祭りでも、怪物でもなく   作:藤沢大典

9 / 15
第9話:海外への挑戦と遅れてきた産声

 12月初旬。

 

 学園の木々が完全に葉を落とし、冬の冷たい空気が肌を刺すようになった早朝。

 まだ夜の帳が降りているような薄暗い寮の部屋で、私はルクスキャリバー先輩の旅立ちを見送っていた。

 部屋の隅には、完璧にパッキングされたシルバーのスーツケースが一つ。

 先輩は私服に身を包み、鏡の前で自分の姿を最終確認していた。これから彼女が向かうのは、日本を遠く離れた異郷――香港、シャティンレース場。

 そこで行われる世界最高峰の戦い『香港カップ』。それが、今の先輩が挑むべき次の『完璧な舞台』だった。

 

「……忘れ物はありませんか、先輩」

「私の辞書に、忘れ物という単語はない。すべては計算通り、予定通りだ」

 

 先輩は振り返ることなく、淡々と答えた。

 けれど、その背中からは、かつてないほどの鋭利な覇気が立ち上っていた。一国の威信を背負い、世界の強豪を相手に自分の『精密な逃げ』がどこまで通用するかを試そうとする、孤高の勝負師の背中。

 先輩はスーツケースのハンドルを握ると、ドアの前でようやく私の方を向いた。

 

「リバーライト」

「はい」

「私がいない間、部屋の掃除を怠るな。それから……」

 

 先輩は一度言葉を切り、私の脚元に視線を落とした。

 相変わらず泥が染み付き、けれど特訓によって少しずつ筋肉の張りが変わり始めた、私の不格好な脚。

 

「……時計の針を止めるな。たとえ誰にも見られていなくても、お前のその『重い一歩』を刻み続けろ。……次に会う時は、ターフの上だ。わかったな」

「……っ、はい!頑張ってください、先輩!応援しています!」

 

 私は深く頭を下げた。

 先輩は小さく鼻で笑うと、一度も振り返ることなく、カチ、カチ、と正確な足音を響かせて廊下の向こうへと消えていった。

 部屋に残されたのは、彼女が愛用していたヤスリの金属的な香りと、私を勇気づけるための、あまりにも不器用で力強い激励の余韻だけだった。

 

――――――

 

「――っ、ぬ、うぅぅぅぅぅぅっ!!」

 

 河川敷。凍てつくような冬の寒風を切り裂き、私の咆哮が響く。

 背後には、あの日からずっと私が引き摺り続けている、巨大な廃タイヤ。

 始めた当初は数センチ動かすだけで精一杯だった。けれど今は違う。

 

 ――ズズズズズズズッ!

 

 泥と霜柱を豪快に削り取り、タイヤが確かな速度を持って私の後ろをついてくる。

 肩に食い込むハーネスの痛みは、もう私の日常の一部になった。脚の筋肉が焼け付くような熱も、肺が酸素を拒絶して悲鳴を上げる感覚も、すべては『私という機械』が正常に稼働している証拠に思えた。

 

(一歩……一歩……! 重く、正確に……っ!)

 

 ルクス先輩から教わった『精度の重要性』。

 伊関トレーナーと積み上げた『土台の強さ』。

 それらが、私の身体の中でようやく一つの形になり始めていた。

 私はもう、ただ泣きながら泥を啜っていた落ちこぼれじゃない。

 地の底を這い、どんな悪路でも止まらない、小さな四駆の産声がすぐそこまで来ているのを感じていた。

 

「――そこまでだ、リバーライト」

 

 土手の上から、伊関さんの声が響いた。

 私はタイヤを止め、ハーネスを外して、大きく息を吐き出した。吐き出した息が、冬の空気の中で真っ白に輝く。

 

「……今日は、今までで一番いい動きだったぞ。地面を掴む力が、以前とは比べ物にならない」

「ありがとうございます。……あの、伊関さん」

「なんだ」

 

 私は、ずっと胸に溜め込んでいた問いを口にした。

 周りの同世代のウマ娘たちは、すでに秋のメイクデビューを終え、次々と初勝利を挙げて華やかなステップへと進んでいる。

 さらに私の心を焦らせるのは、来年入学してくるマキちゃんの存在だった。彼女はまだジュニアの身でありながら、出場する大会で無敗の快進撃を続けている。すでに学園の有名チームからも『来年の最大の目玉』として熱視線が注がれ、いくつものスカウトが水面下で動いているという噂まで聞こえてくるほどだ。

 

「私の……デビュー戦は、いつになりますか? 12月の後半のレース、まだ間に合いますよね?」

 

 ウマ娘にとって、10月から12月にかけてのメイクデビューは、翌年のクラシック三冠を目指す上での王道であり、一般的なスケジュールだ。

 しかし、伊関さんは私の問いに対して、即座に、そして冷淡に首を横に振った。

 

「いや。お前は12月には出さない」

「えっ……でも、それじゃあ同世代の子たちにどんどん置いていかれて……マキちゃんにも……っ」

「本来、この時期にデビューするのが定石だ。だがリバーライト、お前の肉体はまだ完成していない」

 

 伊関さんは土手を降りてくると、私の細い肩に手を置いた。

 

「これまでのトレーニングで確かにお前は強くなった。だがそれは、あくまで『壊れないための最低限の土台』ができたに過ぎない。お前の中に眠る化け物じみたエンジンを全開にして、一線級のエリートたちと長丁場を渡り合うには、まだ少し骨格の強度が足りない。今、焦ってデビューさせれば、お前は無理をして、いずれその代償に脚を壊して選手生命を終えることになるぞ」

 

 伊関さんの言葉は昨日までの自分を否定されたようで、胸の奥がチリリと痛んだ。

 でも、彼の瞳に浮かんでいるのは、落胆ではなく、もっと深い『確信』だった。

 

「いいか。お前はエリートたちが輝く秋のターフで咲く花じゃない。……凍てつく冬を耐え抜き、誰もが足を止める過酷な馬場の中で、一番最後に笑うための存在だ」

「冬を……耐え抜く……」

「来年の1月、中山レース場。そこをお前のデビュー戦にする」

 

 1月。それは、同期たちの多くがすでに次のステップへ進み、冬の寒さで芝が枯れ、馬場が最も荒れ果てる過酷な時期だ。

 

「12月の華やかなデビュー戦は、お前には必要ない。その代わり、この12月を死ぬ気で追い込め。一歩でも多くタイヤを引き、一秒でも正確にラップを刻め。……他の誰よりも遅い産声を、誰よりも重く、絶望的な音でターフに響かせてやるんだ」

 伊関さんの言葉が、私の冷え切った身体に熱を灯していく。

 

 遅れてきたデビュー。

 それは、周囲からは『間に合わなかった落ちこぼれ』の末路に見えるかもしれない。

 けれど、私の身体は覚えている。この数ヶ月間、誰にも見られない河川敷で、どれだけの泥を啜り、どれだけの重みに耐えてきたかを。

 伊関さんが私のために描いてくれた設計図は、誰よりも長く、遠くへ走るためのもの。

 

「……わかりました。1月……その日に、私のすべてをぶつけます」

「よし。……そうと決まれば、今日はあと5セット追加だ。脚を止めるなよ」

「――っ、はい!!」

 

 私は再びハーネスを肩にかけ、巨大なタイヤに向き直った。

 香港へ向かったルクス先輩の輝きは、今の私にはまだ遠すぎる。

 ジュニア界隈で一番星のごとく注目を集めるマキちゃんの背中にも、まだ手は届かない。

 

 けれど、この不格好で重苦しい日々こそが、私にとっての勝利への轍なのだ。

 誰よりも遅く、誰よりも強く。

 小さな四駆は、極寒の河川敷で、まだ見ぬ初陣へ向けて再び土をえぐり始めた。

 




もし少しでも熱いと思っていただけたなら、お気に入り登録、評価していただければ幸いです。リバーライトの走りの原動力になります!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。