祭りでも、怪物でもなく   作:藤沢大典

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第6話:泥を噛む歯車

 ギリリッ、と分厚い革のハーネスが肩と胸元に食い込む。

 私は多摩川の乾いた河川敷で、背後に繋がれた巨大な廃タイヤを見据えながら、深く息を吸い込んだ。

 

「――っ、ふぅぅ……!」

 

 上体を前傾させ、両足を踏み出す。

 靴の裏のスパイクが白茶けた土を捉え、太いロープがピンと張り詰める。だが、背後の巨大なゴムの塊は、まるで地球の核にでも繋がれているかのように、ピクリとも動かなかった。

 

「上半身だけで引こうとするな! 前傾姿勢が崩れているぞ!」

 

 数メートル横を歩く伊関トレーナーの鋭い声が、容赦なく飛んでくる。

 

「スピードを出そうという意識が、無意識に上体を浮かせているんだ。お前の役割は『速く走る』ことじゃない。『重いものを確実に前へ運ぶ』ことだ。重心を下げろ! 膝を曲げて、骨盤を前へ押し出すようにして土を掴め!」

 

 私は歯を食いしばり、一度ロープのテンションを緩めて姿勢を作り直した。

 倉庫での地味なトレーニングを思い出す。不安定なバランスボードの上で、重いメディシンボールを抱えて耐え続けた、あの焼け付くような太ももと腹筋の痛み。

 今度はそれを、前へ進むための推進力――『トルク』に変換しなければならない。

 

(重心を、もっと下に……。足の裏全体じゃなく、親指の付け根で地面をえぐるように……っ!)

 

 深く腰を落とし、顔が地面につくほどの極端な前傾姿勢をとる。

 背中から足首までを、一本の太い鉄の杭に見立てて、斜め下に向かって大地に突き刺すようなイメージ。腹の底、丹田にすべての意識と力を集約させる。

 

「――っ、あぁぁぁぁっ!!」

 

 声にならない悲鳴を上げながら、力任せではなく、身体の芯を使って強引に前へ体重をかけた。

 肩の皮が擦り剥けそうなほどの激痛。太ももの裏側の筋肉が、限界を超えてブチブチと千切れそうな錯覚に陥る。

 

 ――ズルッ……ズズズッ。

 

 その時、背後の巨大なタイヤが、重苦しい音を立てて乾いた土を削りながら、ほんの数センチだけ前に動いた。

 

「そうだ! その感覚だ。そのまま止まるな!」

 

 ――ズズッ、ズズズズッ。

 

 一歩、また一歩。

 私の足取りは、這う虫のように遅かった。顔を真っ赤にして、汗と土埃にまみれながら、不格好に土を掘り返して進んでいく。

 エリートウマ娘たちがターフで見せるような、風を切る爽快感や、飛ぶようなストライドなんて微塵もない。泥臭く、ひたすらに痛く、苦しいだけの前進。

 

(重い……っ、重い、痛い……っ!)

 

 十歩も進まないうちに、全身の筋肉が悲鳴を上げ始めた。

 乳酸が急激に溜まり、脚が鉛のように重くなる。肺が酸素を求めて激しく収縮し、心臓が肋骨を突き破りそうなほど大きく脈打っている。

 普通なら、ここで足が止まる。痛みに耐えきれず、膝から崩れ落ちるはずだ。

 けれど、私の『異常な心肺機能』が、それを許さなかった。

 どんなに筋肉が悲鳴を上げても、私の肺は絶対に酸素を供給し続ける。どんなに苦しくても、心臓は決して音を上げずに血液を送り出し続ける。

 エンジンが止まらないから、脚を止めることができない。

 それはある意味、筋肉への拷問のような状態だった。

 

「顔を上げるな! 目線は常に地面の1メートル先だ。体幹がブレれば、せっかくのエンジンの出力が逃げるぞ!」

 

 伊関さんの声が、霞み始めた意識を現実に繋ぎ止める。

 私は滴り落ちる汗で視界を滲ませながら、ただひたすらに足元の土だけを見つめて、泥臭く地面を蹴り続けた。

 

 ――ズズズッ、ズズズズッ。

 

 タイヤが擦れる一定のリズムが、少しずつ、少しずつ、私の耳に馴染み始めていた。

 

(私は、スポーツカーじゃない……)

 

 痛みに歪む頭の中で、ルクスキャリバー先輩の美しいレコード勝ちの映像がフラッシュバックする。

 一切の無駄がない、精密機械のような逃げ。あんな風に、時計の針みたいに正確に、誰よりも速く駆け抜けることなんて一生できない。

 

(マキちゃんみたいな、一番星にもなれない……)

 

 才能の塊のような妹の、太陽みたいな笑顔。彼女が軽やかにターフを蹴るたびに、私との残酷な才能の差が浮き彫りになっていく。

 エリートたちには、生まれ持った『翼』がある。

 私には、翼はない。

 だから、地の底を這いずり回って、絶対に壊れない『四駆』の脚を作るんだ。

 他の連中が息を上げ、翼を折られて空から墜落してくる苦しいタイミング。そこから無理やりペースを上げて、絶望的なスタミナの削り合いに引きずり込むための、黒くて重いエンジンを。

 

(動け……! もっと、地面を噛め……っ!)

 

 不思議な感覚だった。

 最初は岩のように重かったタイヤが、少しずつ私の身体の一部のように感じられ始めていた。

 一歩踏み込むたびに、地面から反発する力が足の裏から腰、そして背中へと伝わり、それがロープを引く力へと変換されていく。倉庫でのスクワットが、定食屋で詰め込んだ白米が、伊関トレーナーの冷徹な言葉が、すべて一本の線に繋がっていくような感覚。

 

 ――ズズズズズズッ!

 

 タイヤの動くスピードが、ほんの少しだけ上がった。

 止まることなく、一定の速度で土をえぐり続ける。着火は遅いが、一度火がつけばどこまでも同じ出力で走り続ける、タフな重戦車の進軍。

 

「……いいぞ。そのペースだ」

 

 横を歩く伊関さんが、手元のストップウォッチを見つめながら低く呟いた。

 その声には、確かな手応えと、微かな高揚感が混じっていた。

 太陽が傾き、河川敷が茜色に染まり始めても、私の歩みは止まらなかった。

 汗は完全に乾ききり、塩の結晶となってジャージを白く汚している。肩の痛みも、脚の痙攣も、もはや麻痺して感じない。

 ただ、自分の呼吸の音と、タイヤが土を削る重低音だけが、世界のすべてだった。

 

「――そこまでだ」

 

 伊関さんの静かな声が響いた瞬間、張り詰めていた糸がプツリと切れ、私はそのまま前のめりに土の上に倒れ込んだ。

 

「……っ、あぁぁ……っ、はぁっ、はぁっ……っ」

 

 仰向けに転がり、茜色の空を見上げる。

 肺が壊れたふいごのように激しく上下し、全身の筋肉が小刻みに痙攣している。指一本動かす力も残っていない。

 視界の端に、伊関さんの影が落ちた。彼は私を見下ろし、持っていた水筒を無造作に私の顔の横に置いた。

 

「……よくやった。今日はここまでだ」

「はぁっ……はぁっ……あ、りがとう……ございます……」

「初めてにしては、上出来だ。……だが、明日は今日の倍の距離を引かせる。覚悟しておけ」

「……はいっ」

 

 かすれた声で返事をしながら、私は土にまみれた自分の両足を見つめた。

 泥だらけで、傷だらけで、不格好な脚。

 けれど、あの選抜レースの後にここで一人泣きながら走っていた時のような、惨めさや虚しさはどこにもなかった。

 私の身体の奥底には、確かに、黒くて重いエンジンが産声を上げ始めている。

 いつか、この重苦しい歩みが、あの華やかなターフを蹂躙する日まで。

 小さな四駆の過酷な土台作りは、まだ始まったばかりだった。

 




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