(……かけなきゃ。ここで立ち止まってたら、昨日のままだ)
先程ルクスキャリバー先輩がくれた不器用な肯定。そして、河川敷で伊関トレーナーが言ってくれた『まだ自分がどんなレースで咲くべきかを知らないだけ』という言葉。それが、臆病な私の背中をほんの少しだけ支えてくれている。
私は意を決して発信ボタンを押した。
数回のコールの後、静かで落ち着いた声が耳に届いた。
『――伊関だ』
「あ、あのっ、リバーライトです! さっきの……スカウトのお話、まだ生きてますか……?」
『もちろんだ。正直連絡は来ないだろうと思ってたから安心したぞ。明日の放課後、俺のチームの部室に来い。場所は――』
翌日の放課後。
周囲では、午後のトレーニングに向かうウマ娘たちが、軽やかな足取りで笑い合いながら通り過ぎていく。彼女たちの洗練されたジャージ姿と、洗っても落としきれなかった泥の汚れを纏った自分の姿との落差に足がすくみそうになりながらも、私はトレーニングコースの脇を通り抜けていく。
伊関さんから指定されたのは、華やかなメインキャンパスから遠く離れた、旧校舎の裏手だった。
学園のパンフレットに載っているような、最新の機材が揃うエリートたちの部室棟や、美しく手入れされた芝生のグラウンドを横目に、私はどんどん寂れていく道を進んでいく。すれ違う生徒の数もまばらになり、やがて誰の姿も見えなくなった。
辿り着いたのは、ツタが這い、塗装の剥がれかけた古ぼけた建物の前だった。
その一角にある、赤茶色に錆びついた鉄扉。そこにガムテープで乱雑に貼られた段ボールの切れ端には、乱雑な字で『伊関』と書かれていた。
(……え? ここ?)
ごくりと息を呑んで、恐る恐る冷たいドアノブに手をかける。
ギィィ……と、耳障りな音を立てて重い扉が開いた。
「し、失礼します……」
おずおずと足を踏み入れた私を出迎えたのは、古いカビと、ひんやりとした埃の匂いだった。
中は薄暗く、部屋というよりは『ただの倉庫』と呼ぶのが正しい有様だった。壁際には出番を失って色褪せたカラーコーンが積み上がり、ひしゃげたパイプ椅子や、いつの時代のものか分からないような黒ずんだ重りが無造作に転がっている。
エリートウマ娘たちが通うような、清潔で快適な部室の面影は微塵もなかった。
「来たか」
部屋の奥。
積み上げられた体操マットの隣に置かれたパイプ椅子に座り、クリップボードに挟んだ資料にペンを走らせていた伊関さんが、顔を上げた。
昨日と同じ、地味なウィンドブレーカー姿。乱雑な部屋の様子とは対照的に、彼の机の周りだけは資料が理路整然と積まれており、技術者の工房のような特異な空気を放っていた。
「伊関、トレーナー……あの、ここが……部室、ですか?」
「そうだ。俺一人の所帯だからな、体裁を整える暇も予算も無い。まぁ、適当にその辺の椅子に座っとけ」
勧められたパイプ椅子は座面が少し破れていて、座るのにも少し勇気がいる代物だった。
(……もしかして私、とんでもない貧乏クジを引いちゃったんじゃ)
私はパイプ椅子を両手で握りしめたまま、引きつった笑いを浮かべた。
昨日、夕暮れの河川敷で『一から作り直す』と語ったあの人の姿はあんなに頼もしく見えたのに。蓋を開けてみれば、そこにあるのは学園の掃き溜めのような埃っぽい倉庫と、地味なトレーナーさんが一人だけ。
「……あの、もしかして、チームのメンバーって……」
「ん?ああ。昨日までは俺一人だったからな。今日からお前が、うちのチームの『エース』であり、『唯一の所属ウマ娘』だ」
「ええええええっ!?」
たった一人の所属ウマ娘。
それはつまり、実績も何もないトレーナーと、選抜レースで惨敗した落ちこぼれの私による、学園で最も不格好な二人三脚の始まりを意味していた。
激しく後悔し始め、逃げ出そうか迷う私の心情などお構いなしに、伊関さんはクリップボードを置き、立ち上がって私の全身を静かに観察し始めた。
その視線は、昨日河川敷で向けられたものと同じ、機械の構造を隅々まで点検するような冷徹で正確なものだった。
「……リバーライト。お前、普段の食事量はどのくらいだ?」
「えっ? あ、はい。普通には……食堂の定食を、一人前くらいは」
「足りないな。全く足りていない。……お前、激しい追い切りメニューをこなした日の夜や翌
日、よく熱を出して寝込むだろ?」
ビクッと、肩が跳ねた。
図星だった。私は幼い頃から体が小さく、妹のマキちゃんのように活発に走り回るタイプではなかった。トレセン学園に入ってからも、エリートたちが涼しい顔でこなす激しい調教についていけず、無理をしてはすぐに熱を出し、数日間寝込むことの繰り返しだった。
私の才能のなさを象徴するようなその体質を、この人は少し身体を見ただけで正確に見抜いてみせた。
「昨日も言った通りだ。お前の最大の武器は、どれだけ無様に転倒しても絶対に歩みを止めない『異常な心肺機能』と『底なしのスタミナ』だ。……だが、それを支える
伊関さんは、倉庫の隅から古びて黒ずんだメディシンボールと、木製のバランスボードを引っ張り出してきた。
「心臓と肺がどれだけ優秀でも、それを推進力に変える筋肉が薄く、骨格を支える体幹が弱ければ、エネルギーは逃げ、自身の出力に耐えきれずに身体が悲鳴を上げる。……いいか、リバーライト。もし今すぐお前をターフに立たせて、お前のその巨大なエンジンをフル回転させたら、ゴールする前にお前の脚はバラバラに壊れるぞ」
淡々とした口調で告げられたその言葉に、私は息を呑んだ。
彼は、私の弱さを責めているわけじゃない。私が壊れてしまわないように、誰よりも現実的に、私の身体の『設計図』を引き直そうとしてくれているんだ。
「まずは徹底的に、その細い身体を作り直す。食って、寝て、どんな負荷にも絶対にブレない鉄の土台を作るんだ。それができなきゃ、私はお前をレースに出すつもりはない」
確信を持って告げる伊関さんの揺るぎない瞳を見ていると、不思議と不安はスッと消えていった。
「……わかりました。私、やります」
私の答えを聞いて、伊関さんは満足そうに小さく頷いた。
「よし、挨拶は終わりだ。さっそく行くぞ」
「はい……って、学園のトレーニングセンターはあっちですよ?」
「誰が最新の設備を使うなんて言った。あんな綺麗なマシン、今のお前の身体にはまだ早すぎる」
ドサリ、と私の腕に重いメディシンボールが押し付けられる。
そのずっしりとした重みに思わずよろめく私に、伊関さんは今日初めて、微かに口角を上げて笑った。
「行くぞ。まずは近所の定食屋だ。肉と米を限界まで腹に詰め込んで、この埃っぽい倉庫で吐くほど
華やかなターフから遠く離れた、埃っぽい倉庫。
私と伊関トレーナーの、泥臭くて地味な『土台作り』の日々が、幕を開けた。
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