祭りでも、怪物でもなく   作:藤沢大典

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第5話:秒針の逃亡者と小さな四駆

 6月初旬。初夏の生ぬるい風が窓を揺らす休日の午後。

 静まり返った寮の自室で、私は一人、薄暗い部屋の中でテレビの画面に食い入るように見入っていた。

 映し出されているのは、阪神レース場。目にも鮮やかな緑のターフの上で行われている重賞レース『鳴尾記念』の生中継だ。

 画面の中心、先頭をひた走るのは見慣れた黒い勝負服。私の同室の先輩、ルクスキャリバーだった。

 

「――ルクスキャリバー、依然として先頭! 後続を大きく引き離して逃げます! その差は3馬身、いや4馬身か!」

 

 実況の興奮した声が、部屋の空気をビリビリと震わせる。

 スタート直後のゲートが開いた瞬間から迷いなくハナを奪い、レースを力強く、そして美しく引っ張る先輩の走りは、まさに『完璧』の一言だった。

 無駄な力みが一切ない、精密機械のようなフォーム。一歩ごとのストライドの広さ、寸分の狂いもないペース配分、遠心力をまったく感じさせない滑らかなコーナリング。そのすべてが、ミリ単位で計算された高級時計の歯車のように正確に噛み合っている。

 後続のウマ娘たちが息を乱し、勝負所でムチを入れて必死に追いすがろうとしても、先輩の背中はただ残酷なまでに遠ざかるばかりだ。

 

(……すごい。あんなに美しい走りが、あるんだ)

 

 マキちゃんの才能の塊のような走りを見た時は、圧倒的な差に絶望し、ただ胸が痛くなるだけだった。彼女の走りは天からの授かり物のような、私には絶対に手の届かない星の輝きに見えたから。

 けれど、先輩の走りは違った。

 夜の静寂の中、自分の蹄鉄を専用のヤスリで削り、1グラムの狂いすら許さずに調整し続ける、あのストイックで孤高な後ろ姿を私は知っている。ただの天性の才能なんかじゃない。あの完璧な走りを作り上げ、維持するために、彼女がどれほど冷徹に己を律しているか。

 だからこそ、画面の向こうで後続をすり潰していく先輩の姿は、純粋に眩しく、そして恐ろしいほどに美しかった。

 

「――そのままゴールイン!! ルクスキャリバー、圧巻の逃げ切り! タイムは1分58秒9! なんと、コースレコードを大幅に更新しての堂々たる勝利です!」

 

 画面越しに響き渡る、割れんばかりの大歓声。

 後続に影すら踏ませない、完璧なレコード勝ち。

 私はテレビの前で膝を抱えたまま、無意識のうちに、ギュッと両手を握りしめていた。手のひらには、じんわりと熱い汗が滲んでいる。

 

『スピードでも、血統でもなく……お前のその、洗っても落ちない泥だらけの靴を見て声をかけたのなら。その男、見る目がないわけじゃないらしいな』

 

 泥だらけの私の靴を見て、不器用に肯定してくれた先輩の低い声が耳の奥に蘇る。

 エリートが集うこの学園の、頂点に近い場所で戦っているあの人が、私の不格好な足掻きを認めてくれた。その事実が、今の私にとってどれほど大きな救いと誇りになっているか、きっと先輩は知らない。

 

(私も……いつか、先輩と同じ場所に立ちたい)

 

 才能の違いなんて、もう嫌というほどわかっている。

 あんな風に、時計の針みたいに正確に、誰よりも速く駆け抜けることは私には一生できない。

 けれど、泥を這いずり回るような私のやり方で、あの歓声の中心に辿り着きたい。マキちゃんが駆け抜けたあの眩しいターフの上の景色を、並び立って、私自身の目で見たい。

 立ち上がると、太ももの裏側と腹筋の奥が、鈍い痛みとともに熱を持った。

 伊関トレーナーの指導のもと、倉庫で吐くほど繰り返しているスクワットと体幹トレーニング。そして、定食屋で胃袋の限界まで詰め込んでいる白米と鶏肉。

 鏡を見ても、まだ目に見える大きな変化はない。相変わらず小柄で、華奢な身体だ。けれど、私の内側では確実に何かが変わり始めている。ほんの少しだけ、地面を踏みしめる足の裏に『重さ』を感じるようになっていた。

 胸の奥で燻っていた小さな火種が、先輩の圧倒的な勝利を風にして、ゴウゴウと音を立てて燃え上がり始めていた。

 

 その日の夕方。

 私はいつもの薄暗い埃っぽい倉庫ではなく、多摩川の河川敷に呼び出されていた。

 数日晴れが続いたせいで、私がかつて泥まみれになって這いずり回っていたぬかるみはすっかり乾き、白茶けた土と深い草が生い茂る荒れ地になっていた。

 夕日に照らされた土手の下。そこに立っていた伊関トレーナーは、私と顔を合わせるなり、手元のノートを閉じて小さく口角を上げた。

 

「……いい目をするようになったな、リバーライト。今日の鳴尾記念、見たのか」

「はい……! ルクスキャリバー先輩、本当にすごかったです。レコード勝ちなんて……私、感動しちゃって、ずっと手が震えてました」

 

 興奮気味に語る私を見て、伊関さんは静かに頷いた。

 

「ルクスキャリバーの走りは、まさに『精密機械』だ。完璧なコーナリングと、1ハロンごとのタイムを一切狂わずに刻み続ける逃げ。最高のパーツを寸分の狂いもなく組み上げた、最高級のスポーツカーのようなレースだった」

「スポーツカー……」

「だが、お前の目指す場所はそこじゃない。お前はスポーツカーになんてなれやしないし、なる必要もない」

 

 伊関さんの静かで冷徹な声が、夕暮れの風に乗って響く。

 私は真っ直ぐに、伊関さんの目を見つめ返した。私がスポーツカーになれないことなんて、とっくに受け入れている。そのための、この数週間の地味で過酷な体幹トレーニングだったのだから。

 

「お前に必要なのは、軽やかなスピードや一瞬の切れ味じゃない。……『トルク』だ」

「トルク……ですか?」

「そうだ。瞬発力でトップスピードに乗るための軽い筋肉ではなく、どんなに重い負荷がかかろうと、自分の身体を強引に前へと押し進める、重く持続的な推進力。他の連中が息を上げ、脚を止める苦しいタイミングからでも、無理やりペースを上げてスタミナの削り合いに引きずり込む力。……お前の異常な心肺機能を最大限に活かしたロングスパートを打つための、強靭な後輪駆動だ」

 

 伊関さんは、私を導くように土手の下の深い草むらへと歩を進めた。

 そして、無造作に置かれていたブルーシートをバサリと剥がし、私に『それ』の全貌を見せた。

 それは、大型トラックのものと思われる、古く分厚い真っ黒な廃タイヤだった。

 表面の溝はすり減り、泥や砂がこびりついている。大人が両腕を広げても抱えきれないほどの巨大なゴムの塊。その中心には太く頑丈なロープが括り付けられており、ロープの先端は、ウマ娘が身体に装着するための革製のハーネスになっていた。

 

「お前にはこれから、この重いタイヤを引きずりながら河川敷を歩いてもらう」

 

 あまりの大きさと異様さに、私は息を呑んだ。

 エリートたちが使う、空気抵抗を計算された最新鋭のトレーニングマシンとは対極にある、ただひたすらに重く、泥臭い鉄とゴムの塊。

 

「リバーライト、お前は小柄で、エリートのようなバネもない。スポーツカーのような美しい加速は一生手に入らない。だが、泥濘(ぬかるみ)や悪路でも四肢で地面を掴んで決して離さない『小型の四駆』になることはできる。一度火がつけばどこまでも同じ出力で走り続けるエンジンを、その小さな身体に積み込むんだ」

 

 伊関さんは革製のハーネスを拾い上げ、私に向かって差し出した。

 夕日に照らされた巨大なタイヤが、まるで私を試すかのように黒く鈍い光を放っている。

 

「重心を浮かすな。前傾姿勢を保ち、両足で地面を深く噛み締めて、倉庫で鍛えた体幹で引っ張れ。芯がブレれば、1ミリも前に進まないぞ」

「……はいっ」

 

 私は、震える手を伸ばして、その分厚い革のハーネスを受け取った。

 先輩のような美しいスポーツカーにはなれなくても。

 私は泥を這う、小さな四駆になる。

 地を這うような過酷な特訓が、今まさに始まろうとしていた。




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