祭りでも、怪物でもなく   作:藤沢大典

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第32話:喧騒の学園と、年末への誘い

  エリザベス女王杯での劇的な勝利から、数週間が経過した。

 季節は11月の終わりから12月へと差し掛かり、トレセン学園を吹き抜ける風には、冬の到来を告げる刺すような冷たさが混じり始めていた。

 GⅠという最高峰のレースを制し、女王の称号を手にしたことで、私、リバーライトを取り巻く環境は、文字通り劇的に変化した。

 最も顕著だったのは、学園内を歩いている時の周囲の目だ。

 

「……あ、ほら。リバーライト先輩だよ」

「すごい脚の筋肉……。あのノヴァヒストリーをねじ伏せた『泥濘(ぬかるみ)の装甲車』……」

「聞いた? 普段から底なし沼を泳いで特訓してるらしいよ」

「えっ、沼!? だからあんな重戦車みたいな走りが……」

 

 廊下を歩けば、すれ違う後輩たちや同級生たちが、サッと道を譲りながらヒソヒソと噂話に花を咲かせる。

 以前の私は、ただの『パロールのお姉さん』であり、良くも悪くも目立たない、風景の一部のようなウマ娘だった。けれど今は、誰もが私を見る目に確かな畏怖と敬意を込めている。

 食堂でいつものように普通にご飯を食べている時でさえ、きんぴらごぼうに箸をつけただけで『ああやって大地のエネルギーを蓄えているのね、流石だわ……』と、なぜか感心と尊敬の眼差しで見つめられる始末だ。

 

(……なんだか、すごくやりにくい)

 

 私は、周囲からの視線から逃れるようにジャージの襟を立て、足早に廊下を歩いた。

 みんなが私を認めてくれたことは、もちろん嬉しい。けれど、私は別に沼に住む妖怪ではないし、性格が傲慢になるわけでもない。中身は相変わらず、自信がなくて伊関トレーナーに怒られてばかりの、不器用な四駆のままだ。

 女王という肩書きは、私が思っていた以上に、重くて息苦しいものらしい。

 そんな窮屈な思いをしているのは、私だけではなかった。

 放課後、いつものようにトレーナー室のドアを開けると、そこには受話器を握りしめ、眉間に深いシワを刻んだ伊関さんの姿があった。

 

「……だから! バラエティ番組の泥んこ障害物競走のオファーなど受けるわけがないだろう! うちの担当は芸人でもタレントでもない、アスリートだ! ……ああ、二度とかけてくるな!」

 

 ガチャン! と、伊関さんは受話器を乱暴に叩きつけるように置いた。

 しかし、息をつく間もなく、すぐにまたけたたましい着信音が部屋に鳴り響く。

 

「……はい、伊関です。……ああ、週刊ウマ娘さん。ええ、表紙と巻頭グラビアの件ですが……お断りします。彼女は今、次のレースに向けてエンジンを調整している最中です。チャラチャラと着飾ってカメラの前で笑う暇などありません。……ええ、失礼します」

 

 ガチャン。

 再び電話を切り、伊関さんは深々と、今日何度目か分からないため息をついた。

 

「……お疲れ様です、伊関さん。温かいお茶、淹れますね」

 

「ああ、頼む。……まったく、どいつもこいつも『泥濘の重戦車』だの『異端の女王』だの、面白おかしく騒ぎ立てやがって」

 

 私が淹れたお茶を受け取り、伊関さんは忌々しそうに舌打ちをした。

 エリザベス女王杯での私の特異な走りは、良くも悪くもメディアの格好の的になっていた。スポーツ誌はもちろん、一般の週刊誌やテレビ番組まで、あの手この手で私を取材しようと押し寄せてきているのだ。

 

「すみません、なんだか私のせいで、伊関さんにばかり迷惑を……」

「気にするな。周りの雑音をシャットアウトして、お前が走ることだけに集中できる環境を作るのも俺の仕事だ。……お前が勝ったからこその喧騒だ、女王の陣営としては名誉なことだよ」

 

 伊関さんは少しだけ表情を和らげ、お茶をすすった。

 

「メディアに愛想を振りまくのは、空を飛ぶエリートたちの仕事だ。お前はただ、黙々とエンジンを磨き、次の戦いに備えていればいい」

「はいっ!」

 

 その言葉に、私は深く頷いた。

 伊関さんがこうして厚い壁となって守ってくれているから、私は浮き足立つことなく、毎日のトレーニングに打ち込むことができているのだ。

 

 それからさらに数日が経った、ある日のこと。

 冷たい木枯らしが吹き荒れる中、午後の授業を終えた私は、いつものようにトレーナー室へと向かっていた。

 吐く息は真っ白に染まり、ジャージのポケットに突っ込んだ手がひどく冷たい。

 

(今日もまた、伊関さん電話で怒ってるかなぁ。……スポーツドリンクより、温かいココアでも買って持っていこうかな)

 

 そんなことを考え道すがらココアを二缶買い、私は部室のドアノブに手をかけた。

 ドアの向こうからは、今日もやはり、伊関さんが電話で話している声が聞こえてくる。

 

「――ええ、間違いありません」

 

 しかし、その声のトーンは、いつもの取材を断る時のうんざりした苛立ちとは全く違っていた。

 静かで、重々しく、そしてどこか研ぎ澄まされたような、極度の緊張感を孕んだ声。

 私は、ドアノブを回しかけた手を止め、思わず息を殺してその声に耳を傾けた。

 

「……本人の体調は万全です。過酷なレースの後でしたが、エンジンの出力はむしろ以前より上がっています。……ええ。ファンの方々の期待に応える準備は、完全にできています」

 

 ファンの方々の、期待。

 その言葉に、私の心臓がトクリと小さく跳ねた。

 

「……承知いたしました。正式に、出走の登録を進めてください。……はい、よろしくお願いいたします」

 

 静かに受話器が置かれる音がした。

 私は深呼吸を一つして、ゆっくりとドアを開けた。

 

「失礼します。伊関さん、今、授業が終わりました」

 

 部屋に入ると、伊関さんはデスクの前に立ち、窓の外の冬空をじっと見つめていた。

 私が声をかけると、彼はゆっくりとこちらを振り返った。その瞳の奥には、エリザベス女王杯のパドックの時と同じ、獰猛な勝負師としての光が静かに燃え上がっているのが見えた。

 

「来たか、リバーライト」

「はい。……あの、今の電話って」

 

 私が尋ねると、伊関さんはデスクの上に置かれた一枚の書類――URAからのファックス用紙を手に取り、それを私の方へと向けた。

 

「次のレースが決まったぞ」

 

 伊関さんの、低く、力強い声が部屋に響く。

 

「……有馬だ」

 

 ありま。

 私は、その言葉を聞いて、瞬きを一つした。

 そして、ココアを持ったままの姿勢で、完全に硬直した。

 

「……ありま?」

 

 私の口から、気の抜けたようなオウム返しの言葉が漏れる。

 

「ああ。有馬記念でのお前の出走が決まった」

 

 ありま。有馬。有馬記念

 一年の総決算。

 エリートも、ベテランも、シニアもクラシック世代も関係ない。ファン投票によって選ばれた、真のオールスターだけが出走を許される、年末の中山の特大グランプリ。

 私が? あの、有馬記念に?

 華やかな翼を持たない、泥を掻き分けて泳ぐことしか出来ない私が。

 ファンのみんなが、私に票を入れてくれた、ということ?

 

 カチ、カチ、カチ。

 壁掛け時計の秒針が、静かな部屋に数回響く。

 私の脳内では、伊関さんの口にした『ありま』という三文字が、途方もない時間をかけてぐるぐると回り、そしてようやく、一つの巨大な現実としてストンと胃の腑に落ちた。

 

「……えええええええええええええええっ!?」

 

 トレーナー室に、私の絶叫が木霊した。

 持っていた温かいココアの缶を落としそうになりながら、私は目を皿のようにして伊関さんに詰め寄った。

 

「あ、有馬!? グランプリですか!? 嘘ですよね!? 私なんかが、あんなすごい人たちばっかりの夢の舞台に……!?」

「私なんかと言うなと言っただろうが。お前はもう立派な女王だ」

 

 パニックに陥る私を、伊関さんは鋭い声でピシャリと制した。

 

「ファン投票の結果と、陣営の推薦が正式に合致した。世間の連中は、お前のあの泥臭いエンジンが、中山の2500mというタフな舞台で、並み居る強豪たちにどこまで通用するのかを見たいと願ったんだ」

「ふぁ、ファンのみんなが……」

「そうだ。これはお前が自らの足で泥を掻き出し、勝ち取った切符だ。……年末の特大グランプリ、腹を括れ」

 

 伊関さんの言葉が、重く、けれど確かな熱を持って私の胸に突き刺さる。

 

 有馬記念。中山レース場、芝2500m。

 オールカマーで経験した、あの心臓破りの急坂が待ち構える、力と力がぶつかり合う舞台。

 恐怖とプレッシャーで、足がガクガクと震えそうになる。

 けれど、それ以上に。

 選ばれたという事実が、私の心の奥底にあるエンジンに、カチリと強烈な点火の火花を散らした。

 

「……」

 

 私は、震える手をギュッと握りしめ、深く息を吸い込んだ。

 

「……やります。選んでもらったなら、絶対に無様な姿は見せられません」

「その意気だ。……だが、相手はこの国の頂点に立つ化物ばかりだ。エリザベス女王杯以上の、本当の死闘になるぞ」

「はいっ! 中山の坂ごと、全部泳ぎ切ってみせます!」

 

 冬の冷たい空気を震わせるように、私は力強く宣言した。

 女王の冠を手にした不屈の装甲車の、次なる標的。

 泥だらけの航跡は、一年の総決算である雪降る年末のグランプリへ向けて、ついにその重厚な針路を定めたのだった。

 




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