12月に入り、トレセン学園を包む空気は本格的な冬の冷気を帯び始めた。
早朝のトレーニングコースには白い霜が降り、ウマ娘たちが吐き出す息は、まるで蒸気機関車のように真っ白く、力強く宙に舞う。
有馬記念。
その四文字が持つ重圧は、学園内のいたるところで肌を刺すような緊張感として漂っていた。掲示板に張り出された出走予定メンバーのリスト。そこに並ぶ名前は、まさにこの国のウマ娘界の頂点に君臨する『怪物』たちのカタログだった。
「……やっぱり、とんでもないメンバーですね
」
私は部室で、伊関トレーナーが広げた最新の出走リストを食い入るように見つめていた。
まず目に飛び込んでくるのは、現役最強の呼び声も高い予測不能の破天荒ウマ娘、ゴールドシップ。気分一つで繰り出す物理法則を無視したような異次元のワープ走法は、私のような計算ずくのエンジン使いにとっては最大の脅威だ。
さらに、今年の宝塚記念や天皇賞・秋を含む中距離重賞を総なめにしてきた超実力派のブラーヴォデイ。
菊花賞を制し、底知れぬスタミナと真っ直ぐな闘志を燃やす若きエース、キタサンブラック。
エリザベス女王杯でもノヴァヒストリーさんに続いて猛烈な追い上げを見せていた、類まれなる素質で同世代を牽引してきた天才少女、カーマインバック。
今年のレースを全て無敗というとんでもない成績で突き進んでいるオールハイユウ。
そして、どんな強敵相手でも確実に背後に忍び寄る不気味な曲者、サウンズオブアース。
けれど、名だたる強豪たちがひしめく中に、私の心臓を最も激しく揺さぶる名前がそこにあった。
『パロール』。
私の、たった一人の妹。
彼女もまた、ファン投票によってこの年末のグランプリに選ばれたのだ。
「……マキちゃんと、同じレースで走る。しかも、有馬で」
指先がわずかに震えた。
それは恐怖ではない。何年も、何年も待ち続けていた『その時』がついに来たのだという、言葉にできないほど熱い歓喜の震えだった。
「圧倒的な才能の塊だ。今のパロールの完成度は、秋の頃よりもさらに上がっている」
伊関さんは腕を組み、厳しい目線でリストを睨んでいた。
「お前は
「分かってます。……だから、もっと回します。泥がなくても、空気が泥に変わるくらい、私の脚を重厚に回し続けるだけです」
私はリストを握りしめ、そのままトレーニングコースへと飛び出した。
それからの数日間、私の生活は、限界という言葉すら生温く感じるほどの特訓に塗りつぶされた。
早朝から深夜まで、中山の急坂を想定した坂路コースを、何度も、何度も、倒れ込むまで駆け上がる。
冬の乾いた風が喉を焼き、冷たい空気が肺を突き刺す。
良バ場でも負けないための、新たな泳ぎ方。
泥の抵抗がないのなら、自分自身の筋肉にかかる重力を抵抗に変えて、無理やり推進力を生み出す。
学園に入りたての頃の私は、少しでも脚が重くなれば『無理ぃー』と嘆いていた。けれど今の私は、脚に鉄の枷をはめられたようなその重みが、心地よくてたまらなかった。
「……回れ。もっと、深く、もっと強く回れ、私のエンジン……!」
意識が遠のくほどの負荷。
全身の細胞が『止まれ』と悲鳴を上げている。
けれど、クローゼットで出番を待つあのビリジアンの勝負服を思い出すたびに、私のエンジンには再び強烈な火花が散るのだ。
「そこまでだ、リバーライト!」
伊関さんの鋭い声と共に、計測が終了した。
私はコースの終点で膝をつき、激しく肩で息をしながら、コンクリートの地面にポタポタと汗を滴らせた。
「……タイムは?」
「……自己ベストをさらにコンマ二秒縮めた。冬の刺すような冷たい空気の中でも、お前のスクリューは一切の出力を落としていない」
伊関さんはタブレットを操作しながら、満足げに鼻を鳴らした。
「だが、まだ足りない。パロールのあの『跳躍』を捉えるには、更にギアの回転数を上げる必要がある。……立てるか?」
「当たり前です……。あと三本、お願いします」
私がふらつく足取りで立ち上がろうとした、その時だった。
「……随分と無茶なトレーニングしてるんだな。姉貴」
凛とした、けれどどこか懐かしく、温かい声がコースの入り口から響いた。
私はハッとして顔を上げた。
そこに立っていたのは、冬用のトレーニングウェアを身に纏っているパロール――マキちゃんだった。
彼女の後ろには、彼女を支える専属のトレーナーチームが控えている。
学園で会うことはあっても、こうしてトレーニングの最中に彼女の方から近づいてくることは、最近はほとんどなかった。
「……マキちゃん。どうしたの? 自分の練習は……」
「今終わったところ。……姉貴の走る音が、遠くのコースまで聞こえた。何となく、気になったから」
マキちゃんはゆっくりと歩み寄り、私の目の前で足を止めた。
その瞳には、かつて私と一緒に過ごしていた時の甘えん坊な妹の面影はなかった。
そこにあるのは、数々の修羅場を潜り抜け、頂点の景色を知る者だけが持つ、鋭く研ぎ澄まされた勝負師の光。
「エリザベス女王杯、かっこよかったよ。……泥だらけになって、ノヴァヒストリーをねじ伏せた姉貴を見て、アタシ、心の底から震えた」
マキちゃんは、自分の胸元にそっと手を当てた。
「でもな、姉貴。……有馬記念は、アタシのレースだ。この一年、アタシがどれだけの重圧に耐えて、どれだけ高い空を飛んできたか、姉貴に教えてやる」
マキちゃんの纏う空気が、一瞬で変わった。
周囲の冬の冷気が、彼女の放つ凄まじいオーラによって弾き飛ばされるような錯覚を覚える。
「姉貴が全てを蹴散らした泥濘の女王なら、私はその上から、光さえ届かない場所まで姉貴を突き放す。……家族だからって、手加減なんて絶対にしない。アタシのどこまでも高く飛べる『翼』で、姉貴の走りを振り切ってみせる」
宣戦布告。
それは、妹から姉へ贈られた、最大級の敬意と決別の言葉だった。
私は、荒い呼吸を整え、ゆっくりと腰を伸ばした。
全身の痛みも、疲労も、彼女の言葉一つでどこかへ吹き飛んでしまった。
「……いいよ。望むところ。っていうか、そう言ってくれるのをずっと待ってた」
私は、ビリジアンの誇りを胸に、マキちゃんの真っ直ぐな瞳を真正面から見つめ返した。
「マキちゃん。私はもう、昔の弱いだけの私じゃない。……あなたがどれだけ高い空を飛ぼうとしても、私が必ずその背中に追いついて、泥だらけのエンジンで追い抜いてみせる」
私は、獰猛な笑みを浮かべて見せた。
「中山の2500m。……誰が一番強いか、世界中に教えてあげよう。……覚悟しなさい、マキちゃん」
「……そっちこそ覚悟しておいて。……じゃあ、グランプリのターフで。姉貴」
マキちゃんは一度だけ、ふっと少女のような笑顔を見せると、潔く背を向けて歩き去っていった。
静寂が戻った坂路コース。
私は、自分の胸の鼓動が、これまでのどんなハードワークよりも激しく鳴り響いているのを感じていた。
「……聞いたか、リバーライト。あいつ、本気だぞ。お前のことを、一人の好敵手として認めたんだ」
伊関さんが、腕を組みながら隣に立った。
「ええ。……最高ですね。……伊関さん、あと五本。いや、十本いけます。……もっと私を、重くしてください!」
私は、かつてないほどの熱量を持って、再び坂路のスタート地点へと向かった。
冬の曇り空。けれど、私の視界には、年末の中山で激突する緑の火花が、鮮烈に、そして残酷なほど美しく描かれていた。
装甲車と一番星。
姉妹の絆を燃料に変えて、泥だらけの航跡は、一年の総決算へと向けて、爆発的な加速を始めていた。
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