祭りでも、怪物でもなく   作:藤沢大典

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第8話:狂った体内時計と完璧な歯車

 朝の光が眩しい、学園のメインコース。

 そこには、最新の計測器を身に付け、軽やかに風を切る他のウマ娘たちの姿があった。彼女たちは1ハロンごとに速度を上げ、自身の限界を突破するための『瞬発力』を磨いている。

 そんな華やかな喧騒から少し離れたスタート地点。伊関トレーナーはストップウォッチを片手に、コースの白線をじっと見つめて立っていた。

 

「今日からは夕方の『タイヤ引き』と、朝の『計測走』をやっていく。河川敷で鍛えるのが出力(トルク)』なら、ここで鍛えるのは『制御(コントロール)』だ」

 

 私の手首に、無機質な計測用の腕時計が巻き付けられる。

 

「速く走る必要はない。だが、1周ごとに私が指定する目標ラップを、ぴったり正確に刻め。……1秒でも、いや、コンマ数秒でもズレたら、その時点でやり直しだ」

「ぴったり、正確に……」

「そうだ。お前の武器はタフなスタミナだが、エネルギーを無計画に垂れ流せば、ただの鈍重なランナーで終わる。エリート達に食らいつくには、自身の回転数を詳細に把握しなきゃならん」

 

 伊関さんの冷徹な声に頷き、私はコースに足を踏み出した。

 タイヤがない分、身体は羽が生えたように軽い。これならいける。私は自分の感覚を信じて、目標タイム通りになるようペースを調整しながら一周を走り抜けた。

 ピピッ、と無情な電子音が響く。

 

「プラス2.5秒。遅い」

「えっ……!?」

「次。やり直せ」

 

 二度目。今度は少しペースを上げる。

 

「マイナス1.2秒。速すぎる」

 

 三度目。

 

「プラス1.8秒」

 

 そこからは、地獄のような「反復」の時間が始まった。

 速すぎればブレーキをかけ、遅すぎれば焦って加速する。そのたびに私の心拍数は乱れ、無駄なエネルギーが消費されていく。

 タイヤを引く特訓なら、痛みに耐えて強引に進めばよかった。だが、この『正確さ』は、気合いや根性ではどうにもならなかった。自分の感覚が、信じられないほどに現実の時計とズレているのだ。

 

「――今日はここまでだ」

 

 日が傾き始めた頃、伊関さんがストップウォッチを下ろした。

 数十回の試行。結局、私は一度も目標ラップを正確に刻むことができなかった。

 

「お前の体内時計は、壊れたオモチャと同レベルだ。風の抵抗、路面の硬さ、昨日の疲労……外部の要因に振り回されすぎている。これでは、レースの勝負所で確実に息切れするぞ」

「……すみません」

「謝る暇があるなら、自分の身体と対話しろ。明日の朝、もう一度同じメニューをやる」

 

 夕日に照らされたターフ。

 体力的にはタイヤ引きよりもずっと楽なはずなのに、私の心はこれまでにないほど重く、深い疲労感に沈んでいた。

 

 その日の夜。

 静まり返った自室で、私はベッドの上で膝を抱えていた。

 

 ――シャッ……シャッ……。

 

 部屋に響くのは、ルクスキャリバー先輩が自身の蹄鉄を専用のヤスリで削る音だ。

 寸分の狂いもない、一定のリズム。その音を聞いているだけで、彼女がどれほど『正確な歯車』として自身を律しているかが伝わってくる。

 鳴尾記念での、あの完璧なレコード勝利。最初から最後まで、1ハロンごとのタイムを一切狂わずに刻み続けた、精密機械のような逃げ。

 

(……どうすれば、あんな風に時計の針みたいな正確になれるんだろう)

 

 私は自分の手首を見つめた。

 今日、いくら走っても合わせられなかった、コンマ数秒の壁。

 悔しさと焦りが胸を締め付ける。このままでは、せっかく伊関さんが見出してくれたエンジンも、ただの宝の持ち腐れになってしまう。

 

 ――シャッ……シャッ……。

 

 ヤスリの音が、メトロノームのように耳に響く。

 私は、ギュッとジャージの裾を握りしめ、意を決して顔を上げた。

 

「……先輩」

「なんだ」

 

 先輩はヤスリを動かす手を止めず、冷たい声で応えた。

 

「その……変なことを、聞くんですけど」

「変なことだと思うなら、聞くな」

「……っ。でも、どうしてもわからなくて。先輩は、どうしてあんなに……正確なラップを刻めるんですか?」

 

 ピタリ、とヤスリの音が止まった。

 恐る恐る先輩の方を見ると、彼女は椅子を回し、凪いだ湖面のような瞳で私を真っ直ぐに見据えていた。

 

「今日、ずっとコースで同じペースで走っていたな」

「えっ……見てたんですか」

「あれだけ不格好に加減速を繰り返していれば、嫌でも目につく。……時計の針にでもなろうとしているのか」

「伊関トレーナーに、自分のエンジンの回転数を正確に制御できなきゃ、勝負にならないって……。でも、何度やっても、自分の感覚と実際のタイムがズレてしまって……」

 

 情けなくて、声が小さくなる。

 才能のない私が、完璧な才能を持つ先輩にアドバイスを求めるなんて、おこがましいにも程がある。

 鼻で笑われるか、冷たく突き放されるか。そう思って身を縮めた私に、先輩は静かに言った。

 

「お前は、傲慢だな」

「えっ?」

「自分の『曖昧な感覚』だけで、時間を正確に測れると思っている。だからズレるんだ。時間は、気合いや感覚でどうにかなるものではない」

 

 先輩は机の上に置かれた、ミリ単位で磨き上げられた蹄鉄を指差した。

 

「私は、走りながら『今のタイムはこれくらいだろう』などという感覚的な予測は一切していない」

「予測していない……?じゃあ、どうしてあんなに正確に……」

「自分の身体の『数値』を知り尽くしているからだ」

 

 先輩の言葉は、氷のように冷徹で、そして圧倒的な説得力を持っていた。

 

「私のストライドは、今の調子なら一歩につき何センチか。1ハロンを走るのに、正確に何歩を要するか。肺にどれだけの空気を取り込めば、心拍数がどの値で安定するか。……それらをすべて逆算し、機械のようにその『動作』を再現しているだけだ。結果として、タイムが正確に刻まれる」

 

 雷に打たれたような衝撃だった。

 私は今日、走りながら常に『速いかな?』『遅いかな?』と外の景色や風を感じながら、頭の中でタイムを予測しようとしていた。

 だが、先輩は違う。

 時計に自分を合わせるのではなく、自分自身の身体の動きそのものを、完璧な時計の内部構造に作り変えていたのだ。

 

「時計の数字を追うな。周りの景色も、風の強さも関係ない。……自分の内側の音を聞け。お前のその身体に積んでいる『エンジン』が、一番安定して回る回転数を知れ」

 

 先輩は再び椅子を机に向け、ヤスリを手に取った。

 

「……自分の歩幅も、呼吸の数も知らない未完成な歯車が、一朝一夕で時計になれると思うな。ひたすら回って、自分の身体のサイズを脳に叩き込め。話はそれからだ」

 

 ――シャッ……シャッ……。

 

 再び始まった、正確無比な研磨の音。

 それは、厳しい叱責のようでありながら、今の私にとって暗闇を照らす一筋の強烈な光だった。

 

「……はいっ! ありがとうございます、ルクス先輩!」

 

 私はベッドの上で正座をし、先輩の背中に向かって深く頭を下げた。

 焦る必要はない。私は不器用なのだから、一日でできるはずがないのだ。

 自分の歩幅、呼吸、心臓の鼓動。それらを一つ一つ、気の遠くなるような反復練習で身体に叩き込み、私だけの『エンジンの設計図』を完成させればいい。

 翌朝。

 再びコースのスタート地点に立った私は、昨日のような焦りや迷いはなかった。

 目を閉じ、深く息を吸い込む。

 思い出すのは、昨夜の先輩のヤスリの音。あの、寸分の狂いもない正確なリズム。

 

(景色は見ない。私の内側の、エンジンの音だけを聞く……っ)

 

 目を開き、地面を蹴る。

 歩幅を一定に。腕の振りを一定に。呼吸の深さを一定に。

 時計に合わせるのではなく、私という不格好な機械の『一定の出力』を保ち続ける。

 

「――ストップ」

 

 伊関さんの声で立ち止まり、恐る恐る振り返る。

 伊関さんは、手元のストップウォッチを見つめたまま、小さく眉を動かした。

 

「プラス0.6秒。……まだズレてはいるが、昨日までの乱高下が嘘のように安定しているな。走りの中で、加減速の迷いが消えた」

「……はいっ!」

「何か、掴んだようだな。よし、この感覚を忘れないうちに、もう一周だ。目標は誤差0.5秒以内。これをコンスタントに出せるようになるまで何度でも付き合ってやる」

 

 まだ、完璧には程遠い。

 だが、狂っていた秒針は、確かに前へ進むための正しい歯車と噛み合い始めていた。

 孤高の先輩からもらった不器用なヒントを胸に、小さな四駆は、再び静かにターフを蹴り出した。

 




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