祭りでも、怪物でもなく   作:藤沢大典

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第35話:冬の残光と、堕ちる一番星

『――今、揃ったきれいなスタートを見せました』

 

 16人のウマ娘たちが、中山の急坂を逆行するようにゲートから弾け出した。

 10万人を超える観衆が放つ怒涛の地鳴りが、冬の冷たく乾いた空気を震わせる。ゲートが開いた瞬間の衝撃音、そして一斉に芝を叩く蹄音。そのすべてが混ざり合い、私の脳内にあるエンジンの点火スイッチを強引に押し込んだ。

 私の引き当てた枠は、『8枠16番』。

 それは、中山の2500mという特殊なコースにおいて、関係者から『死に枠』と呼ばれるほどの絶対的不利を強いられる『大外枠』。対するマキちゃんは『6枠12番』。決して内側の好枠とは言えないが、外から押し込まれるリスクもある、難しい中ほどからのスタートとなった。

 ゲートが開き、私は一瞬、迷った。

 この枠から後方に待機して、スタミナを温存するか。

 けれど、私のエンジンは、最初から最大トルクを叩き出すことを求めていた。

 

「……前へ、いくよ!!」

 

 私は、大外枠の絶望を力ずくでねじ伏せるように、スタートから強引にアクセルを踏み込んだ。

 ビリジアンの勝負服が風を切り、バ群の壁が構築される前に、私は外側から斜めにターフを切り裂いていく。パロールもまた、持ち前のセンスでスッと位置を上げ、先頭を行くキタサンブラックのすぐ後ろ、2番手の絶好位へと滑り込んだ。

 1周目のスタンド前。

 大外から一気に押し上げた私は、なんと3番手という驚異的なポジションで観衆の前に姿を現した。パロールのすぐ後ろ。姉妹で2番手、3番手を独占する。その光景に、スタンドは割れんばかりの歓声に包まれた。

 

 バ場状態は『良』。

 先頭が1000mを通過したタイムは、62秒4。

 有馬記念という大舞台を考えれば、極端なまでのスローペースだ。

 

(……軽い。けれど、この位置なら戦える!)

 

 私の足元から伝わってくるのは、綺麗に整備された、反発力の強い硬い芝の感触。

 泥の粘り気はない。けれど、このスローペースが生む『いつ誰が動くか分からない』という極限のプレッシャーが、私にとっての『泥』に変わる。

 私は、前を走るマキちゃんの若葉色の勝負服を目標に、自身のスクリューの回転を一定に保ち続けた。

 私は、一度もペースを落とさなかった。大外枠の距離ロスを前を走るためのアドバンテージに変え、ジリジリと前のキタサンブラックを追い詰めていく。

 パロールもまた、二番手で完璧なリズムを刻んでいる。

 

(……今日、私たちは、一緒に最高の空を飛ぶんだ!)

 

 そう、信じて疑わなかった。

 レースは2周目の向こう正面から、第3コーナーへと差し掛かる。

 運命の、後半戦。

 

『おおっと、ここで芦毛のシルエット、ゴールドシップが動き出す! ぐんぐん動く! ぐんぐん動いて一気に外から捲りを見せる!』

 

 後方に待機していたゴールドシップが、外側から嵐のように捲り上げてきた。

 一気に跳ね上がるペース。

 私はエンジンのギアをもう一段階上げ、先頭のキタサンブラックを捕らえにかかった。マキちゃんに並ぶ。先頭まであとわずか。

 その、熱狂の渦中で。

 私の隣を走っていた、一番星の輝きが――不自然に揺らぎ、そして消えた。

 

「……えっ?」

 

 パロールの背中が、突如としてガクンと沈み込んだのだ。

 ただのスタミナ切れではない。踏み込んだ彼女の左脚が、着地の瞬間にビクッと不自然に跳ね上がり、痛みに耐えかねたように全身のバランスが大きく崩れた。

 

(マキ、ちゃん……!?)

 

 極限まで張り詰めた有馬記念という戦場で、彼女の天性の跳躍を支えていた左脚の腱や靭帯が、硬い冬のターフの反発力に耐えきれず、悲鳴を上げてしまったのだ。

 エリートとして高く飛び続けるために、彼女がその細い脚に蓄積させていた見えないダメージ。それが、この最悪のタイミングで牙を剥いた。

 

 私は、彼女を追い抜く一瞬、その横顔を見た。

 苦痛に顔を歪め、それでも必死に、痛む左脚を庇いながら走ろうとする妹の姿。

 

「……姉貴……っ」

 

 掠れた、悔しさに満ちた声が聞こえた気がした。

 

『――パロール、苦しいか! パロールがバ群に飲み込まれていく!!』

 

 実況の声が、私の耳を(つんざ)いた。

 みるみるうちにスピードを失い、後続のウマ娘たちに置き去りにされていく若葉色の勝負服。

 

 助けたい。今すぐ脚を止めて、彼女を抱きしめてやりたい。

 けれど、私は今、有馬記念の2番手を走っている。

 ここで脚を止めるわけにはいかなかった。

 ここで止まれば、彼女との勝負に泥を塗ってしまう。いくら普段は泥を望んでいる私でも、その泥を被るわけにはいかなかった。

 

(……ごめん。ごめんね、マキちゃん!!)

 

 私は、血の滲むような思いで前を向いた。

 大外16番からスタートし、ずっと前を走り続けてきた、この脚の感覚だけを信じる。

 

「回れぇぇぇっ!! 私が、泳ぎ切るんだぁぁっ!!」

 

 中山の短い直線。

 私は、キタサンブラックを捉え、ついに先頭集団の一角として叩き合いに持ち込んだ。

 

『さぁ最後の直線に入った、先頭はキタサンブラック、キタサンブラック! 逃げるキタサンブラック、リバーライトが並んでくる!』

 

 芝の破片、冬の乾燥した風、ライバルたちの放つ威圧感。

 それらすべてを推進力に変え、私のスクリューは限界を超えて回り続ける。

 残り200m。中山の激坂。

 内からキタサンブラック、中からオールハイユウ、外からサウンズオブアース。

 そこに、ビリジアンの装甲車が、地の底から這い上がるような咆哮と共に襲いかかる。

 

『前の方ではキタサンブラック、リバーライト、そして7番オールハイユウ! キタサンブラック粘る!』

 

「届けぇぇぇっ!! まだ、まだ止まるなッ!!」

 

 視界が白く染まり、肺の奥が鉄の味で満たされる。

 大外枠から先行策という過酷な位置取りを続け、最後の一歩まで、私は脚を回し続けた。

 けれど。

 

『しかしここでオールハイユウ、オールハイユウだ! そしてサウンズオブアースも突っ込んでくる!』

 

 後ろから猛烈に追い上げてくる2人のウマ娘。私の最高出力以上の末脚を発揮する彼女たちは私を追い抜き、そして。

 

『オールハイユウが今一着でゴールイン! オールハイユウが夢の舞台を制しました! 2着はサウンズオブアース、3着キタサンブラック! リバーライトは、リバーライトは惜しくも4着!!』

 

 ズシャァッ、と。

 私が最後に掻き出した芝の飛沫は、先頭の三頭には、ほんのわずかに届かなかった。

 

「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……!!」

 

 ゴールを過ぎて、私は膝をつきそうになるのを必死にこらえながら、ゆっくりと歩みを止めた。

 1着、オールハイユウ。

 有馬記念の栄光は、かつてないほどに近く、そして残酷なほどに遠かった。

 4着。掲示板に、私の番号が点灯する。

 大外枠の不利、そして先行策という無謀に近い作戦で、私は最後まで頂点を争った。

 けれど、そんなことはどうでもよかった。

 私は、狂ったように後ろを振り返った。

 次々とゴールしてくるウマ娘たち。その最後に、ようやくその姿を見つけた。

 

「……マキ、ちゃん……!」

 

 16着。最下位。

 左脚を完全に引きずり、今にも崩れ落ちそうな足取りで歩いてくる若葉色の背中。

 その勝負服は泥一つついていないのに、今の彼女は誰よりも傷つき、ボロボロになっていた。

 私は、足をもつれさせながらも彼女の元へと駆け出した。

 

「姉、貴……っ。ごめ……負けちゃった……」

「喋らなくていい! 脚、痛いんでしょ! 大丈夫、大丈夫だから!」

 

 私は彼女の身体をしっかりと支え、その痛々しい左脚に体重がかからないように力強く抱き寄せた。

 10万人の歓声が、遠くで鳴り止まない。

 

 姉妹で挑んだ、初めての有馬記念。

 大外枠の壁に阻まれた姉と、故障に泣いた妹。

 残ったのは、冷たい冬の風と、拭いきれない敗北の悔しさだけだった。

 

「……マキちゃん、まずは医務室行くよ。今回は……残念だったけど、また一緒に走ろう。絶対に、約束だよ」

 

 私は、腕の中で痛みに震える妹に、自分にも言い聞かせるように囁いた。

 

 一番星が堕ち、装甲車が壁に突き当たった、年の暮れ。

 泥だらけの航跡は、敗北という名の深い澱を飲み込み、愛する妹の涙を燃料に変えて。

 来たるべき新たな年へ向けて、中山の冷たい風の中、静かに、けれど激しく、そのスクリューを再び回転させ始めた。

 




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