第4コーナーの終わり。
視界が大きく開け、阪神レース場が誇る広大な最終直線が私の前に姿を現した。
それと同時に、スタンドを埋め尽くす10万人の観衆から放たれた、悲鳴とも怒号ともつかない地鳴りのような歓声が、物理的な壁となって全身に叩きつけられる。
『さぁ最終コーナーを回って直線を向いた、先頭キタサンブラック、2バ身のリード、2番手7番ブラーヴォデイ、外から16番リバーライト、さらにシュヴァルグラン、大外からサトノクラウンも突っ込んでくる!』
私の前方には、依然として美しい黒髪を揺らしながら先頭を駆け抜ける絶対王者・キタサンブラックの大きく頼もしい背中があった。
前半1000mを59秒台という凄まじいハイペースで逃げながら、彼女の脚色は全く衰えを見せていない。それどころか、後続を絶望させるための最後のギアを上げようとしている。
だが、私の脚も止まらない。
表面だけが乾き、地中深くに粘り気のある泥を隠し持ったこの稍重のターフは、キタサンブラックの背中を追おうとする他のライバルたちの体力を、容赦なく奪い去っていた。軽快なステップで走ろうとする者ほど、踏み込んだ瞬間に泥に脚を絡め取られ、見えない鎖で後ろへ引きずり戻されていく。
しかし、私の小柄な体躯に積まれたエンジンにとって、この泥の抵抗は全く苦にならない。むしろ、周囲のスピードが落ちるこの底なし沼こそが、私の無尽蔵のスタミナが最も活きる最高の土俵だ。
(……届く。今日の私なら、絶対にあの背中に届く!!)
私は歯を食いしばりながら、大外から一気に内へと切れ込み、逃げる王者の背中へと迫る。
そして、阪神レース場の魔物――ゴール前にそびえ立つ急坂へと、全ウマ娘が一斉に突入していく。
『さぁ残り200m、一斉に坂を登る。そしてここで来た。バ群を割って怪物ドゥラメンテが先頭に迫る、迫る!』
実況の絶叫が響いた瞬間、私のすぐ右側、大外のコースから、信じられないような力強いスパートで道を切り開いてきた一人のウマ娘が急浮上してきた。
ドゥラメンテ。
春のクラシックを圧倒し、骨折という絶望の淵から這い上がってきた執念の怪物。
彼女が纏う覇気は、周囲の空気を歪ませるほどに凄まじかった。この泥の急坂を、彼女は自身の強靭な精神力と限界を超えるような鋭い踏み込みで真っ直ぐに切り開いてくる。
『ドゥラメンテ、苦しくなったかドゥラメンテ! 先頭はまだキタサンブラックだ! 先頭キタサンブラック、しかしドゥラメンテ突っ込んでくるぞ!』
逃げる内側の長身、キタサンブラック。
大外から猛追する巨体の怪物、ドゥラメンテ。
私は、その二強のちょうど真ん中――二人の間にすっぽりと挟まれるような形で、泥を蹴り上げながら急坂を登っていた。
私を挟んで右と左、日本ウマ娘界の頂点に立つ二人の圧倒的な才能が、限界を超えた死闘を繰り広げている。
……しかし。
真ん中を走る私は、信じられない事態に直面していた。
(……ちょっと待って。この二人、私のこと全く見てない……!)
キタサンブラックの視線は、猛追してくる外側のドゥラメンテにのみ向けられている。
ドゥラメンテの獲物を狙うような眼光は、逃げる内側のキタサンブラックだけを真っ直ぐに射抜いている。
長身の二人の視線は、小柄な私の頭越しに、バチバチと激しい火花を散らして交錯していた。彼女たちの頭の中は完全に『宿命のライバルとの一騎打ち』であり、間に挟まり、泥だらけになって脚を回し続けている私の存在など、完全に視界から抜け落ちていたのだ。
……上等だ。
私の存在が視界から抜け落ちているのなら、力ずくでその目に焼き付けてやる。
私は残り200mの急坂の入り口で、自身の内側にあるエンジンへ、最終段階の点火スイッチを入れた。
春の特訓で手に入れた私の最高速、『6速』、オーバートップギア。
——ガキンッ!!
脳内で、巨大な歯車が完璧に噛み合う音がした。
ブレない体幹が弾け、急坂の抵抗すらも完全に無視して、私のトップスピードが爆発的に跳ね上がる。
――ドッ、ドッ、ドッ、ドッ!!
私が強烈なエンジン音を響かせ、泥を跳ね上げながらついにキタサンブラックの真横へと並び掛けた、その瞬間だった。
突如として真ん中から猛スピードで競りあげてきた私の存在に気づき、キタサンブラックが信じられないものを見るように、大きく目を見開いた。
「ええええ、誰ぇー!?」
王者の口から、悲鳴にも似た、素っ頓狂な声が漏れた。
私の思考が一瞬、真っ白になる。
今まで完全に眼中に無かったのか。有馬記念の時もその背を追い抜いてやろうとずっと張り付いていたにも関わらず、私のことなんか。
さすがにカチンときた私が、酸素が足りない肺に無理やり空気を吸い込み、何か文句を言い返そうとした、まさにその時だった。
10万人の歓声と怒号が渦巻くスタンドの最前列から。
マイクを通した実況すらも切り裂くような、鼓膜を震わせる野太い絶叫が、私の耳に飛び込んできた。
「行けえええぇ! リバーライトおおおぉぉぉ!!」
……伊関さんだ。
普段は無茶な特訓を課して、それをクリアしても口の端でにやりと笑うだけだったあの人が。ぶっきらぼうながらも常に冷静で、大きな感情を表に出さないあの人が。手すりから身を乗り出し、顔を真っ赤にして、なりふり構わず私の名前を叫んでいた。
その声を聞いた瞬間。
言い返そうとしていた私の口はピタリと閉じられ、怒りも、圧倒的な才能への悔しさも、すべてが燃え盛る燃料となってエンジンへと注ぎ込まれた。
(……行くッ!! 私が、この泥の覇者だぁぁっ!!)
私は、すでに最高速で回っている6速のエンジンに、さらなる過負荷をかけた。
メーターの針が跳ね上がり、決して踏み込んではならない危険領域、レッドゾーンを完全に振り切る。
肺が焼け焦げ、全身の筋肉が千切れそうに悲鳴を上げようとも構わない。
私を無視して一騎打ちを演じていた二人の強者の間を、真っ直ぐに力強くこじ開けるようにして、限界を超えた私の身体が一気に突き抜けた。
大観衆の悲鳴が、驚愕のどよめきへと変わる。
先頭に躍り出た私の左横で、ドゥラメンテが最後の力を振り絞るように猛然と迫ってきた。ゴウッと風を切る音が聞こえるほどの凄まじい末脚。彼女の執念が、私の横顔を圧倒するような勢いで迫ってくる。
(抜かせるかっ! 絶対に抜かせないっ! マキちゃんに、約束したんだ!!)
強者の鋭い末脚。
だが、限界を突破し、底なしのスタミナで回り続ける私の脚は、そんなものでは止まらない。
私は歯を食いしばり、泥に沈み込むドゥラメンテの脚とは対照的に、さらに一定の、狂いのないリズムで泥を蹴り飛ばして加速した。
「あああああぁぁぁぁッ!!」
私は、雄叫びを上げながら、最後のターフを掻きむしった。
そして。
視界が真っ白に染まり。
私の小さな身体は、誰よりも早く、宝塚記念のゴール板を駆け抜けていた。
『しかしリバーライト飛び込んできた! リバーライトだああ! 勝ったのは祭りでも怪物でもない、リバーライトだ!! 内のキタサンブラックを差し切り、そして外からドゥラメンテの猛追を凌ぎ切った、グランプリ制覇は16番リバーライトです!』
「……はぁっ……はぁっ……はぁっ……!!」
ゴールを過ぎて、スピードを緩めながら、私はターフの上に崩れ落ちそうになるのを必死に堪えていた。
肺が焼けるように熱く、全身の筋肉がオーバーヒートを起こしてガクガクと震えている。
振り返ると、そこには信じられない表情で立ち尽くす長身のキタサンブラックと、崩れ落ち膝をつくドゥラメンテの姿があった。
「……勝った。……勝ったんだ」
私は、泥だらけになった自身の両手を見つめ、ゆっくりと天を仰いだ。
梅雨の晴れ間、初夏の眩しい青空がどこまでも広がっている。
けれど、私の足元には、私が愛し、私が真っ向からねじ伏せた深い泥が確かに存在していた。
「……マキちゃん。……伊関さん」
私は、荒い息を吐きながら、空に向かって小さく呟いた。
呟いた瞬間、胸の奥から熱いものが一気に込み上げてきた。
勝った。本当に勝ったんだ。
才能もない、身体も小さい私が、あの強敵たちと真っ向からぶつかり合って、限界を超えてこの泥のバ場で競り勝って、上半期の頂点に立ったんだ……!
「……やったああああああ!」
自分の背丈ほどもあるかという勢いで、私の体は、阪神の夏空へ向かって高く、力強く跳ね上がった。
空中で、私は力いっぱい拳を握り、スタンドの伊関トレーナー、そして、寮の部屋でテレビを見ているはずの妹、マキちゃんに向かって、渾身のガッツポーズを決めた。
「見たかぁぁぁマキちゃん!!! お姉ちゃん、やったよぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
空中で叫んだ私の顔は、涙と鼻水と、そして飛び散った泥でぐしゃぐしゃになっていたけれど、間違いなく、今、この瞬間、世界で一番、最高に輝いている笑顔だった。
お互いしか見ていなかった絶対王者も、執念の怪物も、すべてを真ん中から力強くこじ開けて。
小さな体躯の不屈のエンジンはついに、世界で一番高くて、泥だらけの空を、その手で掴み取ったのだ。
全てはこの瞬間を描きたかったが為に。
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