祭りでも、怪物でもなく   作:藤沢大典

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第4話:一番星と鉄の土台

「――っ、くぅぅぅ……っ!」

 

 プルプルと、全身の筋肉が情けないほどに小刻みに震えている。

 カビと埃の匂いが染み付いた、薄暗い倉庫の床。私は木製の不安定なバランスボードの上に立ち、5キロの黒ずんだメディシンボールを胸の前に抱えたまま、深く腰を落としたスクワットの姿勢で耐えていた。

 

「右足の裏、外側に体重が逃げているぞ。親指の付け根でしっかり板を掴むように意識しろ。丹田から力を抜くな」

 

 パイプ椅子に座り、ストップウォッチとノートを交互に見つめる伊関トレーナーの冷静な声が飛ぶ。

 私は無言で頷き、歯を食いしばって重心を修正する。たったそれだけの動作で、太ももと腹筋が焼き切れるような痛みを訴えてきた。滴り落ちた汗が顎を伝い、床に敷かれた古い体操マットに黒い染みを作っていく。

 伊関チーム(仮)に所属してから数週間。

 私が命じられたのは、ただひたすらに地味で過酷な身体作りの毎日だった。

 放課後はこの埃っぽい倉庫に籠もり、吐き気がするほど体幹をいじめ抜く。そして練習後には、近所の定食屋に連行され、山盛りの白米と鶏肉を胃袋の限界まで詰め込まれる。

 

心肺機能(エンジン)の出力に耐えうる、絶対にブレない骨格と筋肉を作れ』

 

 華やかなターフを風を切って走る喜びなんて、ここにはない。

 ただ自分の弱さと向き合い、泥臭く汗を流しては、毎晩ひどい筋肉痛に悶えるだけ。終わりの見えない苦しさと痛みに心が折れそうになるたび、私の脳裏には決まって『あの子』の眩しい姿がフラッシュバックした。

 

『――1着はパロール! ジュニアとは思えない、圧巻の末脚です!』

 

 つい数日前。地元のジュニア大会に出場した妹は、他を寄せ付けない圧倒的な走りでターフを駆け抜け、いとも簡単に1着をもぎ取って見せた。

 赤茶色の外ハネしたショートヘアを風に揺らしゴール板を駆け抜けるその姿は、まるで背中に羽が生えているかのように軽やかだった。

 来年トレセン学園に入学してくれば、間違いなく一流チームから声がかかるだろう。そん

な、完全無欠の走り。

 

『姉貴! 見てた!? アタシの走り!』

 

 レース後、息一つ乱していない妹は、観客席の私を見つけて満面の笑みで手を振ってきた。

 昔の彼女は、とてもじゃないけれどあんな力強い走りができるような子じゃなかった。

 

『パロールなんて、可愛くない……こんな名前、嫌だよぉ……っ!』

 

 幼い頃、自分の名前が嫌だとぐずって泣きじゃくる気弱な妹。そんな彼女のために、私が一生懸命ひねり出したあだ名。

 パロール。ロール。巻く。だから、マキちゃん。

 

『ほんと? マキちゃん、可愛い……わたし、マキちゃん! お姉ちゃん、ありがとう』

 

 そう言って涙を引っ込め、いつも私の背中に隠れてジャージの裾をぎゅっと握りしめていた泣き虫な女の子。それが私にとっての、守ってあげなきゃいけない唯一の味方、『マキちゃん』だった。

 ――でも、あの子はもう、私の裾を掴んではくれない。

 私がトレセン学園の選抜レースで惨敗し、誰にも相手にされず、泥を啜って泣き崩れたあの日。

 私の不甲斐ない涙を見た日を境に、彼女は変わってしまった。

 私の後ろに隠れるのをやめ、自ら先頭に立って風を切るようになった。

 そして『お姉ちゃん』という甘えた呼び方を捨て、あえて乱暴な『姉貴』という言葉を使うようになった。私を気遣うような素振りも見せず、ただ前だけを見て、私を置いていくように突き進むようになったのだ。

 

(……愛想を、尽かされたんだ。あんな、無様なお姉ちゃんなんて……)

 

 バランスボードの上で足が震える。マキちゃんの「姉貴」という呼び方を思い出すたび、胸の奥がチリチリと焼けるように痛んだ。

 あれはきっと、負けてズタボロになった私への、明確な失望の証なんだ。

 情けない姉に見切りをつけて、彼女はもう、一人で強く『パロール』として生きていくことに決めたんだ。

 

『へへっ、アタシにかかればこれくらい当然っしょ! 姉貴も早くアタシに追いついてきなよ!』

 

 ジュニア大会の表彰式。

 自信に満ち溢れた、太陽のような笑顔。

 その眩しさに目を細めながら、私は引きつりそうになる頬を必死に叩いて、笑い返した。

 

(……ごめんね、マキちゃん。こんなに、不甲斐ないお姉ちゃんで)

 

 あの子の真っ直ぐな瞳に、今の私はどう映っているんだろう。

 綺麗に刈り込まれたターフの上で、一番星のように輝く妹。彼女が眩しければ眩しいほど、私の心は暗い泥の中に沈んでいく。どれだけ手を伸ばしても、マキちゃんがいるあの場所には届かないという残酷な才能の差が、胸をナイフみたいにえぐり続けていた。

 

「おい、腰が高いぞ! ボードが揺れてる!」

 

 伊関トレーナーの鋭い声で、ハッと現実に引き戻される。

 気づけば、集中が途切れたせいで足元のバランスボードがガタガタと音を立てて揺れ、太ももの筋肉が限界を訴えて悲鳴を上げていた。メディシンボールを抱える腕の感覚も、もうほとんどない。

 

「……っ、わかって、ます……っ!!」

 

 私は大きく息を吐き出し、奥歯が砕けそうなほど強く噛み締めた。

 グラつく足首に無理やり力を込め、太ももの裏側からお尻、そして腹筋へと意識を集中させる。伊関さんに言われた通り、身体の芯、丹田にすべての力を集約して、揺れるボードの上でピタリと動きを止める。

 あの子に、これ以上失望されたくない。

 見放されたままで、終わらせたくない。

 あの子みたいに、綺麗な芝の上を飛ぶように走ることは一生できないかもしれない。スピードもない、瞬発力もない、惨めで情けない姉かもしれない。

 だけど、もし。

 誰よりも不格好に足掻いて、この地味な痛みに耐え抜いて。伊関さんが言うように、このひ弱で脆い身体を、どんな過酷なレースでも絶対に壊れない『GⅠ級の怪物』に作り直すことができたなら。

 

(……その時は、また『お姉ちゃん』って呼んでくれるかな)

 

「あと十秒! 姿勢崩すな!」

 

 伊関さんのカウントダウンが、静かな倉庫に響く。

 私はメディシンボールを抱き抱えたまま、じっと前を睨みつけた。視界の先にあるのは色褪せた壁だけれど、私の目には、いつか並び立つべき太陽のように眩しい妹の背中が映っていた。

 五、四、三――。

 汗にまみれた私の不格好な肉体改造は、誰に知られることもなく、静かに、けれど確実に熱を帯びて進んでいた。

 




パロール
アニメ登場モブウマ娘。モデル馬「リアファル」。第2話、第3話で登場。
実馬同士も実際に姉弟関係にある。
リアファルの語源がケルト神話の「運命の石」で、その石には真の王者がその上に立つと歓喜の声を挙げて石が叫ぶという伝説があることから、パロール(発話)を意味する名前となったと思われる。

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