トレーニング三日目。
多摩川の河川敷に、日が沈んでから久しい。
初夏の夜風は少し冷たく、湿り気を帯びていたが、私の身体からは湯気が立ち上るほど熱を持っていた。
「――っ、あぁぁぁぁ……っ、ぐぅぅぅぅぅぅ……っ!!」
私はハーネスを肩に食い込ませ、声にならない絶望的な咆哮を上げながら、真っ黒な巨大廃タイヤを引きずっていた。
一日目、二日目とは、比べ物にならないほどの苦痛が全身を支配していた。
最初の二日間は、まだ伊関トレーナーに見出された『異常な心肺機能』という巨大なエンジンが、無理やり身体を動かしてくれていた。けれど、三日目の今日は違った。
筋肉痛という生易しいものではない。全身の筋肉繊維がブチブチと千切れ、骨が軋み、関節が磨り減っていくような感覚。特に、伊関さんが徹底して鍛えようとしている体幹(コア)と後駆(リア)の筋肉は、もう痙攣を通り越して麻痺し始めていた。
――ズルッ……ズズズッ。
タイヤが土を削る音が、私の耳には死神の足音のように聞こえる。
一歩踏み出すたびに、視界がチカチカと点滅する。意識が飛びそうになるのを、奥歯が砕けそうなほど噛み締めることで、どうにか繋ぎ止めていた。口の中には、鉄の味が広がっている。
「上体が浮いている!重心を下げろ!芯で地面を噛めと言っているだろう!」
伊関さんの、氷のように冷徹な怒声が飛ぶ。
痛い。苦しい。もう、無理だ。止まりたい。倒れ込みたい。
脳が、身体が、限界を訴えて叫んでいる。
けれど、私の心臓だけは、不気味なほど元気に脈打ち続けていた。
どんなに脚が痙攣しても、心臓は決して音を上げずに血液を送り出し続ける。どんなに肺が焼け付くように苦しくても、異常な量の酸素を取り込み続ける。
エンジンが止まらないから、脚を止めることができない。
それは、私の意志とは無関係に動き続ける、呪いのような駆動システムだった。
(マキちゃんは……っ、あの子は……こんな、惨めな思い……してないのに……っ!)
頭の中で、一番星のように輝く妹の姿がフラッシュバックする。
生まれ持った『翼』で、綺麗に、軽やかに、風を切って走るあの子。
私には、翼なんてない。
だから、地の底を這いずり回って、誰も見たことのない不格好な『四駆』の脚を作るんだ。
決して止まることのない、力強くて重厚なエンジンを。
「――っ、おぁぁぁぁぁぁっ!!」
怨念のような叫びとともに、残されたすべての力を丹田に集約し、地面をえぐるように踏み込んだ。
――ズズズズズズズッ!
タイヤがこれまでで一番大きく、力強く動いた。
「……そこまでだ」
伊関さんの静かな声が響いた瞬間、張り詰めていた糸がプツリと切れ、私はそのまま前のめりに土の上に倒れ込んだ。
寮へ続く夜道。
私は、自分がどうやってここまで歩いてきたのか、記憶が定かではなかった。
全身の筋肉が小刻みに痙攣し、一歩踏み出すたびに脳髄まで痛みが突き抜ける。ジャージの下の肩は、ハーネスで擦り剥けて真っ赤になり、体液がジャージに張り付いて痛かった。汗と土埃にまみれ、髪はボサボサで、ヒドい匂いがした。
すれ違うウマ娘たちが、奇異なものを見るような目で私を見ている。
彼女たちは、綺麗だった。トレーニング後でも、どこか爽やかで、明日への希望に満ちていた。
それに比べて、私はどうだ。ただ泥水を啜って、ボロ雑巾のようになって這いずり回っているだけ。
彼女たちのような、華やかな姿なんて微塵もない。
「……っ、う、ぅ……っ」
悔しさと、情けなさと、あまりの肉体的な苦痛に、涙が溢れてくる。
でも、立ち止まる力も、涙を拭う力も残っていなかった。ただ、一刻も早く、あの冷たくて静かな部屋に戻りたかった。
どうにか自分の部屋のドアの前まで辿り着き、震える手で鍵を開ける。
部屋の中は、真っ暗で、静まり返っていた。
ルクスキャリバー先輩は、まだ戻っていない。
あの完璧なレコード勝利を飾った鳴尾記念から数日。先輩は、勝利の余韻に浸る暇もなく、すでに次のレースを見据えて、より完璧な『調整』のためのメニューをこなしているのだろう。
私は、電気をつける気力もなかった。
どうにか靴を脱ぎはしたが、それ以上に何をする気力も無く、這うようにして自分のベッドへ向かう。
ジャージを着替える? シャワーを浴びる? 泥を落とす?
そんなこと、今の私には、エベレストに登るよりも不可能なミッションに思えた。
「……あぁ……っ」
私は、泥だらけのジャージ姿のまま、倒れ込むようにしてベッドに突っ伏した。
柔らかい毛布が、私のボロボロの身体を受け止めてくれる。
その瞬間、意識が急速に遠のいていく。
肩の痛みも、脚の痙攣も、悔しさも、すべてが暗い闇の中に沈んでいく。
私は、死んだように、眠りに落ちた。
意識が完全に途切れる直前、カチリ、と無機質な音が静まり返った部屋に響いたような気がした。
――――――
Side ルクスキャリバー
深夜の寮の廊下から差し込んだ一筋の光が、主を失ったかのように静まり返った室内を切り裂いた。
鳴尾記念の祝勝会を、私は『明日の調整がある』という一点張りで辞退して戻ってきた。完璧なレコード勝利を飾った後だからこそ、次のレースに向けたメンテナンスは一分一秒たりとも疎かにできない。それが私の流儀であり、誇りだ。
だが、ドアを閉めた瞬間に私の鼻腔を突いたのは、完璧に統制されているはずの自室には不釣り合いな、野卑で重苦しい匂いだった。
湿った土、焦げ付いたゴム、そして、絞り出すような汗の匂い。
「……掃除を怠るなと言ったはずだが」
私は低く呟き、壁のスイッチを入れて部屋に明かりを灯した。
目に飛び込んできたのは、あまりにも無様な光景だった。
自分のベッドに、泥だらけのジャージを着たまま突っ伏しているリバーライト。
靴こそ脱ぎ捨ててあるものの、シーツには茶色い土の色が移り、彼女の呼吸に合わせて埃が小さく舞っている。
溜息を吐き、不衛生なその惨状を叱責しようと近づいた。
しかし、彼女の枕元で足を止めた私の視線は、彼女の肩口に刻まれた『異様な痕跡』に釘付けになった。
「……これは」
ジャージの肩の部分が、激しい摩擦によって白く毛羽立ち、体液と土が混じった薄汚いシミを作っている。それは、何か極めて重いものを、自身の全体重をかけて長時間引きずり続けなければ決して付かない傷跡だった。
彼女に声をかけたという伊関というトレーナー。どうやら彼の指導は、学園の最新設備を鼻で笑うような、正気の沙汰ではない泥臭いものらしい。
この小柄で華奢な身体に、どれほどの理不尽な負荷をかければ、一日でここまでボロボロになるというのか。
呆れ、そして蔑むべき、あまりにも効率の悪い『旧式』の特訓。
だが、その不格好な姿を見下ろしていた私の耳に、異質な音が届いた。
――ひゅー、ひゅー。
掠れているが、深く、重い呼吸。
全身の筋肉が激しい痙攣を起こし、意識を強制的に遮断して眠りに逃げ込んでいるというのに、彼女の肺と心臓だけは、まるで持ち主の肉体の限界など知ったことではないと言わんばかりに、平然と駆動を続けていた。
普通なら、このレベルの疲労を負えば呼吸は浅く、心拍は弱まるものだ。だが彼女はどうだ。眠りという静寂の中にありながら、その胸は大きく、力強く上下を繰り返し、細胞の隅々にまで酸素を送り届け続けている。
「……異常だな」
私は、自嘲気味に口角を上げた。
私の走りは『精密機械』と称される。だがそれは、最高のコンディションという前提があって初めて成立する、脆い硝子の美しさだ。
対して、目の前で泥に塗れて眠るこの少女の『エンジン』はどうだ。
どれほど部品がひしゃげようが、
もし仮に、伊関という男が、この小さな身体に『どんな過酷なレースでも壊れない、鋼の肉体』を完成させてしまったとしたら。
そして、この心臓が、最後の直線、全員が息を上げた消耗戦の極地で、その真の牙を剥いたとしたら。
「……恐ろしい怪物を育てているな、こいつのトレーナーとやらは」
私は自分のベッドから、上質な毛布を一枚引き剥がした。
泥にまみれたジャージ姿。つんと鼻を突く汗の臭い。
普通の者なら顔を背けるようなその汚らしさを、私は今の彼女に感じていなかった。
私は静かに歩み寄り、泥と汗で汚れることも厭わず、その毛布を彼女の背中にそっとかけた。
「……このまま壊れてしまっては、待つこともできないではないか。……愚か者が」
誰もいない部屋。独り言のようなその声に、返事はない。
ただ、毛布の温もりに包まれたことで、彼女の呼吸がほんの少しだけ、穏やかになったように見えた。
私は自分の机に戻り、専用のヤスリと蹄鉄を手に取る。
シャッ、シャッ……という静かな研磨の音が、背後で響く彼女の重い呼吸音と混ざり合う。
才能がないと泣いていた臆病なルームメイトは、もういない。
彼女は地の底を這いずり回って、私のいるあの眩しいターフまで、その小柄な体躯に搭載しようとしている無骨なエンジンで駆け登ってくる気だ。
「……早く来い、リバーライト」
私は手元の蹄鉄を、いっそう鋭く、完璧に磨き上げ続けた。
完璧な時計の針を刻む私を、泥まみれの彼女が蹂躙しに来る、その