祭りでも、怪物でもなく   作:藤沢大典

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第42話:最高の舞台と、最強の相手たちと

 上半期の総決算にして、選ばれし者たちだけが立つことを許される夢の舞台、宝塚記念。

 その熱狂の渦中へと続く阪神レース場の地下通路には、ひんやりとした静寂と、極限まで張り詰めたウマ娘たちの闘気が重苦しく渦巻いていた。

 

 ——カツン、カツン。

 

 コンクリートの床を叩く蹄鉄の音が、薄暗い通路に等間隔で響く。

 私は、壁に切り取られた長方形の出口――眩い光が差し込むターフへと続くその空間を見据えながら、ゆっくりと自身の巨大なエンジンに熱を通すように歩みを進めていた。

 通路の先から実況アナウンサーの興奮した声が、地鳴りのような10万人の歓声に混じって反響してくる。

 

『本日の阪神レース場、天候は晴れ! しかし発表された芝のバ場状態は『稍重(ややおも)』です!』

 

 そのアナウンスを聞いた瞬間、私の口角は自然と深く吊り上がった。

 稍重。レース前夜から今朝にかけて空は意地悪なほどにすっきりと晴れ渡り、強烈な初夏の日差しが阪神レース場を容赦なく照りつけていた。表面の芝生だけを見れば、乾いて走りやすい良バ場に見えるかもしれない。スピードに絶対の自信を持つ者たちの中には、これなら自分のトップスピードが活かせると安堵の息を吐いた者もいるだろう。

 

 だが、それは致命的な錯覚だ。

 あの深夜一時、私のスマートフォンの雨雲レーダーを紫色に染め上げ、局地的にこの阪神レース場の真上から叩きつけられた、バケツをひっくり返したような尋常ではない豪雨。

 あの大雨がもたらした大量の水分は、強い日差し程度では決して蒸発などしない。芝の根を伝い地中深くまで浸透した水は、見えない土の層をじっくりと、そして確実に、重く粘り気のある『泥』へと作り変えていたのだ。

 

 表面は乾き、下地は泥濘。これこそが、スピードに乗って強く踏み込もうとするライバルたちの脚を根元から絡め取り、スタミナを無慈悲に削り取る、最凶のトラップ。

 あの夜、私と伊関さんが尊厳を引き換えにして踊った狂気の雨乞いは、この宝塚記念の舞台を、私に最も都合の良い「隠された沼地」へと完璧に仕立て上げてくれたのである。

 

「笑いが止まらないって顔だな、リバーライト」

 

 地下通路の出口の少し手前。壁に寄りかかり、腕を組んで私を待っていた伊関トレーナーが、呆れたような、けれどどこか頼もしげな声で言った。

 

「そりゃあ、笑いますよ。最高じゃないですか、このバ場」

「ああ。天性のバネを持つ連中は、踏み込んだ瞬間に自分たちの推進力が泥に吸い込まれることに気づいて驚愕するだろうな。逆にお前にとっては、重たいスクリューが活きる絶好のバ場だ」

 

 伊関さんは壁から背中を離し、私の目の前に立った。

 その視線の先、ターフへと続く光の出口へと歩いていく、数名のウマ娘たちの背中があった。

 

「だが、油断するなよ。あそこにいるのは、泥に足を取られた程度で諦めるような、柔なプライドで走ってる連中じゃない」

 

 伊関さんの言葉に、私は深く頷き、前を歩く彼女たちの背中を見据えた。

 今年の宝塚記念に集まったのは、日本レース界の結晶とも言える、正真正銘の強者たちだ。

 通路の少し先を、静かに、けれど周囲の空気を歪ませるほどの異常な覇気を纏って歩くウマ娘たちがいる。

 

 春のクラシック戦線で皐月賞と日本ダービーを圧倒的な力で制し、世代の頂点に立った荒ぶる二冠ウマ娘、ドゥラメンテ。

 彼女はダービーの後、両脚を骨折するという致命的な重傷を負った。ウマ娘にとって、骨折は文字通り死に直結する絶望だ。しかし彼女は、その絶望の淵から這い上がり、再びこのグランプリの舞台へと戻ってきた。彼女の背中から放たれるのは、折れた刃を自らの執念で鍛え直したような、痛々しくも恐ろしいほどの鋭い闘気だった。

 

 そして、そのドゥラメンテのさらに前。威風堂々と、誰よりも輝いて見える背中。通称お祭り娘、キタサンブラック。

 昨年の有馬記念、私が大外枠からすべてを投げ打って追いかけ、それでも最後の最後で届かなかった、巨大な城壁。一度先頭に立たせれば、無尽蔵のスタミナと完璧なペース配分で、後続を完全にシャットアウトしてしまう絶対的な支配者。

 

 他にも、重バ場を全く苦にしないサトノクラウンや、不気味な底力を秘めたシュヴァルグランなど、視界に入るすべての背中が、息が詰まるほどのプレッシャーを放っている。

 

「すごい」

 

 私は自身の胸に手を当て、ドクン、ドクンと早鐘を打つ心臓の鼓動を確かめた。

 

「怖くないのか?」

 

 伊関さんの問いに、私は首を横に振った。

 

「怖いですよ。正直、あんな途方もないひとたちと同じ空気を吸ってるだけで、膝が震えそうです」

「……」

「でも、それ以上に、私のエンジンが、早くあの人たちと泥まみれで真っ向勝負をしたくてウズウズしてるんです」

 

 私は、太ももの筋肉にグッと力を込めた。

 春の目黒記念で周囲から強烈な重圧を背負いながらも、風の壁を切り裂いて完成させた『6速』のオーバートップギア。

 あの地獄のような特訓と、実戦で得た確かな最高速の感覚が、今の私を支える最強の装甲となっている。

 

 それに、私にはもう一つ、絶対に負けられない理由があるのだ。

 あの冬の日、マキちゃんと同室になって初めて一緒に眠った夜、彼女と交わした約束。

 マキちゃんが安心して復帰できる空を作るためには、私がここで、この強敵たちに全力で競り勝ち、『世界で一番強くて重いのはリバーライトだ』と証明しなければならない。

 

「……伊関さん」

 

 私は、真っ直ぐに伊関さんの目を見つめた。

 

「カエルの舞の対価、きっちり払ってきます。……私から目を離さないでくださいね」

「ああ。行ってこい、リバーライト。阪神のターフを、お前の力強い航跡で塗り替えろ」

 

 伊関さんの力強い言葉を背に受け、私は地下通路の最後の一歩を踏み出した。

 眩い光が、私の視界を真っ白に染め上げる。

 そして次の瞬間、鼓膜を突き破るような大歓声と、ブラスバンドが奏でる宝塚記念の荘厳なファンファーレが、私の全身に降り注いだ。

 夏空の下、緑色に輝く阪神レース場のターフ。私は一歩、その芝生の上に足を踏み入れた。

 

 ——ズブッ。

 

 靴底を通して、表面の芝の下に隠された、水分をたっぷりと含んだ重い土の感触がダイレクトに伝わってくる。

 思わず、喉の奥から深い笑いが漏れた。

 

(最高の泥だ。これなら、どこまでも深く潜れる)

 

 荒ぶる二冠ウマ娘も、絶対的な逃げの王者も、すべて私の泥まみれのエンジンで真っ向から捉えてみせる。

 私は、ターフの感触を確かめるように深く息を吸い込み、自身の内側にあるエンジンへ、力強い点火スイッチを入れた。

 宝塚記念。隠された泥濘の舞台で、不格好な重戦車の、すべてを掻き開くための進撃が、今、静かに始まろうとしていた。

 




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