祭りでも、怪物でもなく   作:藤沢大典

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第41話:蛙の約束と、決戦の地を濡らす雨

 上半期を締めくくる特大グランプリ、宝塚記念。

 決戦を二日後に控えた、6月下旬の夕暮れ。

 

 東京都府中市にあるトレセン学園の部室は、梅雨時期特有の重たく湿った空気に包まれていた。肌にまとわりつくような不快な湿度は、本来ならウマ娘たちのコンディションを狂わせる厄介なものだが、私の胸の奥にあるエンジンにとっては、これ以上ない潤滑油のように感じられていた。

 しかし、私のスマートフォンの画面に映し出された、遠く離れた決戦の地――兵庫県・阪神レース場周辺の天気予報は、どうにも煮え切らない数字とマークを並べていた。

 

「……明日の天気は雨時々曇りだけど、レース当日は晴れ。降水確率も低い……。嘘でしょお……」

 

 私は、部室のパイプ椅子に深く沈み込み、絶望的な声を漏らした。

 数日前にパラパラと雨は降ったものの、今のままでは強烈な初夏の日差しによって、レース当日にはすっかり水はけの良い『良バ場』に回復してしまうだろう。

 春の特訓で手に入れた『6速』のオーバートップギアがあれば、乾いた芝でも十分に戦える。その確信はある。けれど、それでも私は、私の魂が最も熱く滾る、あの身体が全て沈み込むような泥濘(ぬかるみ)を、上半期最高峰の舞台に望んでいた。

 

「……何を湿気ったツラしてやがる。確かに重バ場になる確率が高いとは言ったが、ならないとも言っていない。その時の状態に合わせて走るのがGⅠウマ娘だろうが」

 

 デスクでノートパソコンの画面を睨んでいた伊関トレーナーが、面倒くさそうに口を開いた。

 彼は相変わらず、不機嫌そうな顔で最新の調教データを精査している。その横顔には、グランプリ直前というプレッシャーなど微塵も感じられない、冷徹な静けさがあった。

 

「だって、阪神の急坂ですよ? ドロドロの重バ場にならないと、私のスクリューが100パーセント活きないじゃないですか。そりゃあ良バ場でも負けるつもりはありませんけど……あ、そうだ、伊関さん」

 

 私は、パイプ椅子からガバッと身を起こし、スマートフォンの画面を伊関さんの顔の前に突きつけた。そこに写っていたのは去年のエリザベス女王杯前日に部室に吊るした、黒い降れ降れ坊主たち。

 

「去年の秋、エリザベス女王杯の前に約束しましたよね。『もし来年、宝塚記念に出るようなことがあれば、その時は俺も一緒にカエルの舞でも踊ってやる』って」

「……」

 

 伊関さんは、キーボードを叩く手をピタリと止めた。

 数秒の沈黙の後、彼は極めて不自然なほどゆっくりと視線をそらした。

 

「……言葉の綾だろ、あんなもん。大体、大の大人が部室でカエルの真似事なんて、正気の沙汰じゃない。お前はこれからグランプリに出走する王者だぞ、自覚を持て」

「逃げないでください! 吐いた唾は飲み込まないのが、伊関さんの数少ない良いところじゃないですか!」

 

 私は食い下がり、あらかじめ調べておいたネット掲示板の画面を伊関さんの鼻先に押し付けた。

 

「ほら、見てください! ネットのオカルト掲示板で見つけたんです。『ガチで効く、水神様を呼び覚ますカエルの舞・決定版』。手順もバッチリ載ってますから!」

「……お前、俺に本気でこれをやれと?」

「約束ですから!!」

 

 伊関さんは、深く、ひたすらに深い溜め息をついた。

 しかし、彼は数秒間天井を仰ぎ見た後、忌々しそうに舌打ちをして、着ていたジャケットを乱暴に脱ぎ捨てた。

 

「……一回だけだ。誰かに見られたら、俺のトレーナー生命が終わる」

 

 伊関さんはワイシャツの袖をまくり上げ、極限まで屈辱に顔を歪ませながらも、床に両手をついた。

 やると決めたら手を抜かない。それがこの男のいいところだ。

 

「よしっ!じゃあ行きますよ。第一段階、姿勢制御!」

 

 私もジャージの上着を脱ぎ捨てて床に腰を落とした。

 極限まで太く、硬く仕上げた太ももの筋肉が、床を捉えて沈み込む。

 

「第二段階……天を仰ぎ、喉を限界まで膨らませて異形の咆哮!!」

「……ケロォッ!」

「声が小さい! もっと腹の底から、エンジンの排気音だと思って鳴いてください、伊関さん!!」

「……ゲロォォォォォォッ!!」

 

 顔を真っ赤にした伊関さんの絶叫が、部室の壁をビリビリと震わせる。

 傍から見れば、完全に狂気の沙汰だ。

 学園でも指折りの冷徹トレーナーが、床を這いずり、カエルの鳴き真似をしている。あまりのバカバカしさに吹き出しそうになるのを堪えながら、私は次の指示を飛ばした。

 

「第三段階、時計回りに三度飛び、雨の記憶を呼び覚ませ!!」

 

 私は、太ももの筋肉を爆発させ、こたつやデスクの周りを時計回りに飛び跳ねた。

 ドッ、ドッ、ドッ!

 伊関さんも、額に血管を浮かべ、吹っ切れたように必死に私の航跡を追って飛び跳ねる。

 

「……泥だ! 阪神のターフが、お前のスクリューで真っ黒に染まる姿をイメージしろ!!」

「やってます! もう私の頭の中は、底なし沼の深緑一色です!」

「もっと高く飛べ! 水神を呼ぶんだろうが! ゲロッ!」

「ゲロォォォッ!!」

 

 ――ガチャ。

 

 その時。

 何のノックも前触れもなく、部室のドアが開いた。

 

「……姉貴、忘れ物届けてあ、げ……」

 

 ドアの向こうに立っていたのは、私の忘れ物のタオルを持ったマキちゃんだった。

 沈黙。

 永遠にも思える、圧倒的な沈黙が部室を支配した。

 床に四つん這いになり、顔を真っ赤にして大口を開けている学園屈指の冷徹トレーナーと、ジャージを脱ぎ捨てて机の周りを飛び跳ねているGⅠウマ娘。

 マキちゃんの目は、これ以上ないほど見開かれ、持っていたタオルがポトリと床に落ちた。

 

「……マ、マキちゃん。これは、その……」

「…………」

 

 マキちゃんは、一切の表情を消したまま、落ちたタオルを拾い上げた。

 

「……ごめん。私、最近リハビリで疲れてて、幻覚が見えるみたい。……姉貴も、伊関トレーナーも、大一番の前でおかしくなっちゃう気持ちは分かるけど……病院、紹介しようか?」

「違うの! これは……」

「お邪魔しました」

 

 ——バタンッ。

 

 静かに、しかし冷酷にドアが閉められた。

 

「ああっ、マキちゃん! 誤解しないで!!」

「……終わった」

 

 隣を見ると、伊関さんが四つん這いの姿勢のまま、真っ白に燃え尽きた灰のように固まっていた。

 彼のトレーナーとしての絶対的な威厳は、たった今、一番星の妹の冷ややかな視線によって完全に粉砕されたのだった。

 

 こうして雨乞いの儀式は、無残な空気の中で終了した。

 その後、気まずい空気のまま天気予報の画面を何十分も眺め続けたが、降水確率は全く変わる気配を見せなかった。

 

「……ほら見ろ。尊厳を失っただけで、何の効果もねぇじゃないか」

「おかしいなぁ……。オカルト掲示板には『即効性あり』って書いてあったのに……」

 

 伊関さんは深いため息をつき、逃げるように部室を後にした。私も、肩を落として寮の自室へと戻ったのだった。

 

 ——————

 

 その日の夜。日付が変わった深夜一時のこと。

 府中にある学生寮の自室。

 外は、雲一つない静かな夜だった。私はベッドの中で、なかなか寝付けずにスマートフォンをぼんやりといじっていた。

 何気なく、気象庁の雨雲レーダーのアプリを開く。

 画面に表示された日本地図。私がいる東京周辺は、穏やかな無色だ。

 しかし、指先で画面をスワイプし、関西方面へと地図をスクロールさせた瞬間。

 私の目は、画面に表示された信じられない光景に釘付けになった。

 

「……えっ?」

 

 兵庫県、宝塚市周辺。

 決戦の舞台である阪神レース場の真上にだけ、局地的な真っ赤な雨雲の塊が、不自然なほどドッシリと居座っていたのだ。

 現在の降水量、一時間に20ミリ超え。

 バケツをひっくり返したような、局地的な猛烈な大雨。それが今、リアルタイムで阪神レース場のターフを叩き打っている。

 

「……お姉ちゃん、スマホの光まぶしい……。どうしたの、こんな夜中に」

 

 反対側のベッドから、目を擦りながらマキちゃんが起き上がってきた。

 

「……降ってる」

 

 私は、暗闇の中でスマートフォンを握りしめ、ベッドから身を乗り出した。

 

「マキちゃん、見て! 阪神レース場の真上だけ、信じられないくらいの土砂降りになってる!!」

「……え? それ見るために、わざわざこんな時間まで起きてたの……?」

 

 マキちゃんは呆れたように目を細めたが、私の頭の中はもう、狂喜乱舞で満たされていた。

 

「降ったんだよ……! あのカエルの雨乞い、ちゃんと効果があったんだ! 関西まで雨雲を飛ばすのに、ちょっとタイムラグがあっただけなんだよ!」

「……いや、それはただの夕立というか、偶然でしょ。いいから早く寝なよ、明後日レースなんだから」

 

 パタン、と布団を被り直すマキちゃんの言葉なんて、今の私には聞こえなかった。

 深夜一時に阪神レース場に降り注ぐこの強烈な驟雨(しゅうう)は、間違いなくレースの朝までターフにたっぷりと水分を染み込ませてくれる。あの乾いた芝を、私が最も愛する重く粘り気のある沼地へと変えてくれるのだ。

 

 今年の宝塚記念に集うのは、正真正銘、この国の頂点に立つ猛者たち。

 逃げさせれば無尽蔵のスタミナで後続を完封する、絶対王者・キタサンブラック。

 圧倒的な力で春のクラシックを制した、狂気の二冠ウマ娘・ドゥラメンテ。

 重バ場を全く苦にしないサトノクラウンに、底なしのスタミナを秘めたシュヴァルグラン。

 誰一人として、名前を聞いただけで足がすくむような最高峰の一流たち。

 けれど、恐れはなかった。

 

(……この雨が作り出す私だけの聖域で、全部掻き開いて先頭を泳ぎ切ってやるんだ)

 

 私は、スマートフォンの画面の中で猛威を振るう紫色の雨雲を見据えながら、自身のエンジンを静かに、そして激しく震わせた。

 

 宝塚記念。上半期最大の決戦の舞台。

 夜の静寂に包まれた府中のベッドで、重戦車は、遠く離れた地で最高の舞台が整っていくのを、歓喜の鼓動と共に待ち構えていた。

 




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