『天才』
それは私が自ら望んで名乗った、一番星という名の不自由な称号だ。
トレセン学園に入学してからというもの、私の周りには常に過剰な期待と羨望、そして無意識の嫉妬が渦巻いていた。
勝って当たり前。圧勝して当然。少しでも息を乱せばどうしたんだと囁かれ、二着に甘んじれば限界かと心ない言葉が飛んでくる。
すべては、才能の壁に傷ついていた大好きなお姉ちゃんを守るためだった。私がパロールという名の鎧をまとい、たった一人で高すぎる空を飛び続ければ、世間の残酷な視線はお姉ちゃんには向かない。私が一番星として輝き続ける限り、優しすぎるお姉ちゃんは誰に気兼ねすることなく、思うまま好きに走ることが出来る。
自分で決めた覚悟だった。だが、絶対に墜落できないという重圧は、時折私の身体を無慈悲に押し潰そうとする。弱音を誰にも打ち明けられず、ただ完璧なパロールを演じ続ける日々。その孤独な空はどこまでも澄み渡っていて、凍えるほどに冷たかった。
「……お姉ちゃん」
薄暗い自室。私はトレーニングの合間の休息時間、テレビの画面を見つめながらぽつりと呟いた。
以前は姉のことをそう呼んでいた。しかし弱かった自分に決別するため、あえて『姉貴』と呼ぶようになってからもう随分経つ。
画面の向こう側は、冷たい秋の雨に煙る京都レース場。
エリザベス女王杯、本番直前のパドック中継。そこに一人のウマ娘が映し出された瞬間、私の心臓はドクリと大きく跳ねた。
リバーライト。私の、世界でたった一人のお姉ちゃん。
画面の中のお姉ちゃんは、私が今、寮のクローゼットに大切にしまっているのと同じカラーリングの、けれど少しだけ違う緑と白、そして真っ赤なリボンの勝負服を纏っていた。
私の緑が空を飛ぶための若葉の緑なら、お姉ちゃんの緑はどんな嵐にも倒れない巨木の深緑。
かつて泥まみれになって私には才能がないと泣いていた不器用なお姉ちゃん。
そのお姉ちゃんが今は昨年のオークス馬や強豪たちに囲まれながら、誰よりも堂々とした顔で雨のパドックを踏みしめていた。
(マキちゃんが一人で高い空を飛んでるなら、私が地の底から、泥だらけになって迎えに行くからね)
ふと、そんな幻聴が聞こえた気がした。
実際にお姉ちゃんがそんな大それたことを口にしたことは一度もない。けれど、雨に濡れるお姉ちゃんの真っ直ぐな瞳を見ていると、そんな無言の誓いが心の中に直接流れ込んでくるようだった。
『冷たい雨が降りしきる秋の京都! 稍重へと悪化したターフの上、女王の座を巡る戦いがいよいよ幕を開けます! 18頭のウマ娘、悪天候をものともしないその眼光。運命のファンファーレが鳴り響き、今、全ウマ娘がゲートへと収まりました。静寂を切り裂く運命の瞬間、今――!』
――ガチャンッ!
『ゲートが開いた! 18人、一斉に飛び出しました! 泥を跳ね上げ、淀の激闘がスタートです!』
実況の声と共に、18人のウマ娘が重い泥を跳ね上げて飛び出した。
画面越しでも伝わってくるひどいバ場コンディション。芝を強く踏みしめるとじわりと染み出す水分が、一歩踏み出すごとに体力が奪われていく絶望の淀。
瞬発力を武器にするライバルたちが泥跳ねを嫌い、脚を取られることに怯えながら慎重に走る中、お姉ちゃんだけは水を得た魚のように生き生きとして見えた。
(すごい。あんなに重い泥の中を、あんなに楽しそうに泳いでいる)
私はテレビ画面の数センチ手前まで身を乗り出し、食い入るようにその航跡を追った。
お姉ちゃんの走りは、私が持っているような軽やかなバネやストライドとは全く違う異質なものだった。
不器用で、重たくて、けれど絶対に止まらない。
泥の抵抗をすべて推進力に変えてしまう、泥濘を泳ぐための巨大なスクリュー。
画面の中、レースは向こう正面を過ぎて運命の坂へと差し掛かる。
普通なら下り坂での滑走を恐れてブレーキをかけるその場所で、お姉ちゃんだけがスロットルを限界まで全開に押し込んだ。
「いけっ、お姉ちゃん、いけっ!!」
私は自分の膝を握りしめ、叫んでいた。
画面の中のお姉ちゃんは猛烈な勢いで水飛沫を上げ、外側から他を次々とすり潰していく。
滑って転倒するかもしれないという恐怖を克服したのではない。もともと彼女にとってあの泥濘こそが、自分を最も速く走らせてくれる最高の友なのだと、その走りが雄弁に物語っていた。
『さあ、第4コーナーを回って京都の直線! 先頭は依然としてヴィクトリベルタが粘る! しかし外から一気に緑の勝負服! リバーライトだ、リバーライトが上がってきた!』
最後の直線。
お姉ちゃんが先頭に差し迫ろうとしている瞬間、画面の端から凄まじい末脚を爆発させたノヴァヒストリーが襲いかかってきた。
世代の頂点に立つ、誇り高き実力者の強襲。
かつてエリートと呼ばれた者たちの意地、磨き上げられた翼のプライド。そのすべてを懸けた彼女の鋭い走りが、お姉ちゃんの背中を切り裂かんばかりに迫る。
『大外からノヴァヒストリー!! 昨年のオークス馬が飛んでくる!!』
「負けないでっ! お姉ちゃん、負けないで!!」
私は祈るように両手を組んだ。
画面の中のお姉ちゃんは顔を泥だらけにし、口の中に泥が飛び込もうとも構わず、必死に、ただ必死に脚を回し続けていた。
綺麗に飛ぼうなんて彼女は最初から思っていない。
泥に塗れ、不格好に、けれど誰よりも力強く目の前の現実を掻き出し続ける。
その必死な姿が、空を優雅に飛んでいるどんな天才の姿よりも、私には何百倍も気高く、最高にカッコよく見えた。
『リバーライトだ! リバーライトが凌ぎ切った!! リバーライト、先頭でゴールイン!! 冷たい秋雨が打ち据える淀のターフで、今、新たな女王が誕生しました!』
ゴール板を駆け抜けた瞬間、実況の絶叫と共に私の部屋に地鳴りのような歓声が流れ込んできた。
一着、リバーライト。
掲示板に灯った彼女の番号を見た瞬間、私は組んだ両手から力が抜け、そのまま床にへたり込んでしまった。
「あっ」
張り詰めていた緊張が解け、ポロポロと涙がこぼれ落ちる。
天才でいなければならない重圧。誰にも弱音を吐けない孤独。一人で飛び続ける寒さ。
自分で選んだ道とはいえ時折押し潰されそうになっていたそのすべてを、テレビの向こうの不屈の装甲車が力ずくで泥の中へと引きずり下ろし、もう一人じゃないよと抱きしめてくれたような気がした。
画面の中ではまだ雨が降り続いていた。
走り終えたお姉ちゃんは、自分が勝ったことすら分かっていないような呆然とした顔で立ち尽くしている。
そんなお姉ちゃんの元へ敗れたノヴァヒストリーが歩み寄り、その泥だらけの右手を掴んで雨空へ向かって高く掲げた。
スタジアムを埋め尽くす祝福の嵐。
掲げられたお姉ちゃんの腕には私と同じ色の、けれど誇らしい泥に染まった赤いリボンが結ばれていた。
お姉ちゃんはカメラの向こう、つまり私が一人で飛んでいるこの空へ向かって、ぐしゃぐしゃの泣き顔で力いっぱいガッツポーズをして見せた。
(……本当に、迎えに来てくれたんだね)
私はテレビ画面にそっと掌を重ねた。
冷たい液晶の向こう側から、お姉ちゃんのエンジンの熱気が伝わってくるようだった。
私たちは別々の場所で、けれど同じ色を背負って戦っている。
「おめでとう、お姉ちゃん。私の、世界一カッコいい、泥だらけの女王様」
窓の外ではいつの間にか雨が上がり、雲の隙間から優しい秋の夕陽が差し込んでいた。
もう、この部屋は寒くない。
振り返ればそこには大地を泳ぎ、どんな悪路でも絶対に諦めない太陽がいてくれるのだから。
私は涙を拭い、これ以上ないほど晴れやかな笑顔で次のレースへと向かうためのトレーニングウェアに手を伸ばした。
今度は私が。お姉ちゃんが走りで示してくれたこの勇気を胸に、もっと高く、もっと自由に、あの空を飛んでみせる。
姉妹の絆が織りなす航跡は今、二つの地平を一つに繋いでいた。
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