨水をたっぷり吸い込んだ芝は、彼女たちの思惑を嘲笑うかのように静かに体力を奪っていた。周囲から聞こえ始める、微かな息の乱れ。スピード自慢の細い脚が、踏み込むたびにズルッと滑り、無意識のうちに見えない疲労を蓄積させているのが空気で分かる。

 対して私は、一定のリズムを決して崩さない。泥の抵抗に逆らわず、ただ後方へと重く掻き出しながら、自身の重厚なエンジンの熱をじっくりと、そして着実に高めていった。

 

 やがて、レースは向こう正面を過ぎ、京都レース場最大の難所へと差し掛かる。

 第3コーナー、通称『淀の坂』。

 高低差4.3mの急な上り坂、そしてそこから一気に駆け下りる下り坂。

 

「さあ、ここからだ」

 

 私は、一段と強くターフを掻き込んだ。

 坂の上り。重力が牙を剥き、周りのウマ娘たちのスタミナをガリガリと削り取る。彼女たちが苦しげに息を乱す中、私はあのオールカマーの時と同じように、一切の出力を落とすことなく坂の頂上まで登り切った。

 

 そして、運命の下り坂。

 今日の足元は水を含んだ稍重バ場。下り坂で不用意にスピードを出せば、滑ってバランスを崩す。その恐怖が、並み居る強豪たちの脳裏に明確なブレーキをかけさせた。

 

(今だっ!!)

 

 私は、スロットルを全開に押し込んだ。

 滑る? バランスを崩す? 関係ない。私の脚は跳ぶためのものじゃない。泳ぐためのスクリューだ。

 

 ――ズザァァァァッ!!

 

 強烈な水飛沫を後方へ吹き飛ばしながら、私は下り坂を信じられないスピードで航行し始めた。泥の抵抗を足ヒレで捉え、下り坂の重力を味方につけて一気に押し出す。

 そのまま雪崩れ込む第4コーナー。強烈な遠心力と泥の滑りがウマ娘たちを外へ外へと追いやろうとする中、あの河川敷の特訓で鍛え抜かれた私の強靭な体幹は、一ミリのブレも許さなかった。滑る泥そのものを土台にし、荒れた内側のコースを装甲車のように力強く突き進む。前を行く先行集団が、まるで止まっているかのように次々と私の視界の後方へと追いやられていく。

 

『さあ、第4コーナーを回って京都の直線! 先頭は依然としてヴィクトリベルタが粘る! しかし外から一気に緑の勝負服! リバーライトだ、リバーライトが上がってきた!』

 

 直線に入り、私はそのままの勢いで前を呑み込みにかかる。

 だがその時、ずっと後方の14番手付近で息を潜めてた彼女が、いよいよ牙を剥いた。

 

『大外からノヴァヒストリー!! 昨年のオークスウマ娘が飛んでくる!!』

 

 実況が絶叫する。

 泥にまみれながらも、ノヴァヒストリーは誇り高き実力者の意地を見せ、最後の力を振り絞って凄まじい末脚を繰り出してきた。

 彼女の背中から大きな翼が広がるのが見えた。このバ場状態ではあり得ない強烈なトップスピードで彼女が迫って来る。

 

「このっ、泥娘がぁぁっ!!」

 

 ノヴァヒストリーが、気品をかなぐり捨てて鬼気迫る表情で私に並びかけてくる。

 

(すごい! これが、選ばれた天才の翼!)

 

 容赦なく顔に打ちつける泥水。重くのしかかる秋の冷雨。誰もが脚を止め、膝から崩れ落ちたくなるような極限状態の中で、私と彼女は完全に二人にだけしか見えない世界に入り込んでいた。ノヴァヒストリーの一歩は、泥に足を取られながらも恐ろしく広く、そして鋭い。

 彼女のバネは本物だ。重バ場ですらこれほどのスピードを出せる彼女は、間違いなくこの世代の頂点。

 純粋なトップスピードの勝負では、私は完全に彼女に劣っている。

 でも。

 私だって、泥を啜ってここまで来たんだ!!

 誰よりも早く坂の上から泳ぎ始め、稼ぎ出したこのアドバンテージだけは、絶対に譲らない!!

 

「回れぇぇぇっ!! 私の、エンジンッ!!」

 

 私は、限界を超えて脚を回した。

 肺が悲鳴を上げ、全身の筋肉が熱く焼け焦げるように痛む。私の重厚なスクリューは彼女の放つ強烈な風圧を真っ向から受け止め、決して前を譲らない。

 苦しくはない。この泥の重さは、あの多摩川のタイヤに比べれば。この水草のないターフは、あの郊外の底なし沼に比べれば。

 

 ――ドッ!! ドッ!! ドッ!! ドッ!!

 

 私の緑の勝負服と真っ赤なリボンが、雨を切り裂いて猛烈に前へ出る。

 ノヴァヒストリーの鋭い翼が私を捉えようと首を伸ばすが、私の重厚なスクリューは一ミリも減速することなく、彼女の猛追を泥の中へとはね除けた。

 

『リバーライトだ! リバーライトが凌ぎ切った!! リバーライト、先頭でゴールイン!! 冷たい秋雨が打ち据える淀のターフで、今、新たな女王が誕生しました!』

 

 バシャァッ!! と、最後に大きな泥を跳ね上げて、私はゴール板を駆け抜けた。

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ!!」

 

 ゴールを過ぎ、ようやくスロットルを戻す。

 けれど、私の意識はまだ、あの暗く重たい泥の底に取り残されたままだった。

 肺は焼けるように熱く、視界は泥と雨水に遮られて白く霞んでいる。

 極限まで回転を上げ続けたエンジンの轟音が耳の奥で鳴り止まず、周囲の声も、雨音も、何も聞こえない。

 

(今、何着だった?)

 

 自分が誰を抜き、誰に抜かれたのか。今の走りで届いたのか、それとも一歩及ばなかったのか。

 ただ無我夢中で泥を掻き出し続け、全力で泳いだ記憶しかない。

 私は歩を緩め、ふらふらとした足取りで、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 冷たい雨が頬を叩いているはずなのに、身体の芯からはまだ、制御不能な熱気が蒸気となって立ち上っている。

 

「何を、呆けているの」

 

 不意に、すぐ隣から声がした。

 ハッとして顔を上げると、そこには肩を激しく上下させたノヴァヒストリーが立っていた。

 昨年のオークスを制した世代の頂点。その勝負服も、美しい髪も、今は私と同じ泥色に染まっている。

 

「ノヴァ、ヒストリー、さん?」

 

 私がかすれた声で彼女の名前を呼んだ、その時だった。

 彼女は、泥に汚れた私の右手を、力強く掴んだ。

 そして、驚く私をよそに、その腕を雨空に向かって、高く、誇らしく掲げさせたのだ。

 

「えっ?」

 

 掲げられた自分の腕。

 その瞬間、まるで魔法が解けたように、スタジアムを埋め尽くす怒涛の大歓声が耳の中に流れ込んできた。

 電光掲示板の最上段には、確かに『12』という私の番号を示す数字が輝いている。

 

「私に勝ったウマ娘が、何を呆けているの」

 

 ノヴァヒストリーは、私の腕を掲げたまま、悔しさを押し殺したような、けれど晴れやかな笑みを浮かべていた。

 

「胸を張りなさい、リバーライト。今日のこの淀の舞台で、誰よりも速く泳ぎ切ったのは、あなたよ」

 

 ノヴァヒストリーの真っ直ぐな瞳が、私の目を射抜く。

 そこにはもう、地下通路で見せたような拒絶はない。泥にまみれ、全力を尽くして戦い抜いた者だけが共有できる、確かな敬意があった。

 

「っ、ありがとうございます。ノヴァヒストリーさん!」

 

 私は、溢れ出した涙を泥と一緒に袖で拭った。

 

 掲げられた腕に、京都の冷たい雨が降り注ぐ。

 その冷たさが、今この瞬間、自分が女王の座に就いたのだという実感を、ゆっくりと身体の奥へ浸透させていった。

 

「リバーライト!!」

 

 検量室の前から、伊関トレーナーの絶叫が聞こえる。

 私はノヴァヒストリーに深々と一礼し、泥だらけの勝負服を誇らしく揺らしながら、自分を信じて待ってくれているトレーナーの元へと駆け出した。

 

 才能がないと泣いていた、哀れな凡ウマ娘だった自分。

 けれど泥を泳ぐ確かな強さを手に入れ不屈の装甲車となった今、私は誇り高き最強のライバルからその手を掲げられ、雨の京都の頂点で、誰よりも眩しく輝いていた。

 

 




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