祭りでも、怪物でもなく   作:藤沢大典

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第37話:一番星と、ふたりぼっちの冬休み

 年が明け、トレセン学園の学生寮はひっそりとした静寂に包まれていた。

 冬休みの帰省期間ということもあり、多くの生徒たちは実家へと戻っている。窓の外では、音もなく細かな雪が舞い降り、見慣れた学園の風景を白く冷たいベールで覆い隠そうとしていた。

 暖房の効いた薄暗い自室で私は一人、ベッドの上に胡座をかいて自身の脚の筋肉を念入りにマッサージしていた。

 有馬記念での激闘から数日。

 大外枠からの無謀な先行策で粘り通した私のエンジンは、休養を挟んだことで、以前よりもさらに太く、重厚なトルクを蓄え始めている。

 指先で太ももを押し込むと、鋼のように硬い筋肉が静かに、けれど獰猛な反発力を返してくる。

 

「うん、悪くない」

 

 私は小さく呟き、視線を部屋の反対側へと向けた。

 そこには、ルクス先輩が退寮してからずっと空いていて主のいない、綺麗に整えられたままのもう一つのベッドがある。

 誰もいない空間。有馬記念の熱狂が嘘のように、今の私を取り巻く時間はゆっくりと、ただ静かに過ぎていた。

 

 ――コンコンッ。

 

 不意に、控えめなノックの音が部屋に響いた。

 こんな年始の静かな時期に、一体誰だろう。伊関さんなら、ドアを叩く前に大声で私の名前を呼ぶはずだ。

 

「はーい、今開けます」

 

 私はベッドから降り、ジャージの裾を整えながらドアノブを回した。

 

「よっ。……邪魔するよ、姉貴」

 

 ドアの向こうに立っていた姿を見て、私は思わず息を呑み、目を見開いた。

 そこにいたのは、厚手のダウンコートを着込み、大きなボストンバッグを足元に置いたマキちゃんだった。

 彼女の左脚には、痛々しい医療用のサポーターとギプスが巻かれており、その身体を支えるように一本の松葉杖が握られている。

 

「マキちゃん!? どうしてここに。実家に帰省したんじゃなかったの? それに、その荷物は」

「うん。実家に帰ろうと思ったんだけど、この脚じゃ長時間の移動もキツいって止められちゃってさ。学園に残って、近所の医療センターでリハビリに専念することになったんだ」

 

 マキちゃんは、松葉杖をつきながら少しだけバツが悪そうに視線を逸らした。

 

「でさ。私の部屋のルームメイトの子、昨年末のレースを最後に引退して、学園を退学しちゃったんだ。だから、ずっと一人になっちゃって」

「引退」

 

 トレセン学園は、夢を追う場所であると同時に、残酷な結果を突きつけられる場所でもある。怪我や成績不振で、静かにターフを去っていくウマ娘は決して少なくない。

 

「そうしたら寮長がさ。『これも何かの縁だ。お前の姉もずっとベッドが一つ空いてるんだから、これからは姉妹水入らずでずっと同室にしな!』って、勝手に荷物まとめられちゃって」

「ずっと同室?」

「迷惑、だった? 姉貴も、有馬の疲れを取らなきゃいけない時期なのに。私なんかと同室になったら、気が休まらないよね」

 

 強気なエリートの顔を作ってそう言いながらも、その声はどこか不安げに震えている。

 左脚の故障。ルームメイトとの別れ。

 空を飛んでいた一番星は、今、松葉杖がなければまともに歩くことすらできず、たった一人で深い孤独の中に突き落とされていたのだ。

 

「迷惑なわけないでしょ! ほら、外は寒いんだから早く入って!」

 

 私は慌てて彼女のボストンバッグや荷物を抱え上げ、マキちゃんの手を引いて部屋の中へと招き入れた。

 それからの一時間は、あっという間だった。

 私はルクス先輩が使っていたベッドに新しいシーツを敷き、マキちゃんの荷物を手際よくクローゼットや棚へと片付けていった。

 一時的なお泊まりではない。これからはずっと、彼女とこの部屋で暮らすのだ。そう思うと、片付けをする私の手も自然と弾んだ。

 マキちゃんは『自分でやるからいいよ』と意地を張っていたが、松葉杖をついた状態ではまともに動くこともできず、最終的には大人しくベッドの上に座って私の作業を眺めていた。

 

「よし、こんなもんかな! 乾燥するから加湿器もこっちに向けておくね。あ、お腹空いてない? 食堂のオバちゃんに頼んで、温かいシチューをもらってこようか」

 

 私が甲斐甲斐しく動き回っていると、ベッドの上のマキちゃんが、クスッと小さく吹き出した。

 

「ふふっ。姉貴、なんだか本当にお母さんみたい」

「むっ。お母さんじゃなくて、お姉ちゃんでしょ」

「はいはい。頼りにしてるよ、お姉ちゃん」

 

 マキちゃんは、少しだけ肩の力を抜き、柔らかい表情で笑った。

 彼女が私の部屋のベッドに座っている。

 その光景が、なんだかとても不思議で、そして無性に嬉しかった。

 私たちは同じ色を背負う姉妹だけれど、トレセン学園に入学してからは、天才と落ちこぼれという立場の違いから、こうして同じ部屋でゆっくりと過ごすことなんて一度もなかったのだ。

 私は食堂へ走り、二人分の熱々のクリームシチューとパンをもらってきた。

 小さなテーブルに向かい合って座り、窓の外の雪を眺めながら、ゆっくりと食事を取る。

 

「美味しい。食堂のシチュー、食べるの久しぶりかも」

「マキちゃんは専属の栄養士さんがついてるから、いつもは特別メニューだもんね。でも、たまにはこういうのもいいでしょ?」

「うん。なんだか、すごく温かい」

 

 マキちゃんは、シチューを一口すするたびに、ホッとしたように息を吐いた。

 やがて食事が終わり、就寝の時間が近づいてきた。

 私はマキちゃんの左脚のギプスがベッドの柵に当たらないようクッションで保護し、部屋の明かりを落とした。

 オレンジ色の小さな常夜灯だけが、部屋を薄暗く照らしている。

 外からは、しんしんと雪が降り積もる音だけが聞こえていた。

 

「ねえ、お姉ちゃん」

 

 静寂の中、マキちゃんがベッドの中から、ぽつりと声をかけてきた。

 誰もいない、暗闇の部屋。

 彼女の口から出たのは、張りのある『姉貴』という呼び方ではなく、震えるような幼い『お姉ちゃん』という言葉だった。

 

「起きてるよ。どうしたの?」

「私、また走れるようになるかな」

 

 その声には、隠しきれない恐怖が滲んでいた。

 

「お医者さんは数ヶ月で治るって言ってくれたし、引退したルームメイトの子も『私の分まで飛んでね』って笑ってくれたけど。でも、怖いんだ。あの時、中山の坂で左脚からピキッて音がして、今まで普通にできていた『飛ぶ』感覚が、全部真っ白になっちゃって。もし、この脚が治っても、もう二度とあんな風に飛べなかったらって思ったら、夜も眠れなくて……っ」

 

 シーツが擦れる音がして、マキちゃんが小さくしゃくり上げる声が聞こえた。

 

 天才。エリート。世代の頂点。

 そんな重い鎧をたった一人で着せられていた彼女は、その鎧ごと空から墜落し、引退という仲間の現実を突きつけられ、今、暗闇の中で恐怖に震えているのだ。

 私は、自分のベッドから静かに起き上がり、マキちゃんのベッドの傍らへと腰を下ろした。

 そして、シーツを握りしめて震えている彼女の小さな頭を優しく撫でた。

 

「大丈夫だよ、マキちゃん」

「お姉、ちゃん」

「マキちゃんは一番星でしょ? 空を飛ぶために生まれてきたウマ娘なんだから、こんな怪我くらいで墜落なんてさせない。絶対に、また飛べるようになる。ここには私がずっといるんだから、不安な時はいつでも一緒にいてあげる」

 

 私は、彼女の頭を撫でながら、自分自身に誓いを立てるように、低く、力強い声で言った。

 

「マキちゃんが治るまでの間、私が全部やっておくから」

「全部?」

「うん。マキちゃんが飛ぶはずだった空を、私が全部代わりに走っておく。強敵たちが立ち塞がる険しい道も、私が泥まみれになって片っ端から掻き開いておくから」

 

 私は、真っ暗な部屋の中で、力強く笑ってみせた。

 

「だから、今は安心して休んでなさい。お姉ちゃんのエンジンで、マキちゃんがもう一度飛ぶための滑走路、ピカピカに整備しといてあげるからさ」

 

 私の言葉を聞いて、マキちゃんは布団の中から私の手をギュッと握り返してきた。

 

「……ははっ、姉貴が整備した道とか、泥まみれで飛びづらそうだ」

「あ、言ったなマキちゃん」

 

 マキちゃんの目から、大粒の涙が溢れ出し、シーツに吸い込まれていった。

 私は、彼女が泣き疲れて眠りに落ちるまで、その手をずっと握り続けていた。

 外の雪は、まだ降り続いている。

 マキちゃんの穏やかな寝息を聞きながら、私は暗闇の中で自身の太ももに手を当てた。

 

(回れ。私の、エンジン)

 

 愛する妹が、再びあの鮮やかな若葉色の勝負服で空を舞う、その日まで。

 私は、誰よりも力強く、どんな悪路でもこのエンジンを燃やし続ける。

 二つの緑色が同室となった冬の夜。

 ビリジアンの装甲車は、一番星を守るための最強の盾にして道を拓く轍となるべく、静かに、そして確かな覚悟と共に、新たな年への航海を始めていた。

 




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