『――今、揃ったきれいなスタートを見せました』
16人のウマ娘たちが、中山の急坂を逆行するようにゲートから弾け出した。
10万人を超える観衆が放つ怒涛の地鳴りが、冬の冷たく乾いた空気を震わせる。ゲートが開いた瞬間の衝撃音、そして一斉に芝を叩く蹄音。そのすべてが混ざり合い、私の脳内にあるエンジンの点火スイッチを強引に押し込んだ。
私の引き当てた枠は、『8枠16番』。
それは、中山の2500mという特殊なコースにおいて、関係者から『死に枠』と呼ばれるほどの絶対的不利を強いられる『大外枠』。対するマキちゃんは『6枠12番』。決して内側の好枠とは言えないが、外から押し込まれるリスクもある、難しい中ほどからのスタートとなった。
ゲートが開き、私は一瞬、迷った。
この枠から後方に待機して、スタミナを温存するか。
けれど、私のエンジンは、最初から最大トルクを叩き出すことを求めていた。
「……前へ、いくよ!!」
私は、大外枠の絶望を力ずくでねじ伏せるように、スタートから強引にアクセルを踏み込んだ。
ビリジアンの勝負服が風を切り、バ群の壁が構築される前に、私は外側から斜めにターフを切り裂いていく。パロールもまた、持ち前のセンスでスッと位置を上げ、先頭を行くキタサンブラックのすぐ後ろ、2番手の絶好位へと滑り込んだ。
1周目のスタンド前。
大外から一気に押し上げた私は、なんと3番手という驚異的なポジションで観衆の前に姿を現した。パロールのすぐ後ろ。姉妹で2番手、3番手を独占する。その光景に、スタンドは割れんばかりの歓声に包まれた。
バ場状態は『良』。
先頭が1000mを通過したタイムは、62秒4。
有馬記念という大舞台を考えれば、極端なまでのスローペースだ。
(……軽い。けれど、この位置なら戦える!)
私の足元から伝わってくるのは、綺麗に整備された、反発力の強い硬い芝の感触。
泥の粘り気はない。けれど、このスローペースが生む『いつ誰が動くか分からない』という極限のプレッシャーが、私にとっての『泥』に変わる。
私は、前を走るマキちゃんの若葉色の勝負服を目標に、自身のスクリューの回転を一定に保ち続けた。
私は、一度もペースを落とさなかった。大外枠の距離ロスを前を走るためのアドバンテージに変え、ジリジリと前のキタサンブラックを追い詰めていく。
パロールもまた、二番手で完璧なリズムを刻んでいる。
(……今日、私たちは、一緒に最高の空を飛ぶんだ!)
そう、信じて疑わなかった。
レースは2周目の向こう正面から、第3コーナーへと差し掛かる。
運命の、後半戦。
『おおっと、ここで芦毛のシルエット、ゴールドシップが動き出す! ぐんぐん動く! ぐんぐん動いて一気に外から捲りを見せる!』
後方に待機していたゴールドシップが、外側から嵐のように捲り上げてきた。
一気に跳ね上がるペース。
私はエンジンのギアをもう一段階上げ、先頭のキタサンブラックを捕らえにかかった。マキちゃんに並ぶ。先頭まであとわずか。
その、熱狂の渦中で。
私の隣を走っていた、一番星の輝きが――不自然に揺らぎ、そして消えた。
「……えっ?」
パロールの背中が、突如としてガクンと沈み込んだのだ。
ただのスタミナ切れではない。踏み込んだ彼女の左脚が、着地の瞬間にビクッと不自然に跳ね上がり、痛みに耐えかねたように全身のバランスが大きく崩れた。
(マキ、ちゃん……!?)
極限まで張り詰めた有馬記念という戦場で、彼女の天性の跳躍を支えていた左脚の腱や靭帯が、硬い冬のターフの反発力に耐えきれず、悲鳴を上げてしまったのだ。
エリートとして高く飛び続けるために、彼女がその細い脚に蓄積させていた見えないダメージ。それが、この最悪のタイミングで牙を剥いた。
私は、彼女を追い抜く一瞬、その横顔を見た。
苦痛に顔を歪め、それでも必死に、痛む左脚を庇いながら走ろうとする妹の姿。
「……姉貴……っ」
掠れた、悔しさに満ちた声が聞こえた気がした。
『――パロール、苦しいか! パロールがバ群に飲み込まれていく!!』
実況の声が、私の耳を
みるみるうちにスピードを失い、後続のウマ娘たちに置き去りにされていく若葉色の勝負服。
助けたい。今すぐ脚を止めて、彼女を抱きしめてやりたい。
けれど、私は今、有馬記念の2番手を走っている。
ここで脚を止めるわけにはいかなかった。
ここで止まれば、彼女との勝負に泥を塗ってしまう。いくら普段は泥を望んでいる私でも、その泥を被るわけにはいかなかった。
(……ごめん。ごめんね、マキちゃん!!)
私は、血の滲むような思いで前を向いた。
大外16番からスタートし、ずっと前を走り続けてきた、この脚の感覚だけを信じる。
「回れぇぇぇっ!! 私が、泳ぎ切るんだぁぁっ!!」
中山の短い直線。
私は、キタサンブラックを捉え、ついに先頭集団の一角として叩き合いに持ち込んだ。
『さぁ最後の直線に入った、先頭はキタサンブラック、キタサンブラック! 逃げるキタサンブラック、リバーライトが並んでくる!』
芝の破片、冬の乾燥した風、ライバルたちの放つ威圧感。
それらすべてを推進力に変え、私のスクリューは限界を超えて回り続ける。
残り200m。中山の激坂。
内からキタサンブラック、中からオールハイユウ、外からサウンズオブアース。
そこに、ビリジアンの装甲車が、地の底から這い上がるような咆哮と共に襲いかかる。
『前の方ではキタサンブラック、リバーライト、そして7番オールハイユウ! キタサンブラック粘る!』
「届けぇぇぇっ!! まだ、まだ止まるなッ!!」
視界が白く染まり、肺の奥が鉄の味で満たされる。
大外枠から先行策という過酷な位置取りを続け、最後の一歩まで、私は脚を回し続けた。
けれど。
『しかしここでオールハイユウ、オールハイユウだ! そしてサウンズオブアースも突っ込んでくる!』
後ろから猛烈に追い上げてくる2人のウマ娘。私の最高出力以上の末脚を発揮する彼女たちは私を追い抜き、そして。
『オールハイユウが今一着でゴールイン! オールハイユウが夢の舞台を制しました! 2着はサウンズオブアース、3着キタサンブラック! リバーライトは、リバーライトは惜しくも4着!!』
ズシャァッ、と。
私が最後に掻き出した芝の飛沫は、先頭の三頭には、ほんのわずかに届かなかった。
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……!!」
ゴールを過ぎて、私は膝をつきそうになるのを必死にこらえながら、ゆっくりと歩みを止めた。
1着、オールハイユウ。
有馬記念の栄光は、かつてないほどに近く、そして残酷なほどに遠かった。
4着。掲示板に、私の番号が点灯する。
大外枠の不利、そして先行策という無謀に近い作戦で、私は最後まで頂点を争った。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
私は、狂ったように後ろを振り返った。
次々とゴールしてくるウマ娘たち。その最後に、ようやくその姿を見つけた。
「……マキ、ちゃん……!」
16着。最下位。
左脚を完全に引きずり、今にも崩れ落ちそうな足取りで歩いてくる若葉色の背中。
その勝負服は泥一つついていないのに、今の彼女は誰よりも傷つき、ボロボロになっていた。
私は、足をもつれさせながらも彼女の元へと駆け出した。
「姉、貴……っ。ごめ……負けちゃった……」
「喋らなくていい! 脚、痛いんでしょ! 大丈夫、大丈夫だから!」
私は彼女の身体をしっかりと支え、その痛々しい左脚に体重がかからないように力強く抱き寄せた。
10万人の歓声が、遠くで鳴り止まない。
姉妹で挑んだ、初めての有馬記念。
大外枠の壁に阻まれた姉と、故障に泣いた妹。
残ったのは、冷たい冬の風と、拭いきれない敗北の悔しさだけだった。
「……マキちゃん、まずは医務室行くよ。今回は……残念だったけど、また一緒に走ろう。絶対に、約束だよ」
私は、腕の中で痛みに震える妹に、自分にも言い聞かせるように囁いた。
一番星が堕ち、装甲車が壁に突き当たった、年の暮れ。
泥だらけの航跡は、敗北という名の深い澱を飲み込み、愛する妹の涙を燃料に変えて。
来たるべき新たな年へ向けて、中山の冷たい風の中、静かに、けれど激しく、そのスクリューを再び回転させ始めた。
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