祭りでも、怪物でもなく   作:藤沢大典

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第31話:祝勝会と、泥だらけの勲章

 ——サクッ、ジュワァァァッ。

 

 きつね色に揚がった香ばしい衣に歯を立てると、サクサクという小気味良い音と共に、幾重にも薄く巻かれた豚肉の間から、熱々の肉汁が滝のように溢れ出した。そこに定食屋特製のフルーティで甘辛いソースと、山盛りの千切りキャベツの瑞々しさが絶妙なバランスで混ざり合い、口の中がたまらない多幸感で満たされていく。

 

「ん〜〜〜っ! 最高ぉぉぉっ!!」

 

 私は、限界まで頬張った特大のロールかつをごくりと飲み込み、幸せを噛み締めるように天を仰いだ。

 ここは、トレセン学園から少し歩いた路地裏にある、私と伊関トレーナーの馴染みの定食屋だ。外観は年季が入っているが、味とボリュームは学園周辺でもトップクラス。特にこの特大ロールかつは、私が落ち込んだ時も、厳しい特訓を乗り越えた時も、常に胃袋と心を満たしてくれた『勝負メシ』ならぬ『ご褒美メシ』である。

 使い込まれた木のテーブルの上には、大皿に山のように積まれた特大ロールかつと、私の顔より大きいのではないかというサイズのどんぶり飯が鎮座している。

 数日前、京都レース場の重バ場でエリザベス女王杯を制し、あの誇り高いビリジアンの勝負服を寮のクローゼットへ大切にしまった私は、いつもの着慣れた学園指定のジャージ姿に戻っていた。

 着飾ることもなく、ただ最高に泥臭くて、最高に美味しい祝勝会を心ゆくまで満喫している最中だ。

 

「おうおう、食いっぷりがいいのは前からだが、今日は一段とギアが入ってやがるな、リバーちゃん!」

 

 厨房の奥から、頭にタオルを巻いたおやじさんが、湯気の立つ豚汁のお椀を二つお盆に乗せてやってきた。

 おやじさんは私の前に豚汁をドンと置くと、ニカッと顔中の皺を寄せて笑った。

 

「見たぜぇ、日曜のテレビ! いやぁ、たまげたのなんのって。あの名だたる猛者たちをごぼう抜きにして、一番に駆け込んできやがったんだからな! うちの常連からGⅠウマ娘が出たなんて、町内会の自慢だよ! あとでサインくれ!」

「えへへ……ありがとうございます、おやじさん。でも、画面越しだと泥だらけで、誰が走ってるか分からなかったんじゃないですか?」

「ばぁか、あんな力強い走り、リバーちゃん以外にいるもんか! 顔中真っ黒にしてガッツポーズしてる姿、最高にカッコよかったぜ! 今日は特別に、デザートの杏仁豆腐もサービスしてやらぁ!」

「本当ですか!? やったー!!」

 

 私は箸を持ったまま万歳をして喜んだ。

 テレビのニュースでは、連日『エリザベス女王杯、大波乱』『泥濘の装甲車、オークスウマ娘を撃破』と、センセーショナルな見出しで私のことが報じられている。新聞のスポーツ欄にも、泥だらけのビリジアンの勝負服が大きく載っていた。

 でも、そういうメディアの仰々しい言葉よりも、こうして私を知ってくれているおやじさんの言葉の方が、ずっとずっと私の胸を温かくしてくれた。

 

「……相変わらず、とんでもない食いっぷりだな。レース直後で内臓も疲労しているはずなのに、お前の胃袋はどういう構造をしてるんだ」

 

 向かいの席に座る伊関トレーナーは、呆れたような、けれどどこかホッとしたような顔で、よく冷えたビールのジョッキを傾けていた。

 いつもは冷徹にストップウォッチを睨み、私の体重管理や栄養バランスにも目を光らせている彼だが、今日だけは完全にオフの顔だ。ビールを傾けるペースもいつもより早く、珍しく肩の力が抜けている。

 

「だって、あの重バ場を2200mもフルパワーで泳ぎ切ったんですよ? 私のガソリンタンク、すっからかんです。それに、勝ったらここのロールかつを限界までご馳走してくれるって約束でしたし!」

「はいはい。食えるだけ食え。俺の財布が空になるまで付き合ってやるさ。……しかし、秋の女王様になっても、中身は不格好な四駆のままだな、お前は」

 

 伊関さんはフッと笑い、ビールの残りを飲み干した。

 平和だ。

 あの雨と泥の激闘が嘘のように、穏やかな時間が流れている。

 私はどんぶりを持ち上げ、ほかほかの白米を口いっぱいに頬張りながら、目の前の伊関さんに尋ねた。

 

「あの……伊関さん」

「ん?」

「伊関さんは、私が勝つって……あのバ場で、ノヴァヒストリーさんたちに勝てるって、最初から信じてくれてましたか?」

 

 少しだけ真面目なトーンになった私の問いに、伊関さんは空のジョッキをテーブルに置き、腕を組んだ。

 

「……データ上は、お前のエンジンが重バ場で最大の出力を発揮することは分かっていた。淀の坂の下りで、他の連中が恐怖でブレーキをかけることもな。……だが、ノヴァヒストリーのあの最後の末脚だけは、俺の想定をはるかに超えていた」

 

 伊関さんの脳裏に、あの瞬間の映像が蘇っているのだろう。彼の声が、少しだけ低く、熱を帯びた。

 

「上がり3ハロン『34秒3』。あの泥のバ場であんなタイムを叩き出すのは、物理法則を無視したんじゃないかと思うほどの天性のバネだ。ノヴァヒストリーが並びかけてきた瞬間、俺は一瞬だけ……抜かれた、と思った」

「伊関さんでも、ですか」

「ああ。だが……お前は抜かせなかった。泥を飲み込み、肺を焼き切りながら、自分の作ったアドバンテージを最後の最後まで守り抜いた。あれはもう、俺の指示でもデータの力でもない。……絶対に一番になるという、お前自身の凄まじい執念の勝利だ」

 

 伊関さんはテーブルに身を乗り出し、私の目を真っ直ぐに見据えた。

 

「才能がないと泣いていたお前が、自らの足で泥を掻き出し、世代の頂点に君臨する天才たちを力ずくでねじ伏せた。……堂々と胸を張れ、リバーライト。お前はもう、誰もが認める本物の女王だ」

 

 伊関さんの真っ直ぐな言葉に、私は照れくさくなって、もう一切れのロールかつを口の中に放り込み、視線を逸らした。

 

 女王。GⅠの勲章。

 それはきっと、華々しいウマ娘たちが掲げるような眩しいトロフィーなんかじゃなくって。

 重くて、泥だらけで、汗の匂いがする、私だけの不格好な勲章だ。

 でも、私はその泥だらけの勝利の証を、何よりも誇りに思う。

 

「……マキちゃん、見ててくれたかな」

「見ていただろうさ。テレビの向こうで、お前の泥臭い雄姿を見て、泣いて喜んでるんじゃないか。今頃お前を倒そうとトレーニングに励んでる頃だろうさ」

「ふふっ、だといいな。マキちゃんに私が一緒に走る相手だと思ってもらえるなら」

 

 私は豚汁をすすり、ほっと息をついた。

 ルクス先輩が退寮して、今は一人きりの部屋になってしまったけれど、ちっとも寂しくはない。

 クローゼットを開ければあのビリジアンの勝負服があるし、空を見上げれば同じ色を背負う妹がいる。そして目の前には、私を一番近くで信じ、支えてくれる伊関さんがいるのだから。

 

「さてと。女王杯は獲ったが、いつまでも余韻に浸っている暇はないぞ」

 

 伊関さんはメニュー表を手に取り、口元にニヤリと好戦的な笑みを浮かべた。

 

「お前のその異常なタフネスと重バ場適性は、先日のレースで完全に世間にバレた。これからは伏兵や挑戦者ではなく、常に警戒される標的として見られることになる。エリートたちも、二度と同じ轍は踏まないよう対策してくるだろう。……もっともっと、エンジンの出力を鍛え上げないとな」

「望むところです! どんな重い鎧を背負うことになっても、私のエンジンとスクリューで全部掻き開いてみせますから!」

「頼もしいことだ。……おやじ! 俺にビールのおかわり! あと、こいつにご飯大盛りもう一杯、追加だ!」

 

 伊関さんの高らかな声に、厨房から威勢のいい返事が返ってくる。

 私は新しく運ばれてきたどんぶりを両手で受け取り、熱々のロールかつへと再び力強く食らいついた。

 

 これから先、どんなレースが待っているかはまだ分からない。

 けれど、私のエンジンは絶好調だ。

 溢れ出す肉汁の味を噛み締めながら、泥だらけの新女王は、次なる戦いの気配を楽しみに待つように、静かに、そして力強く自身のスクリューを回し続けていた。

 




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