春の陽気が少しずつトレセン学園を包み始め、コースの芝が青々とした生命力を取り戻しつつある、4月のある日。
私は、学園の敷地の外れにある、果てしなく続く直線のダートコースに呼び出されていた。
「……伊関さん、これ、なんですか」
私の目の前には、ヘルメットを被り、革ジャンを着込んだ伊関トレーナーが、黒光りする大型のオートバイに跨ってアイドリングをさせていた。
ヴォン、ヴォルルルッ、と。
大排気量のエンジンが、周囲の空気を威圧するように低く唸っている。
「見ての通り、バイクだ。特注で風除けの大型カウルを後ろに取り付けてある」
伊関さんは、ヘルメットのシールドを少しだけ上げて、私の顔を真っ直ぐに見据えた。
「有馬記念で証明された通り、お前のエンジンは無尽蔵のトルクとスタミナを持っている。だが、もし宝塚記念が雨の降らない『良バ場』になった場合……お前はまた、エリートたちの絶対的なトップスピードの前に、指を咥えて下位に甘んじることになる」
「……っ」
「加速力や瞬発力は要らない。お前のような重戦車にそんなものを求めても、長所である重さを殺すだけだからな。俺たちが今から作るのは……お前のエンジンに組み込む、『未知の最高速ギア』だ」
伊関さんはバイクのタンクをポンポンと叩いた。
「風の抵抗というものは、スピードが上がれば上がるほど、二乗に比例して重い壁となってお前を襲う。お前の脳と筋肉は今、『これ以上脚を速く回せば風の壁に押し潰される』というストッパーを勝手にかけてしまっている状態だ」
「ストッパー……」
「そうだ。だから、俺がこのバイクでお前の前を走り、風の壁を完全に切り裂く。……いわゆるスリップストリームだ。お前は俺の後ろの無風地帯に入り、風の抵抗を一切受けない状態で、限界を超えて脚の回転数を上げろ」
伊関さんの言葉に、私は生唾をごくりと飲み込んだ。
風の抵抗がない状態で、全力で回す。
それはつまり、自分の身体が今まで経験したことのない、未知の最高速度を強制的に脳と筋肉に叩き込むということ。
「エンジンを焼き切る覚悟で脚を回せ。未知のギアを身体に覚えさせろ。いいな」
「……はいっ!!」
私はジャージの袖をまくり上げ、ダートコースのスタートラインに立った。
伊関さんがバイクのアクセルを煽り、凄まじい排気音がコースに響き渡る。
「行くぞ!!」
バイクが猛烈な勢いで発進した。
私はそれに遅れまいと、全身の筋肉を爆発させてダートを蹴り飛ばした。
——ドッ、ドッ、ドッ、ドッ!
いつものように、深く重い足取りでスピードに乗っていく。
前方を走る伊関さんのバイクのテールランプだけを視界の中心に据え、私はその背後――カウルが生み出すスリップストリームの中へと、自身の身体を滑り込ませた。
「……っ!?」
その瞬間、世界が変わった。
今まで私の身体に纏わりついていた『空気の壁』が、嘘のように消え去ったのだ。
無風。真空。
まるで、宇宙空間にでも放り出されたような錯覚。
空気抵抗という重りが外れた私の脚は、いつもと同じ力で地面を蹴っているはずなのに、恐ろしいほどのスピードで次々と前へ前へと飛び出していく。
(……軽い。脚が、勝手に回る……!!)
メーターが跳ね上がる。
普段の私のトップスピードを、あっという間に超えた。
「まだだ!! もっと回せ!!」
バイクに備え付けられたスピーカーから、伊関さんの怒号が飛ぶ。
バイクがさらに加速する。
私は必死にそのテールランプに食らいつこうと、脚の回転数をさらに上げた。
——ギィィィンッ!!
脳内で、エンジンがレッドゾーンへ突入した警告音が鳴り響く。
限界だ。これ以上脚を速く回せば、筋肉が千切れ、関節が砕け散ってしまう。
重戦車なんだから、これ以上速く走れるわけがない。そんな本能的な恐怖が、私の脚にブレーキをかけようとする。
(ダメだ。ここで止めたら、またマキちゃんに情けない姿を見せることになる!)
私は、恐怖で硬直しかけたクラッチを、精神力で無理やり蹴り飛ばした。
「回れぇぇぇっ!! 私の、スクリューッ!!」
私は、歯を食いしばり、白目を剥きながら、ダートの地面を力ずくで蹴り砕いた。
空気抵抗がない。だからこそ、自分の脚力だけで、どこまでも加速できる。
今まで『5速』までしか存在しなかった私のエンジンに、無理やり『6速』のギアを叩き込む。
——ガギンッ!!
その瞬間。
私の身体の奥底で、今まで噛み合ったことのない重厚な歯車が、ガッチリと噛み合う音がした。
「――っ!!」
視界が、流線型に歪む。
トップスピードの、さらにその先。
エリートたちが生まれ持ち、私がずっと喉から手が出るほど欲しかった『絶対的な最高速』。
それを今、私は、不格好なエンジンの回転数を力ずくで引き上げることで、擬似的に、いや、物理的に手に入れたのだ。
「……そこだ! そのギアの感覚を、筋肉に焼き付けろ!!」
伊関さんの声が、まるで遠くの世界から聞こえてくるようだった。
私は無風の真空地帯の中で、ただひたすらに、狂ったような高回転で自身の脚を回し続けた。
——キキィィィッ……。
長い直線の終わりで、バイクがゆっくりと減速し、停止した。
私はその横を通り過ぎ、数歩進んだところで、膝から崩れ落ちるようにダートの上に倒れ込んだ。
「はぁっ……! はぁっ……! ぁあ゛っ……!」
全身の筋肉が、火傷したように熱い。
肺が酸素を求めて悲鳴を上げ、ジャージの隙間からは、沸騰したラジエーターのように白い湯気がゆらゆらと立ち上っている。
今まで使ったことのない高回転に耐えきれず、太ももがピクピクと痙攣していた。
「……生きてるか、リバーライト」
バイクを降りた伊関さんが、私の頭上から影を落とした。
私はダートの砂を顔につけたまま、荒い息を吐きながら、ゆっくりと口角を吊り上げた。
「……最っ高、です。伊関、さん……」
私は、震える手を持ち上げ、青空に向けて強く拳を握ってみせた。
「今の……最後のギア……。めちゃくちゃ、重くて……最高のトップギアでした……」
「ああ。タイムも、お前のこれまでの限界値を大きく更新している。あの高回転を、風の壁がある実践のターフで維持できるようになれば……良バ場だろうが重バ場だろうが、お前の最高速はエリートどもに決して引けを取らない」
伊関さんは私の震える拳に、手に持った自身のヘルメットを軽くコツンとぶつけた。
「よくやった。だが、これはまだ『6速』という器を作っただけに過ぎない。これを実践で使いこなせるようになるまで、これから毎日、俺のバイクで引き摺り回してやるから覚悟しておけ」
「……望む、ところです……っ!」
私はダートに大の字になり、春の青空を見上げた。
全身の細胞が、新しく手に入れたオーバートップギアの余韻で、まだジンジンと痺れている。
瞬発力はいらない。空を飛ぶ翼もいらない。
ただ、地の底を誰よりも重く、そして速く這い進むための、強靭なスクリューがあればいい。
宝塚記念のターフが、どんな状態であろうとも。
ビリジアンの装甲車は、自身の内側に未知なる最高速を隠し持ち、来たるべき特大グランプリへ向けて、その重厚な牙をさらに鋭く研ぎ澄ませていた。
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