阪神レース場のターフを歓喜の泥で染め上げた、あの狂騒の宝塚記念から半年。
季節は足早に巡り、緑色だった芝生が冬特有の枯れ色へと姿を変えた、12月下旬。私は、一年を締めくくる夢の祭典、記念の舞台となる中山レース場の地下通路に立っていた。
コンクリートの壁に囲まれた薄暗い通路には、刺すような冬の冷たい空気が滞留している。深呼吸をするたびに、肺の奥がツンと痛むような寒さ。吐き出す息は真っ白な霧となって、すぐに暗がりへと溶けていった。
私の身体の奥底で、かつてどんなプレッシャーにも屈することなく回り続けていたエンジンは、今、とても静かなアイドリング音を刻んでいた。
あの日、『6速』のオーバートップギアを叩き込み、そこから更に限界以上の回転数を引き出した代償は、決して小さなものではなかった。焼き切れる覚悟で回した私のエンジンは、あの一瞬の輝きと引き換えに、もう二度とあの爆発的なトップスピードを生み出すことはできなくなっていた。
秋の始動戦となったオールカマーは、直線で伸びきれずに5着。
連覇を懸けて、再び一番星の妹と同じ舞台に立つことを夢見て挑んだエリザベス女王杯も、後方から迫る若いウマ娘たちの鋭い末脚に屈し、6着に敗れた。
どれだけ泥臭くスタミナを燃やし続けても、才能あふれるエリートたちが放つ若く鋭いスピードには、どうしてもあと一歩届かない。
この小柄な身体に積まれたエンジンが、すでにアスリートとしての明確なピークを過ぎ去ってしまったことは、私自身が一番よく理解していたし、きっと周囲の誰の目にも明らかだった。
そして今日。トゥインクル・シリーズの総決算たる、記念。
出走前の電光掲示板が示す、私の単勝オッズは『6番人気』。
ファンも、マスコミも、私がここで再び奇跡を起こし、あの夏のような圧倒的な走りで頂点に立つとは、もう誰も思っていないだろう。……恐らく、このレースも私にとって良い結果にはならない、そんな予感がしている。
そして同時に、軋みを上げる自身の太ももやふくらはぎの筋肉が、私に静かな事実を告げていた。
これが、私のトゥインクル・シリーズにおける最後の走りになるだろう、と。
(……でも)
私は、冷え切った自身の太ももを両手でパンッと叩き、ふっと柔らかく微笑んだ。
不思議なほど、悲観や絶望といった感情は微塵もなかった。
心にあるのは、どこまでも澄み切った冬の青空のような、清々しい誇りだけだ。
才能の限界を知りながら、それでもターフを去るその瞬間まで、絶対に顔を下げなかったウマ娘を私は知っている。
かつて同じ部屋で過ごし、私がその背中をずっと追い続けた誇り高き先輩、ルクスキャリバー。
彼女が引退レースで見せた、あの堂々たる姿。自分の限界を悟りながらも、勝敗という次元をとうに超え、自身の生き様を後輩たちに見せつけるような、強くて美しい走り。
自分が頂点からの景色を見た今なら、あの時の先輩の気持ちが、痛いほどよく分かるのだ。
私は、頂点の空の高さを知るGⅠウマ娘だ。
一番星の妹へ、一番高くて綺麗な空を掃除して引き渡すという、最大の約束も果たした。
ならば、残された私の最後の役目はただ一つ。
才能あふれる若きウマ娘たちが簡単に空を飛べないよう、この小柄な身体が動く限り、泥臭いエンジンが完全に焼き切れる最後の瞬間まで、堂々と立ち塞がる高い『壁』であり続けることだ。
抜けるのなら、抜いていくといい。けれど、生半可な覚悟で私の横を通り過ぎることは絶対に許さない。
——カツン、カツン。
私は、前をしっかりと見据え、ターフへと続く地下通路を歩み始めた。
通路の先、眩い冬の太陽が差し込む出口のすぐ手前で、腕を組んで壁に寄りかかる、見慣れたウィンドブレーカーに身を包んだ男がいた。
「……息は整ったか」
伊関トレーナーだった。
彼の目は、出会ったあの頃と何も変わらない。
私の限界を知り尽くしているはずなのに、決して同情や労いの色など浮かべない。ただ目の前の勝利だけを渇望し、どうすればこの不格好なエンジンでそれをもぎ取れるかだけを考え続ける、冷徹で、誰よりも熱い勝負師の目だった。
「はい。……いつでも行けます」
私は伊関さんの横に並び、ターフへと続く光のアーチを見据えた。
出口の向こう側から、10万人を超える大観衆の歓声が、地鳴りのように響いてくる。
冷たい風が吹き込み、私の勝負服を小さく揺らした。
もうすぐ、ファンファーレが鳴る。
私のウマ娘としての物語は、きっと今日で幕を下ろす。
けれど、私が愛した深い泥の感触も、妹に手渡した空の高さも、この小さな身体で怪物たちをねじ伏せたあの夏の日の記憶も。
すべては、決して消えることのない深い轍となって、このターフに、そして後に続く者たちの心に刻まれ続けるだろう。
「行くぞ、リバーライト」
伊関さんの、短くも力強い声が、冷たい地下通路に響いた。
私は、自身の内側にある、決してエンストすることのない不屈のエンジンに最後の火を入れ、彼に向かって満面の笑みで頷いた。
「はいっ、伊関さん!」
眩い光の中へ。
誇り高き小さな怪物は、自身の集大成となる最後の航海へ向けて、力強く、誰よりも堂々とした足取りでターフへと駆け出していった。
最後までお付き合いいただき本当にありがとうございました。
どうしてもアニメSeason3の「誰ぇ!?」が納得できず、結果としてこんな妄想話を垂れ流すこととなりましたがお楽しみいただけましたでしょうか。
きっとリバーライト以外のモブウマ娘ちゃん様たちにも似たようなドラマがあることでしょうが……今回はここで幕とさせていただきます。
またお会いできる時を楽しみにしております。重ねてありがとうございました。