5月下旬。日本ダービーの熱狂に沸き立つ、春の東京レース場。
その日の最終レースとして行われる伝統の長距離重賞『目黒記念』が、私の春の始動戦に選ばれた。目的はもちろん、来たる上半期の総決算・宝塚記念へ向けた最終テストである。
パドックを周回しながら、私は自身の身体にのしかかる、目に見えない重みを静かに噛み締めていた。
秋にエリザベス女王杯を制し、GⅠウマ娘となった私。その称号は、ファンからの大歓声という誇りをもたらすと同時に、他のすべてのウマ娘たちから『絶対に倒すべき標的』としてロックオンされることを意味していた。
パドックを歩くライバルたちの視線が、チクチクと私の背中や脚元に突き刺さる。誰もが私の呼吸を測り、私のスタミナを削り取るための隙を窺っているのだ。
「……どうだ、リバーライト。包囲網の中心に立たされた気分は」
柵の向こうから、腕を組んだ伊関トレーナーが鋭い声をかけてきた。
「重いです。物理的な重りなんて背負っていないのに、まるで大柄な成人男性を一人おんぶしたまま歩いてるみたい。息が詰まりそうになります」
「当然だ。GⅠのティアラを持つということは、そういうことだ。本番の宝塚記念では、ここにいる連中よりもさらに凶悪なエリートどもが、その何倍もの殺気で完全包囲網を敷いてくる」
伊関さんは、私の脚元から腰の入り方まで、全身のバランスを舐めるようにチェックしながら言った。
「今日の目的は、勝敗そのものじゃない。その息の詰まるような重圧と徹底マークの中で、春のダートで叩き込んだ『6速』のオーバートップギアが、実戦のターフで使い物になるかどうかの確認だ。……包囲網ごと、その空気を力ずくで切り裂いてこい」
「……はいっ」
私は短く応え、首をコキリと鳴らしてターフへと向かった。
東京レース場、芝2500m。
どこまでも広く、そして直線の長いこのコースは、本来ならスピードと瞬発力に優れるエースたちの独壇場だ。不格好な重戦車である私が、最も苦手とする舞台の一つでもある。
ゲートが開き、18頭のウマ娘たちが一斉に飛び出した。
私は無理に前へは行かず、バ群のちょうど真ん中、中団のポジションで息を潜めた。
しかし、ターフに出た瞬間、予想以上のプレッシャーが私を襲った。私が動けば、周囲のウマ娘たちも動く。少しでも外へ出ようとすれば、外側のウマ娘がピタリと壁を作り、前へ出ようとすれば、前のウマ娘が巧みに進路を塞いでくる。
(……すごいマーク。これが、女王として走るということ……!)
ターフを蹴り出すたびに、視線と牽制という名の見えない枷が、重力に逆らう私の身体を容赦なく地面へと押さえつけようとする。もし去年の私なら、この精神的な圧迫感に耐えきれず、スタミナを削られてズルズルと後退していただろう。
けれど、今の私のエンジンは、この程度の重圧では決してエンストを起こさない。
(……回れ。焦るな。一定のペースで、ゆっくりと燃焼室に熱を持たせろ)
私は冷静に自身の回転数をコントロールしながら、広大な東京のターフを駆け抜けた。
バ場状態は良。冬の間に蓄えた強靭な筋肉が、見えない枷に反発するようにミシミシと音を立てて躍動している。前を行くウマ娘たちのペースは平均的。誰もが、最後の長い直線に向けて息を温存しているのが肌で感じられた。
やがて、勝負所の最終第4コーナーをカーブし、いよいよ東京レース場が誇る525mの長い直線へと差し掛かる。
歓声が一気に爆発し、前を走るウマ娘たちが一斉にスパートをかけた。
私もそれに呼応するようにアクセルを踏み込む。しかし、前に壁ができている。私を封じ込めるために作られた、分厚いバ群の包囲網。抜け出すルートが見当たらない。
(……ここだ。こじ開ける!)
私は、ダートコースでの伊関さんのバイク特訓を思い出した。
あの無風の世界。極限まで脚を回し、エンジンをレッドゾーンのさらに奥深くへと叩き込んだあの感覚。
私は周囲に広がる風の壁と、自身にのしかかる徹底マークの重圧を、あえて『スリップストリームを生み出すための巨大な負荷』だと脳内で変換した。
重いクラッチを、精神力で無理やり蹴り飛ばす。
今までなら絶対に届かなかった、未知の『6速』へのシフトアップ。
——ガギンッ!!
その瞬間、私の身体の奥底で、巨大な歯車が噛み合う幻聴が響いた。
見えない枷を引きずりながらも、脚の回転数が尋常ではない速度へと跳ね上がる。
風の壁をドリルでぶち抜くように、私の身体がバ群のわずかな隙間を真っ二つに切り裂き、一気に視界が開けた。
「……っ!!」
トップスピードが、明らかに今までとは違う。
重戦車のまま、まるでスポーツカーのような最高速を叩き出している。
東京特有の、直線の中腹にある上り坂。他のウマ娘たちが苦しそうに脚色を鈍らせる中、私の強靭なスクリューは坂の抵抗すらも完全に無視して加速し続けた。
先頭集団を瞬く間に飲み込み、私はついに先頭に躍り出た。
残りはあと100m。
このまま押し切れる。そう確信した瞬間だった。
『外から一気にサイファーコード! サイファーコードが飛んできた!!』
実況の絶叫と共に、私の視界の端を、恐ろしいほどのスピードで駆け上がってくる影があった。
道中、ずっと私の背後にピタリと張り付き、息を潜めていたサイファーコードだ。
彼女は、私がバ群をこじ開け、風の壁を切り裂いたことによって生まれた無風地帯を完璧に利用していた。奇しくも私が『6速』を手に入れるために体験したスリップストリームを、彼女に利用されたのだ。一切のスタミナを消耗することなく最後のスパートまで脚を温存していた彼女のバネは、真っ向から風を受け続けていた私のトップスピードを、さらに上回る勢いだった。
「やらせるかぁっ!!」
私は歯を食いしばり、さらなる燃料をエンジンに送り込んで抵抗した。
オーバートップギアを維持したまま、泥臭く並走する。
しかし、ゴール板の直前、ほんの少しだけ、完璧な戦術で脚を溜めていた彼女の末脚が私の執念を上回った。
『サイファーコード、差し切った! リバーライト、王者への徹底マークを跳ね除けて猛烈なスパートを見せるも、クビ差届かず2着!!』
「……はぁっ、はぁっ……っ!」
検量室前。私はジャージの胸元を掴み、肩で大きく息をしながら伊関さんの前に立った。
全身の筋肉が悲鳴を上げ、汗が滝のように流れ落ちている。
「……負けました。最後、私がこじ開けた道を利用されました……」
私が悔しさに唇を噛むと、伊関さんは珍しく興奮を隠しきれない様子で、私の肩をガシッと力強く掴んだ。
「クビ差の2着だ。……あの異常な徹底マークを受け続け、しかも一番苦手な東京の長い直線で、自らバ群をこじ開けてあのトップスピードを維持し切った。……上出来すぎる」
伊関さんの目には、確かな勝算の光が宿っていた。
「見たか、あの直線の伸びを。お前が手に入れた『6速』は、実戦でも完璧に機能した。最後は戦術の差で競り負けたが、あの最高速がエンジンに備わっているなら、阪神の舞台でも絶対に戦える。エリートどものスピードに、力負けすることはない」
「……はいっ。私自身、びっくりするくらい脚が回りました。……いけます、私」
負けはしたものの、私の心に悲観は全くなかった。
むしろ、新しい武器が思い通りに機能したことで、宝塚記念への手応えが絶対的な確信へと変わっていたのだ。
「ただし……あの走り、やはりお前の脚に相当な負担を強いることとなる。今回はテストだったから構わんが、次はラスト200mまで使うな。いいな」
「200m……はい、分かりました」
本来出せないはずの速度を無理やり出しているのだ、負担が無いわけがなかった。
200mという距離は短かったが、伊関さんが言うのであれば恐らくそれが私の限界値なのだろう。
彼の言葉を胸に留め、私は次のレースへの想いを高めていった。
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その日の夜。
寮の自室に戻ると、マキちゃんがベッドの上で入念なストレッチをしながら出迎えてくれた。
「おっ、姉貴お疲れ。……東京の2500、テレビで見てたよ」
マキちゃんは、ギプスが取れ、少しだけ細くなった左脚を慎重にさすりながら言った。
「あの包囲網の中で2着に粘るなんて、相変わらずとんでもないスタミナしてるね。直線の抜け出し方、重戦車が空飛んでるみたいでちょっと引いたよ」
「まぁね。これでもお姉ちゃんだから。……マキちゃんの脚の具合はどう?」
「うん。やっと軽いジョギングの許可が下りたところ。……でも、姉貴のあの直線の伸びを見てたら、なんだか私も無性に走りたくなっちゃった」
マキちゃんが、ふふっと柔らかく笑う。
私は彼女の隣に座り、まだ熱を持っている自分の太ももを軽く叩いた。
「焦らないの。あなたの翼は、時間をかけてしっかり治さなきゃダメ。……待ってるからね、マキちゃん。あなたが万全になって復帰するまでに、私が世界で一番高い空を取ってくるから」
「……うん。頼んだよ、お姉ちゃん」
二人きりの静かな部屋。
私たちは言葉少なに拳を合わせ、来たるべき夏のグランプリへ向けて、最後の気合いを入れた。
春の試運転は、これ以上ない完璧な形で終わった。
王者の重圧という枷を背負ったことで、私のエンジンはさらなる排気量を獲得した。
残すは、上半期の総決算。阪神レース場、宝塚記念。
泥と雨に祝福されるであろうその舞台へ向けて、手に入れたばかりのオーバートップギアは、今、本番のファンファーレを静かに、そして獰猛に待ち構えていた。
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