祭りでも、怪物でもなく   作:藤沢大典

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第36話:静かなる胎動、夜の航跡

 中山レース場の医務室は、先ほどまでの10万人の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 白く無機質な壁に囲まれたその部屋には、微かに消毒液の匂いと、冷たい冬の空気が漂っている。つい数十分前まで、地鳴りのような歓声とターフの中にいたことが、どこか遠い夢の中の出来事のように感じられた。

 ベッドの横で、私は祈るように両手を組み、横たわるマキちゃんの姿をじっと見守っていた。

 彼女の患部には厳重に冷却用のパックが当てられている。苦痛に顔を歪めていたレース中とは違い、今は応急処置を終えて少し落ち着いた表情をしていたが、その瞳にはまだ、やり場のない悔しさと、将来への不安が色濃く滲んでいた。

 

「……先生、どうでしょうか」

 

 パロールのトレーナーさんが、震える声で担当医に尋ねた。

 私の隣では、伊関トレーナーが腕を組み、彫像のように動かず、険しい表情で診断を待っている。

 ウマ娘にとって、脚の故障は選手生命に直結する死活問題だ。特に、パロールが走っている最中に見せたあの沈み込み方は、最悪の病名――『繋靭帯炎(けいじんたいえん)』の可能性が、私たちの脳裏をよぎっていた。もし、靭帯を完全に傷めていれば、彼女の輝かしい一番星としての道は、ここで閉ざされてしまうかもしれないのだ。

 担当医は、レントゲン写真と彼女の左脚を交互に見つめ、沈黙を破ってゆっくりと口を開いた。

 

「……不幸中の幸い、というべきでしょう。繋靭帯そのものへの深刻なダメージは見られません。診断の結果は、左脚の『腱鞘炎(けんしょうえん)』です。極度の疲労と、中山の急坂での無理な踏み込み、そして冬の硬いバ場の衝撃が重なり、炎症が限界を超えてしまったのでしょう」

「……っ、そうですか。靭帯では、なかったんですね」

 

 パロールのトレーナーさんが、膝から崩れ落ちそうになりながら、天を仰いで深々と安堵の息を吐いた。

 私の胸の奥に詰まっていた巨大な氷の塊も、その言葉を聞いた瞬間に、ふわりと溶けて消えていった。

 

「よかった……。本当によかった、マキちゃん……!」

 

 私がベッドの手すりを握りしめると、マキちゃんは少しだけバツが悪そうに、けれど私を安心させるように小さく笑った。

 

「……心配かけてごめん、姉貴。こんな結果になっちまって、格好つかないね」

「何言ってるの……。最後まで走り切っただけで、マキちゃんは世界一立派だよ」

 

 腱鞘炎とて、決して楽な怪我ではない。これからの治療とリハビリには、数ヶ月単位の時間がかかるだろう。春のクラシック戦線への影響も無視できない。けれど、少なくとも、彼女の翼が永遠に失われたわけではないのだ。

 

「全治は数ヶ月、といったところでしょう。まずは徹底的な安静が第一です。……彼女のポテンシャルなら、しっかりと休養を取れば、また以前のような鮮やかな走りができるようになるでしょう」

 

 医師の言葉に、部屋の中にいた全員が、張り詰めていた肩の力を抜いた。

 伊関さんは一度だけ私の方を見て、小さく頷いた。その目には、『お前の妹は、まだ死んでいない。だからお前も止まるな』という、彼なりの冷徹で力強いエールが宿っていた。

 それから一時間ほどして、パロールはトレーナーさんと共に、学園が手配したタクシーで一足先に帰路に就くことになった。

 

「マキちゃん。絶対に、絶対に無理しちゃダメだよ。寮に着いたらちゃんと連絡して。分かった?」

 

 タクシーのドアが開く間際、私がしつこいほどに繰り返すと、マキちゃんは少しだけ呆れたように笑い、そして不意に、少女のような幼い表情に戻って私を見上げた。

 

「分かってるってば、姉貴。……今日の4着、見てたよ。大外からあんなに前に行っちゃうなんて。すぐ後ろを走られてるとき、ヒヤヒヤしてたんだぜ。……やっぱり姉貴は昔からここ一番って時は強いな」

「マキちゃん……」

「アタシ、絶対に治して戻ってくるから。だから……姉貴も、待ってて」

 

 タクシーの窓から、マキちゃんが小さく手を振った。

 その若葉色の後ろ姿が冬の夜の暗がりに消えていくのを見送りながら、私は自分の胸の奥が、再び激しく波立ち始めるのを感じていた。

 

「……さて。お前はまだ、仕事が残っているぞ、リバーライト」

 

 伊関さんが、冷たい夜気を吸い込みながら告げた。

 4着。有馬記念という最高峰の舞台で掲示板に名を刻んだ者には、勝利したウマ娘たちと共に『ウイニングライブ』のステージに立つ義務がある。

 

 マキちゃんの分まで。

 そして、届かなかった頂点の分まで。

 私は、ライブ用の衣装に身を包んで、眩い光が溢れるステージへと上がった。

 

 色とりどりのサイリウムが波のように揺れ、10万人の視線がステージへ注がれる。

 センターに立つのは、優勝したオールハイユウ。

 華やかなメロディと、弾けるようなダンス。私はその端のポジションで、笑顔を絶やさずに歌い、踊った。

 けれど、視界の端に映るオールハイユウの背中は、あまりにも遠く、そして圧倒的だった。彼女は泥に頼らずとも、中山の冬の芝を誰よりも速く駆け抜けた。その事実が、私のプライドを静かに、けれど深く抉っていた。

 

(……悔しい。あそこに、立ちたかった)

 

 光を浴びれば浴びるほど、自分の不甲斐なさが浮き彫りになっていく。

 大外16番から無謀な先行策で粘りきった走りは、ファンからは『最高の挑戦』と称賛されている。けれど、私の中にあるエンジンは、そんな『健闘賞』では納得してくれなかった。

 

 全ての行事を終え、中山レース場の駐車場は、夜の闇に静かに沈んでいた。

 伊関さんの車の助手席に座り、私は流れる夜景をぼんやりと眺めていた。

 車内には、微かに響くエンジン音と、タイヤがアスファルトを噛む音だけが漂っている。

 伊関さんはハンドルを握り、何も言わずに車を走らせていた。

 

「……リバーライト」

 

 都心へと続く高速道路に乗ったあたりで、伊関さんが静かに口を開いた。

 

「今日のレース、お前の走りに点数をつけるなら、何点だ」

 

 私は、窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。

 泥一つついていない、綺麗な深緑の勝負服。けれど、その奥にある魂は、泥を啜っていた時よりもずっと黒く、激しい執念に染まっている。

 

「……30点、です」

「厳しいな」

「大外枠は関係ありません。……マキちゃんが沈んでいくのを見た時、私、一瞬だけ日和ったんです。脚を止めてやりたいって、そんな甘いことを考えてしまった。……勝負師として、最低です」

 

 私は、膝の上で拳を強く握りしめた。

 

「それに、最後。オールハイユウとサウンズオブアースに抜かれた瞬間、私は怯んでエンジンの出力を緩めてしまいました。最後の最後まで燃やし尽くせなかったんです。もし、あそこでもっとエンジンを焼いていたら……3着には、届いていたはずなのに」

「……そうか」

 

 伊関さんは、アクセルを少しだけ踏み込んだ。

 

「俺の採点は、80点だ。あの条件で、オールハイユウやキタサンブラックらを相手に、あそこまで先頭で叩き合ったウマ娘は他にいない。……お前は今日、間違いなく世界のトップレベルに片足を突っ込んだ。それは誇っていい」

 

 伊関さんは一度、チラリと私の方を見た。

 

「だが、お前がその30点という自己評価を変えない限り……お前のエンジンは、まだまだ巨大になれる。……リバーライト。お前にとっての『泥濘(ぬかるみ)』は、もはやバ場状態のことだけじゃない」

 

 その言葉に、私はハッとして顔を上げた。

 

「負けた屈辱。届かなかった悔しさ。妹の痛み。……それらすべてを心の奥底に溜め込み、自分だけの『泥』を作り上げろ。その底なしの闇の中でも、お前のスクリューが止まらずに回り続けるようになった時……お前は、晴天の良バ場ですら、すべてのライバルを泥の底へ沈める本当の女王になれる」

 

 伊関さんの言葉が、ガソリンのように私の胸に注ぎ込まれる。

 そうだ。バ場がどうかなんて、もう関係ない。

 私の心の中にある、このドロドロとした、執念とも怨念ともつかない熱い感情。

 それこそが、私が泳ぐべき、世界で一番深い戦場なのだ。

 

「……マキちゃんが休んでいる間、私は、もっと深いところまで潜ります」

 

 私は、夜の闇を切り裂く車のヘッドライトを見つめながら、静かに、けれど激しく決意した。

 

「マキちゃんが戻ってきた時、彼女がもう一度安心して空を見上げられるように、私がこの世界の厳しい道を全部掻き開いておきたいです。あの子が再び羽ばたくその日まで、私がどんな重圧も引き受けて、力強く走り続けて待っています」

 

 一番星が羽を休めた冬の夜。

 ビリジアンの装甲車は、敗北という名の重い燃料を、自らの魂に深く注ぎ込んだ。

 

 今年がもう終わろうとしている。

 けれど私の進む道はここで終わらない。ここから更に力強く、そして誰も到達できないほど誇り高き泥だらけの航跡となって続いていく。

 

 胸の奥で、静かなるエンジンの鼓動が、再び力強く鳴り響き始めた。

 来年。どんな過酷な道が待ち受けていようとも、私はこの泥だらけのスクリューで、誰よりも真っ直ぐに泳ぎ切ってみせる。

 




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