狂騒の宝塚記念から数時間後。
新幹線を乗り継ぎ、夜の帳が下りた東京都府中市のトレセン学園へと帰り着いた私は、自分の部屋のドアノブに手をかけた。
全身の筋肉は、悲鳴を通り越して麻痺している。
あの泥濘の中でオーバートップギアを回しきった上に限界突破までした私のエンジンは、その代償としてこれまでにないほどの深い疲労と熱を身体の奥底に残していた。一歩歩くごとに、太ももやふくらはぎの筋繊維が軋む音が聞こえる気がした。
――ガチャ。
ゆっくりとドアを開けると、オレンジ色の温かい常夜灯に照らされた部屋の中で、マキちゃんがベッドの上に座って私を待っていた。
「……おかえり、お姉ちゃん」
二人きりの部屋。彼女は、ふわりと柔らかい、本来の妹としての顔で私を出迎えてくれた。
「ただいま、マキちゃん」
私は、重い足取りで部屋に入り、肩から下げていたスポーツバッグを下ろした。そして、その中からベルベットのケースを取り出し、マキちゃんの膝の上へとそっと置いた。
ケースを開けると、中には宝塚記念の優勝者にだけ贈られる、輝かしい盾が鎮座している。
「約束通り……マキちゃんのための空、全部綺麗に掃除しておいたよ」
「……うん。テレビで見てた。……あの二人の間を割って出てきた時、お姉ちゃんの小さな身体が、本当に全てを切り裂いていく装甲車、どころか戦艦みたいだった」
マキちゃんは、優勝盾の冷たい金属の感触を指先でそっと撫でながら、ポロポロと大粒の涙をこぼした。
それは、冬の夜に流した絶望の涙ではない。私が約束を果たしてくれたことへの、純粋な安堵と歓喜の涙だった。
「……私もね、今日、お医者さんから言われたんだ」
マキちゃんは涙を拭い、ベッドからゆっくりと立ち上がった。
松葉杖はない。サポーターも外れている。
彼女は、少しだけ細くなった自身の左脚にしっかりと体重を乗せ、私の前で小さく、けれど確かな力強さでジャンプしてみせた。
「もう、普通に走っていいって。……私の翼、ちゃんと治ったよ」
「マキちゃん……っ」
「お姉ちゃんが作ってくれた、一番高くて綺麗な空。……今度は私が、もう一度あそこまで飛んでいく番だね」
マキちゃんの瞳には、一番星としての力強い輝きが、完全に戻っていた。
私は、彼女の小さな身体を力いっぱい抱きしめた。
ああ、よかった。私の泥だらけの航跡は、無駄じゃなかった。
今日、あの阪神の急坂で叩き出した最高回転数は、間違いなく私のウマ娘としての『生涯のピーク』だった。もう二度と、あんな無茶なトップスピードは出せないかもしれない。身体の奥底で軋むパーツたちが、限界を告げているのが分かる。
けれど、それでいい。私の役目は、この腕の中にいる一番星に、もう一度空を渡すことだったのだから。
――ブルルルルッ。
静かな部屋に、突然私のスマートフォンの着信音が響いた。
画面を見ると、そこには懐かしい、けれど少しだけ緊張を覚える名前が表示されていた。
「……ルクス先輩?」
私はマキちゃんと顔を見合わせ、通話ボタンを押して耳に当てた。
『……久しぶり、遅くに悪かったな。泥濘の女王様』
スピーカーの向こうから、少しだけぶっきらぼうで、けれどどこか楽しげなルクス先輩の声が聞こえてきた。
「先輩! レース、見ててくれたんですか」
『当たり前だろう。私の同室で泥だらけのままベッドに寝ていた奴が、グランプリに出てるんだからな。……相変わらず無骨で、泥臭くて、他の連中が最高に息苦しくなるようなレースだったな。……おめでとう、リバーライト』
「……ありがとうございます。先輩のベッド、マキちゃんがすごく大事に使ってますよ」
私が横目でマキちゃんを見ると、彼女は嬉しそうに小さくピースサインを作った。
『……リバーライト。お前、今日のレースで、エンジンの底、全部使い切っただろう』
ルクス先輩の不意の指摘に、私は少しだけ息を呑んだ。
映像越しでも、才能の塊であった先輩には分かってしまったのだ。私が限界以上のギアを回し、身体のピークをあの一瞬で燃やし尽くしてしまったことを。
「……ええ。たぶん、今日が私の最高速です。もう二度と、あんな風には脚は回らないと思います」
『そうか』
ルクス先輩は、少しだけ沈黙した後、ふっと静かに笑った。
『……怖いか? これから先、後輩たちに追い抜かれていく自分の姿を想像するのは』
「……いいえ」
私は、自身の太ももにそっと手を当てた。
「先輩が引退レースの時……どうしてあんなに堂々と、負けても誇り高く立っていたのか。今日、頂点からの景色を見て、少しだけ分かった気がするんです」
『……ほう?』
「頂点に立った者にしか得られない誇りがある。……これからは、私がその称号を背負って、壁になる番なんですよね。後から現れるエースたちに、空を飛びたければ私という泥を振り切ってみせろ、って教えてあげますよ」
私が不敵に笑うと、電話の向こうのルクス先輩も、満足そうに声を上げて笑った。
『フッ……ハハハッ! 言い切ったな、リバーライト。その意気だ』
先輩の声は、現役時代のような荒々しさを残しつつも、とても穏やかだった。
『才能の限界なんて関係ない。お前のその泥臭いエンジンが完全に止まる日まで、胸を張ってターフを這いずり回れ。……お前が足掻けば足掻くほど、後に続く奴らは、お前という『壁』の厚さに敬意を払うことになる』
「……はい。見届けていてください、先輩。私のエンジンは、そんなに簡単にエンストしませんから」
電話が切れ、部屋には再び静寂が戻った。
私はスマートフォンをデスクに置き、窓の外の夜空を見上げた。
梅雨の雲の隙間から、星が一つ、静かに瞬いている。
「……お姉ちゃん。今の、前のルームメイトの人だよね?」
「うん。……ちょっとだけ、答え合わせをしてたんだ」
私は、ベッドに腰掛けるマキちゃんに向き直り、穏やかに微笑んだ。
「さあ、お姉ちゃんはもう寝るよ。流石に今日は疲れたー、もう限界だよ」
「ふふっ、お疲れ様。……今度は私が、お姉ちゃんを引っ張っていくんだから」
才能の限界、肉体のピーク。
そんなものは、とっくに今日、あの阪神の泥の中に置いてきた。
これからの私の戦績は、今日のように輝かしいものではないかもしれない。若い才能たちに、背中を見せる日が多くなるだろう。
けれど、私の心に一切の陰りはなかった。
なぜなら私は、世界で一番深く、底なしの泥を知る女王なのだから。
一番星が再び空へ飛び立つその日まで。
そして、小さな身体に積まれたこのエンジンが、その役目を終えて完全に静止するその日まで。
リバーライトの不格好で、泥だらけで、けれど誰よりも誇り高い航海は、ここからまた、新たなページへと進んでいく。