祭りでも、怪物でもなく   作:藤沢大典

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第43話:決戦の宝塚と、泥濘の女王(前編)

 強烈な初夏の日差しが、満員の阪神レース場を白く焦がしていた。

 ゲート裏で待機する私の肌を、ジリジリと焼け付くような熱気が撫でていく。10万人を超える観衆が放つ地鳴りのような熱狂は、上空に停滞する湿った空気と混ざり合い、息を吸うだけで肺が焼けるような錯覚を覚えさせた。

 場内の巨大なスピーカーから、実況アナウンサーの高く澄んだ声が響き渡る。

 

『ファンに選ばれた誇りを胸に、託された夢をその手に。初夏の青空のもと、阪神レース場に集う17人のウマ娘たち。上半期を締めくくるグランプリ、宝塚記念。間もなく出走です』

 

 私は、自身の引き当てた『8枠16番』のゲートへとゆっくり歩みを進めながら、ターフの芝生を靴底でグッと踏みしめた。

 

(……うん。完璧だ)

 

 表面の芝は乾いている。だが、踏み込んだ瞬間に靴底から伝わってくる、ズブッという微かな沈み込み。深夜のあの凄まじい豪雨が地中深くに残した、重く、粘り気のある泥の感触。

 この隠された沼地は、スピードに絶対の自信を持つ強敵たちの脚を確実に絡め取り、その鋭いバネの威力を奪ってくれるはずだ。

 

『ドゥラメンテとキタサンブラック。GⅠ2勝同士の激突となったこのレース。ファン投票ではキタサンブラックが1位でしたが、当日はドゥラメンテが一番人気』

『約一年ぶりとなる直接対決ですからね。成長した両者がどのようなレースを見せてくれるのか、今から楽しみです』

 

 解説の声が耳に届く。

 そう、世間の注目は完全にその『二強』に絞られている。

 一度先頭に立たせれば後続を絶望させる絶対王者・キタサンブラックと、骨折の悪夢から蘇り、凄まじい末脚で世界を狙う怪物・ドゥラメンテ。誰もが、この二人のマッチレースを疑っていない。有馬記念で4着に敗れ、目黒記念でも2着だった私の名前など、大観衆の意識の片隅に入っていれば御の字といったところだろう。

 

 だが、それでいい。

 私はゲートに収まり、太ももの筋肉にゆっくりと力を込めた。心臓の奥底にある重厚なエンジンが、静かにアイドリング音を響かせ始める。

 

(……見ててね、マキちゃん。お姉ちゃんが、強敵たちを全部この泥だらけのエンジンで追い抜いて、マキちゃんの空を掴み取ってみせるから)

 

 ブラスバンドによる、宝塚記念の荘厳なファンファーレが鳴り響く。

 10万人の手拍子が、私のエンジンのアイドリング音と同調していく。

 

『お祭り娘キタサンブラック、帰ってきた怪物ドゥラメンテ。果たして勝つのはどのウマ娘か。さぁ、ファンの夢が、そして世界への夢が走る宝塚記念。今』

 

 ——ガチャンッ!!

 

『スタートしました!』

 

 視界が開け、17頭のウマ娘が一斉に夏のターフへと飛び出した。

 私は大外16番枠から、決して無理はせず、けれど確実に自身のテンポを刻んでターフへと滑り出した。

 

『まずは先頭争いです。好スタートはキタサンブラック。今日も先頭に立ってレースを引っ張ります』

 

 私の前方、内側のラチ沿いを、美しい黒髪をなびかせた長身のウマ娘が滑るように駆け抜けていく。キタサンブラックだ。彼女がハナ(先頭)を主張した瞬間、レース全体の空気がピリッと張り詰めた。誰も彼女を突っつけない。突っつけば、彼女の無尽蔵のスタミナに巻き込まれて自滅するだけだからだ。

 

『最初のホームストレッチ。ファンの大きな歓声が17人を迎えます』

 

 スタンド前を通過する。

 鼓膜が破れそうなほどの歓声の壁。

 私は、自身の位置取りをバ群の中団、外側に定めた。有馬記念のように無謀な先行策は取らない。私の目的は、この隠された重バ場の中で、スピード自慢たちが徐々にスタミナを消耗していくのを待つことだ。

 

『先頭キタサンブラック、2番手に4番ツーアンドロンリー、10番カノンミルフィーユ、5番シュヴァルグラン。ドゥラメンテは中段バ群の後ろ、現在後方四番手、サトノクラウンがそれに続き第一コーナーを回っていきます』

 

 第一、第二コーナー。

 私の少し後方、バ群の内に潜むドゥラメンテの気配を肌で感じる。まるで研ぎ澄まされた刃物のような、触れれば切れるほどの鋭い闘気。彼女は最後方付近でじっと息を潜め、最後の直線にすべてを懸けるつもりだ。

 

『逃げるキタサン、控えたドゥラメンテ。対象的な走りになった。先頭キタサンブラック2バ身のリード。第2コーナーを回って間もなく向正面に入ります。2番手4番ツーアンドロンリー、10番カノンミルフィーユ、外から11番ナンポウフォックス、並んでシュヴァルグラン。中断後方のバ群のなか、ここにいた。世界を狙う怪物ドゥラメンテ。サトノクラウンもそれを追う』

 

 向正面に入り、私は自身のエンジンの回転数を一定に保ちながら、前を走る集団の脚取りを冷静に観察していた。

 ……おかしい。

 前を走るウマ娘たちの息遣いが、早くも乱れ始めている。表面の乾いた芝に騙され、いつもの良バ場の感覚でスピードに乗ろうとした結果、地中の泥に脚を吸い取られ、目に見えないスタミナの消耗を引き起こしているのだ。

 そして、その直後。

 場内の電光掲示板に表示されたタイムを見て、私は思わず息を呑んだ。

 

『前半の1000mは59秒1』

 

(……59秒1!? この重バ場で!?)

 

 私は戦慄した。

 水を含んだ重い芝で、前半1000mを59秒台という超ハイペース。

 キタサンブラックだ。彼女は、この隠された泥の重さを完全に理解した上で、自らの無尽蔵のスタミナに物を言わせて、後続のウマ娘たちをスタミナの消耗戦に強制的に引きずり込んでいるのだ。

 ペースについていこうとした先行勢は、この過酷な泥の中で確実に脚を無くす。

 

(……なんて強さだ。でも、それなら!)

 

 私も、ここでジッとしているわけにはいかない。

 この泥沼の消耗戦は、むしろ私が最も得意とする土俵だ。

 

『レースも後半、最後まで持たせるかキタサンブラック』

 

 第3コーナー。

 阪神レース場特有の、下り坂から始まる勝負所。

 前のウマ娘たちが、ハイペースと泥の重さに耐えかねてズルズルと後退を始める。バ群が凝縮し、進路が塞がりかける。

 私は、脳内で重たいクラッチを蹴り飛ばした。

 

(……回れ!! 私のスクリュー!!)

 

 私は、バ群の外側へ舵を切り、そこから一気にエンジンの回転数を上げた。

 ——ドッ、ドッ、ドッ、ドッ!

 泥に足を取られるライバルたちを横目に、私の強靭な脚力は、泥の粘り気すらも推進力に変えてターフを掻き進む。春の特訓で身につけた高いギア比が、釣り合いなスピードをもたらしていく。

 

『キタサンブラック先頭、リードが1バ身半。だが第4コーナー手前で16番リバーライトが上がっていく。依然としてドゥラメンテはバ群の中』

 

 実況が私の名前を呼んだ。

 大外からの、強引な捲り(まくり)。

 有馬記念の悔しさを、目黒記念の枷を、すべて力に変えて。私は風の壁を切り裂きながら、前を往く絶対王者の背中だけを視界の中央に捉えた。

 

(……見えた。キタサンブラック!!)

 

 太ももの筋肉が熱く脈打ち、全身から白い湯気が立ち上る。

 第4コーナーの終わり。

 いよいよ、上半期の頂点を決する最後の直線、運命の急坂へと、泥だらけの装甲車が力強く突入していく。

 




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