祭りでも、怪物でもなく   作:藤沢大典

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第39話:風の壁と、オーバートップギア

 春の陽気が少しずつトレセン学園を包み始め、コースの芝が青々とした生命力を取り戻しつつある、4月のある日。

 私は、学園の敷地の外れにある、果てしなく続く直線のダートコースに呼び出されていた。

 

「……伊関さん、これ、なんですか」

 

 私の目の前には、ヘルメットを被り、革ジャンを着込んだ伊関トレーナーが、黒光りする大型のオートバイに跨ってアイドリングをさせていた。

 ヴォン、ヴォルルルッ、と。

 大排気量のエンジンが、周囲の空気を威圧するように低く唸っている。

 

「見ての通り、バイクだ。特注で風除けの大型カウルを後ろに取り付けてある」

 

 伊関さんは、ヘルメットのシールドを少しだけ上げて、私の顔を真っ直ぐに見据えた。

 

有馬記念で証明された通り、お前のエンジンは無尽蔵のトルクとスタミナを持っている。だが、もし宝塚記念が雨の降らない『良バ場』になった場合……お前はまた、エリートたちの絶対的なトップスピードの前に、指を咥えて下位に甘んじることになる」

「……っ」

「加速力や瞬発力は要らない。お前のような重戦車にそんなものを求めても、長所である重さを殺すだけだからな。俺たちが今から作るのは……お前のエンジンに組み込む、『未知の最高速ギア』だ」

 

 伊関さんはバイクのタンクをポンポンと叩いた。

 

「風の抵抗というものは、スピードが上がれば上がるほど、二乗に比例して重い壁となってお前を襲う。お前の脳と筋肉は今、『これ以上脚を速く回せば風の壁に押し潰される』というストッパーを勝手にかけてしまっている状態だ」

「ストッパー……」

「そうだ。だから、俺がこのバイクでお前の前を走り、風の壁を完全に切り裂く。……いわゆるスリップストリームだ。お前は俺の後ろの無風地帯に入り、風の抵抗を一切受けない状態で、限界を超えて脚の回転数を上げろ」

 

 伊関さんの言葉に、私は生唾をごくりと飲み込んだ。

 風の抵抗がない状態で、全力で回す。

 それはつまり、自分の身体が今まで経験したことのない、未知の最高速度を強制的に脳と筋肉に叩き込むということ。

 

「エンジンを焼き切る覚悟で脚を回せ。未知のギアを身体に覚えさせろ。いいな」

「……はいっ!!」

 

 私はジャージの袖をまくり上げ、ダートコースのスタートラインに立った。

 伊関さんがバイクのアクセルを煽り、凄まじい排気音がコースに響き渡る。

 

「行くぞ!!」

 

 バイクが猛烈な勢いで発進した。

 私はそれに遅れまいと、全身の筋肉を爆発させてダートを蹴り飛ばした。

 

 ——ドッ、ドッ、ドッ、ドッ!

 

 いつものように、深く重い足取りでスピードに乗っていく。

 前方を走る伊関さんのバイクのテールランプだけを視界の中心に据え、私はその背後――カウルが生み出すスリップストリームの中へと、自身の身体を滑り込ませた。

 

「……っ!?」

 

 その瞬間、世界が変わった。

 今まで私の身体に纏わりついていた『空気の壁』が、嘘のように消え去ったのだ。

 無風。真空。

 まるで、宇宙空間にでも放り出されたような錯覚。

 空気抵抗という重りが外れた私の脚は、いつもと同じ力で地面を蹴っているはずなのに、恐ろしいほどのスピードで次々と前へ前へと飛び出していく。

 

(……軽い。脚が、勝手に回る……!!)

 

 メーターが跳ね上がる。

 普段の私のトップスピードを、あっという間に超えた。

 

「まだだ!! もっと回せ!!」

 

 バイクに備え付けられたスピーカーから、伊関さんの怒号が飛ぶ。

 バイクがさらに加速する。

 私は必死にそのテールランプに食らいつこうと、脚の回転数をさらに上げた。

 

 ——ギィィィンッ!!

 

 脳内で、エンジンがレッドゾーンへ突入した警告音が鳴り響く。

 限界だ。これ以上脚を速く回せば、筋肉が千切れ、関節が砕け散ってしまう。

 重戦車なんだから、これ以上速く走れるわけがない。そんな本能的な恐怖が、私の脚にブレーキをかけようとする。

 

(ダメだ。ここで止めたら、またマキちゃんに情けない姿を見せることになる!)

 

 私は、恐怖で硬直しかけたクラッチを、精神力で無理やり蹴り飛ばした。

 

「回れぇぇぇっ!! 私の、スクリューッ!!」

 

 私は、歯を食いしばり、白目を剥きながら、ダートの地面を力ずくで蹴り砕いた。

 空気抵抗がない。だからこそ、自分の脚力だけで、どこまでも加速できる。

 今まで『5速』までしか存在しなかった私のエンジンに、無理やり『6速』のギアを叩き込む。

 

 ——ガギンッ!!

 

 その瞬間。

 私の身体の奥底で、今まで噛み合ったことのない重厚な歯車が、ガッチリと噛み合う音がした。

 

「――っ!!」

 

 視界が、流線型に歪む。

 トップスピードの、さらにその先。

 エリートたちが生まれ持ち、私がずっと喉から手が出るほど欲しかった『絶対的な最高速』。

 それを今、私は、不格好なエンジンの回転数を力ずくで引き上げることで、擬似的に、いや、物理的に手に入れたのだ。

 

「……そこだ! そのギアの感覚を、筋肉に焼き付けろ!!」

 

 伊関さんの声が、まるで遠くの世界から聞こえてくるようだった。

 私は無風の真空地帯の中で、ただひたすらに、狂ったような高回転で自身の脚を回し続けた。

 

 ——キキィィィッ……。

 

 長い直線の終わりで、バイクがゆっくりと減速し、停止した。

 私はその横を通り過ぎ、数歩進んだところで、膝から崩れ落ちるようにダートの上に倒れ込んだ。

 

「はぁっ……! はぁっ……! ぁあ゛っ……!」

 

 全身の筋肉が、火傷したように熱い。

 肺が酸素を求めて悲鳴を上げ、ジャージの隙間からは、沸騰したラジエーターのように白い湯気がゆらゆらと立ち上っている。

 今まで使ったことのない高回転に耐えきれず、太ももがピクピクと痙攣していた。

 

「……生きてるか、リバーライト」

 

 バイクを降りた伊関さんが、私の頭上から影を落とした。

 私はダートの砂を顔につけたまま、荒い息を吐きながら、ゆっくりと口角を吊り上げた。

 

「……最っ高、です。伊関、さん……」

 

 私は、震える手を持ち上げ、青空に向けて強く拳を握ってみせた。

 

「今の……最後のギア……。めちゃくちゃ、重くて……最高のトップギアでした……」

「ああ。タイムも、お前のこれまでの限界値を大きく更新している。あの高回転を、風の壁がある実践のターフで維持できるようになれば……良バ場だろうが重バ場だろうが、お前の最高速はエリートどもに決して引けを取らない」

 

 伊関さんは私の震える拳に、手に持った自身のヘルメットを軽くコツンとぶつけた。

 

「よくやった。だが、これはまだ『6速』という器を作っただけに過ぎない。これを実践で使いこなせるようになるまで、これから毎日、俺のバイクで引き摺り回してやるから覚悟しておけ」

「……望む、ところです……っ!」

 

 私はダートに大の字になり、春の青空を見上げた。

 全身の細胞が、新しく手に入れたオーバートップギアの余韻で、まだジンジンと痺れている。

 

 瞬発力はいらない。空を飛ぶ翼もいらない。

 ただ、地の底を誰よりも重く、そして速く這い進むための、強靭なスクリューがあればいい。

 宝塚記念のターフが、どんな状態であろうとも。

 ビリジアンの装甲車は、自身の内側に未知なる最高速を隠し持ち、来たるべき特大グランプリへ向けて、その重厚な牙をさらに鋭く研ぎ澄ませていた。

 




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