ぐつぐつ、ことこと。
部室のど真ん中に鎮座したカセットコンロの上で、大きな土鍋が食欲をそそる音を立てている。
湧き上がる白い湯気からは、カツオと昆布の合わせ出汁に鶏肉の旨味と野菜の甘みが溶け込んだ、最高に優しくて暴力的な香りが漂っていた。
「はふっ、はむっ、……ん〜〜〜っ! 染みるぅぅっ!!」
私は、お椀によそった熱々の鶏モモ肉と、くたくたに煮込まれた白菜を口いっぱいに頬張り、至福の吐息を漏らした。
外は、まだ厳しい冷え込みが続く2月の終わり。
そんな日に、冷え切った身体を部室のこたつに潜り込ませ、伊関トレーナーと一緒に熱々の鍋をつつく。これはもう、過酷なトレーニングを乗り越えたウマ娘だけに許された、合法的な麻薬と言っても過言ではない。
「……お前なぁ。いくらオフの日とはいえ、さっきから肉と白菜が消えるスピードが異常だぞ。まるでダイソンじゃないか。俺の分の鶏肉、まだ残ってるだろうな」
向かいの席でこたつに入り、冷えた缶ビールを傾けていた伊関さんが、ジロリと私を睨んだ。
「大丈夫ですよ、ちゃんと伊関さんの分も残してありますって! あ、お豆腐食べます? ちょうどいい感じに味が染みてますよ」
「ああ、もらう。……しっかし、有馬記念が終わってから二ヶ月経つってのに、お前のその無尽蔵の胃袋は全く衰えを知らないな」
伊関さんは呆れたようにため息をつきながら、私から豆腐を受け取った。
「パロールの調子はどうだ。あいつ、しっかりリハビリできてるか?」
「はい! 毎日医療センターに通って、地道に左脚のケアを続けてます。最初はやっぱりすごく落ち込んでたんですけど、最近は『姉貴がいびきうるさくて眠れない』とか文句を言えるくらいには元気になってきました!」
私は、寮の部屋で一緒に暮らしている妹の様子を思い出し、ふふっと笑った。
保健医の先生にも看てもらっているようで、彼女は順調に快復へ向かっている。
「ただ、このこたつは危険ですね。昨日もマキちゃんがこたつに入ったまま寝落ちしちゃったあと、ベッドに運ぶの苦労したんですから」
昨日、『姉貴の部室が見てみたい』と付いてきたマキちゃんが蕩けて寝落ちした可愛い姿を思い出し、思わず顔がにやけてしまう。
「お前たち姉妹の面倒まで見てる俺の身にもなれ。こたつを持ち込んだのは俺だが、完全に寮の延長みたいになってるじゃないか」
伊関さんは口では文句を言いながらも、どこか安心したようにビールの残りを飲み干した。
有馬記念での敗北と、マキちゃんの故障。
あの冷たくて残酷な冬の夜から、私たちは少しずつ、けれど確実に前へと進んでいた。マキちゃんは再び空を飛ぶための翼の修復を。そして私は、彼女が安心して飛べる空を作るための、さらなるトルクの強化を。
「……さて。腹も膨れてきたところだし、そろそろ今年の話をするか」
伊関さんは、空になったビールの缶をテーブルの端に除け、カバンの中からクリアファイルを取り出した。
その声のトーンが変わった瞬間、部室に流れていた緩やかな空気が、ピリッと引き締まる。私は持っていたお箸をそっと箸置きに置き、背筋を伸ばして正座し直した。
「有馬記念の4着で、お前がまぐれでGⅠを勝ったわけではないことが証明された。だが同時に、大外枠だったとはいえ、絶対的なスピードと瞬発力を持つエリートたちに、良バ場で勝ち切る決定打が足りないことも浮き彫りになった」
伊関さんは、ファイルの中から一枚のプリントを取り出し、こたつの上に置いた。
「春の始動戦は、いくつかステップレースを挟む。そこでしっかりとエンジンの回転数を確かめ、ピークを持っていきたい。上半期の総決算。俺たちが今年、本気で獲りにいく大舞台は、ここだ」
伊関さんの指が、プリントに印字された一つのレース名を力強く叩いた。
「……『宝塚記念』」
私は、その四文字をゆっくりと口の中で反芻した。
宝塚記念。
それは、年末の有馬記念と対をなす、上半期の総決算。
有馬と同じく、ファン投票によって選ばれたウマ娘へ出走優先権が与えられる、春と夏の狭間に行われる夢の特大グランプリ。
「宝塚、ですか」
「そうだ。舞台は阪神レース場、芝2200m」
伊関さんの瞳の奥に、獲物を狙う勝負師の獰猛な光が宿った。
「2200mという距離は、お前が女王の座を勝ち取ったエリザベス女王杯と全く同じだ。だが、阪神のコースには、有馬記念で経験した中山と同じような急坂が最後に待ち構えている」
レース場のコースマップ、そのゴール前にある坂をトントンと指差し伊関さんは続ける。
「距離は京都と同じで、最後に中山みたいな坂がある。お前のその重戦車みたいなエンジンをフル回転させるには、申し分のない過酷なタフコースだ。それに、宝塚記念が開催される6月下旬というのは、日本ではどういう時期か、分かるな?」
伊関さんの問いかけに、私はハッとして顔を上げた。
6月の下旬。
それはつまり。
「……
「その通りだ。一年で最も雨が多く、ターフがたっぷりと水分を含み、エリートたちが泥を嫌がって顔をしかめる季節。お前が愛し、お前が最も速く泳げる泥濘が、最高峰のグランプリの舞台に用意される可能性が極めて高い」
ドンッ、と。
私の胸の奥で、重厚なエンジンが、強烈な点火音を立てた。
梅雨のグランプリ。泥だらけの阪神。
有馬記念の時のような、綺麗に乾ききった良バ場ではない。泥を味方につけ、どんな悪路でも力強く掻き開いて前へ進むための、最高の沼地。
「宝塚記念には、有馬で戦ったオールハイユウやキタサンブラックをはじめ、春のGⅠ戦線を勝ち抜いてきた正真正銘の強者たちが集結するだろう。お前はそこで、ファン投票で選ばれた挑戦者として、エリートたちに泥だらけの真っ向勝負を挑みに行くんだ」
伊関さんは、プリントの上で力強く拳を握りしめた。
「どうだ、リバーライト。お前のスクリューは、梅雨のグランプリを泳ぎ切る覚悟があるか?」
私は、こたつの上で自分の太ももを両手でギュッと握りしめた。
硬く、太く仕上がった筋肉が、早く走らせろとばかりに熱を帯びて脈打っている。
一番星のマキちゃんは、今、必死にリハビリを頑張っている。
彼女が復帰した時、世界のトップが誰なのか、一番安全に飛べる空がどこにあるのかを、私が証明しておかなければならない。
「やります」
私は、伊関さんを真っ直ぐに見据え、不敵な笑みを浮かべた。
「有馬記念の借りを返すには、同じグランプリの舞台しかありません。阪神の急坂も、強敵たちの誇るスピードも、梅雨の雨ごと全部このエンジンで受け止めて、私が一番力強く泳いでみせます」
「いい返事だ。それでこそ、俺が見込んだ泥濘の女王だ」
伊関さんは満足げに頷き、そして不意に、コンロの上の土鍋を指差した。
「よし。覚悟が決まったなら、まずは目の前の戦いを終わらせろ。鍋の底に沈んでる白菜と肉、全部お前が平らげろ。宝塚の重バ場を泳ぐための燃料だ」
「えっ!? さすがにこれ全部は……いや、やります! 泥も白菜も、残さず全部飲み込んでやりますよ!!」
私は力強く宣言し、お玉を手にして土鍋の底へとダイブした。
春。外の雪が溶け、雨の季節が訪れるまでの数ヶ月間。
ビリジアンの装甲車は、自身の重厚な航跡を、上半期最大のグランプリ『宝塚記念』へとピタリと定めた。
誇り高き強者たちと泥まみれでぶつかり合うための、熱いカウントダウンが、部室の土鍋の熱気と共に、今、静かに始まっていた。
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